できそこない
小狸
短編
世間では開口一番至極当然のように「○○することは誰にでもできる」と言われることがある。それは分野に囚われることはなく、どのような場面でも用いられる。そしてそれは逆説的に「○○することができない者は『誰にでも』にすら含まれない」ということでもある。それは僕のことである。僕には何もできなかった。当たり前だろ、当然だろ、普通だろ、通常だろ、一般だろ、出来て当たり前だろ。なんでできないんだよ。そう言われ続けて、辛酸を舐め続けてきた。もう舌の感覚は麻痺している。そんなことを言う輩のことを、僕は生涯理解することができないし、向こうも向こうで僕のような「できない」奴のことを理解してくれることはないのだろうと思う。誰にでもできるんだったら、こんなに苦労していない。学校に行くこと、勉強をすること、友達を作ること、誰かに相談すること、テストで良い点数を取ること、先生や親などの身近な大人と良好な人間関係を築くこと、受験をすること、就活をすること、決まった作業を正しくこなすこと、公序良俗に反さないようにすること、人に迷惑をかけないこと、人の普通から外れないこと。誰か何かから言われた「当たり前」なんて何一つ達成することはできなかった。僕は人間ではないのだろうか。多分、そうなのだろうと思う。誰にでもできることが、僕にはできない。両親は、そんな僕を嫌悪し、突き放した。詳細を言うのなら、中学から不登校になった僕を、腫れ物のように扱うようになった。多分、自分の息子がこんな風になっていることを、許容できなかったのだろう。どいつもこいつも、自分の子は普通に生きることができると思っている。何の障壁もなく、何不自由なく、である。きっとそれはあなたにも当てはまるのだろう。あなたは、「当たり前」ができたからこそ、今そうして普通に生きて、生きて、生きて――そして笑うことができているのだろう。僕が笑えなくなってから、もう長いこと時間が経過した。僕にはどうしてあなたが、あなた達が普通に笑うことができているのかが分からない。「当たり前」すらできない僕は、人間扱いされることはない。いくら努力しても、頑張ろうとしても、皆とは一つ、二つ以上、下に見られる。否、見られすらしない。可哀想だとも思われない。そういう人だと扱われる。分かるか、この気持ちが。いや、分かって欲しいなどとは一塵も思っていない。何度も僕は、信号を発した。助けて。苦しいよ。辛いよ。逃げたいよ。どうすれば良いのか。できない僕は駄目なのか。できない僕は、死んだ方が良いのか。何度も尋ねたけれど、誰一人として僕の問いに答えを出してくれる人はいなかった。自己責任。ぜーんぶ自分のせいだ。つらい。苦しい。そんな気持ちも、自分で解消しなければならない。何度も言うけれど、どうしてこんな死にたいだけの世の中で生きていこうと思えて、更に笑顔でいることができるのか、僕には分からない。それでも人を傷付けず、誰にも迷惑をかけず、無理をして頑張っているのに、誰も褒めてくれない。どうして僕は、生きているのだろう。誰のために。何のために。そして分かったことがある。世の中は今、平和を謳っているのだと。平和という言葉の裏に犇めく僕のような人間の存在は、完全に無視しているのだということを。平和、幸福、幸せ、笑顔。世界にとって僕は必要ではなく、他人に迷惑をかけるだけの存在でしかない。死んだ方が良い。いなくなった方が良い。消えた方が良い。ネット上では、皆は表面では隠していても、本音はそうなんだろう? 分かったよ。何度自分に死ねと願ったことだろう。何度自分の無能を呪ったことだろう。何度自分がその場所に適合しようと頑張ったことだろう。それらが上手くいくことはなかった。誰にでもできる、は、僕にできないだった。生きることは誰にでもできる――死ぬことも、誰にでもできる。次第に僕は、そう思うようになった。最初は、人への迷惑を考えた。簡単に死のうとすれば、人に迷惑をかける。救急隊員にも、親にも、お医者さんにも。死ぬなら確実に、一発で死ななければならない。間違って生きてしまってはいけない。それだけは、あってはならないことだ。そう思って、考えだ。人に迷惑をかけずに、死ぬことができる方法を。そう思って、今日も僕は、普通の人間のふりをして、買い物に行く。親からいい加減一人暮らしをするように言われて、言われた通りに一人で暮らし、親の金を啜りながら生きているのだ。死んだ方が良い。今日は野菜の特売日なので、品物があるうちに買わねばならない。寒かったので、コートを羽織って外に出た。そのコートは古いコートだった。なるべく人に会わなくて済むような平日の昼過ぎを狙って外出していた。その途中で、ある親子とすれ違った。子どもは女の子だった。言った。言われた。聞こえるような声で。「ママー、あのおじさんきもちわるい」「しっ。そういうことは言わないの」それを聞いて、聞いて、聞いて? 思わず僕は反応してしまった。声を出そうとしたけれど、人と話さな過ぎて、僕の喉からはかすれた咆哮のような音が出た。迷惑をかけないように生きてきたはずだ。生きているのが悪い、気持ち悪いことなんて、毎日自分に言い聞かせて、分かっていたはずだった。それでも、他人から言われるのは、僕には堪えたようだった。「黙れっ!」そう言って、歩道を歩いていた女の子を突き飛ばした。引きこもりだったためか、小さな子だったためか、力の加減が分からなかったので、女の子は、歩道の外側、車道の方に突き飛ばされた。そして、丁度その時、トラックが走ってきていた。
「あっ」その言葉が、誰の言葉だったかは、定かではない。僕か、母親か、それとも、その女の子か。その一刹那後。大きな音が響いた。人間の肉体と金属が衝突し、肉体が形を維持できなくなって壊れる音というのは、こういう音なのだと思った。トラックは急ブレーキをかけて止まった。運転手がすぐさま降りてきた。母親は僕に構わず、子どもの方へと向かった。僕はこれからのことを考えた。はいはい。また全部僕が悪いことになるのだろう。常識が欠如し、判断が欠落し、良識が存在しない。しかも今度は、真っ当な罪で罰されることになる。刑務所か。裁判か。慰謝料か。また駄目だった。また、駄目だった。当たり前にできる心の抑圧が、僕にはできなかった。女の子の無邪気な言葉なんて、無視すれば良かった。なのに。なのに。なのに。なのに。僕は我慢することができなかった。「■■ッ!!!!!」何か、喉から音が出た。その音を言語化することは、僕自身にもできなかった。僕は走った。思いっきり走ったことなど、小学校の体育の時間以来であった。走るたびに、今までの人生は強制的に思い出された。僕は首を振りながら、大声を出しながら走った。走って。走って。走って。走って。走って。走って。走って。走って。走って。市役所の通りを抜けて、もう少し先に大きな川がある。いつか入水自殺するならここにしようと決めていた場所に辿り着いた。僕を追いかけて来る人は、誰もいなかった。ほら。僕は独りだ。僕は、手すりに足を掛けた。最初で最後に、僕は一歩を踏み出した。世界にとっては矮小な一歩だが、僕にとっては唯一の一歩だった。
(「できそこない」――了)
できそこない 小狸 @segen_gen
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