月と太陽

@ken1harahara

第1話 私ってね

「あのねあのね!わたし、これ、すき!」

 いつかの夢を見た。お母さんとお父さんとまだ歩けるようになって間もなかったと思う。うきうきした気持ちで公園にお散歩をしに行った。秋晴れと気持ちのいい日だった。お母さんに落ちていた落ち葉を拾い上げていったんだ。小さいころの記憶だし、もしかしたら昆虫かもしれない。シーンだけは覚えていても詳細までは覚えられなかった。

 お母さんは私に向かって微笑みながら何かを言っていた。なんて言ってたっけ?あれ、どんな顔だっけな。やっぱり小さいころの記憶はあてにならないな。

 お父さんはそこにはいなかった。一緒に来たはずなのに何をしていたのかふらっとどっか行ってふらっと戻ってくるような人だった。

 シーンは切り替わった。記憶という映像が時間を経て、加工・編集されていく、それは気持ちによっても変わっているのだと夢を見るたびに思う。

 さっきまでは「幸せ」な記憶。ずっと続いていてほしい、宝物。

「ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい」

 目の前に映っているのは泣き叫ぶ少女だった。彼女の足元には散らかった卵や牛乳やベーキングパウダーなどが散らかっている。袋から破れて一面真っ白になっている。

 確か、お父さんが帰ってこなくなって、忙しくなったお母さんのためクッキーを焼こうと準備をしていたんだ。けれど、この時の歳は八つくらい。手もまだおぼつかなかったから全部をひっくり返してしまった。そのことが母の逆鱗に触れた。いや、きっと、ずっと溜まっていたんだ。私に対しての不満を、ずっと。




目が覚めると、時間はまだ日も上りきれていない時間だった。空気は重々しく、日も入らないので視界も暗かった。

時々、今日と同じ夢を見る。幼かった自分がまだ、私だった記憶。明るい夢と暗い夢が泡沫のように出ては消え、消えは出るを繰り返していた。そんな日の自分のテンションはだいたいどこか落ち着かなくなる。海の底で沈んでいるような、けれどたまに海面近くまで昇って行けるような気分。今日こそは、と思うけれど海の底に繋がれた鎖は簡単には剥がしてくれない。そういう時、私はいつも――。

「おはよう、ルナ」

ベッドの上でぼーっとしていると、決まって駿くんが声をかけてくれる。二年前、同じ施設で出会った男の子。今では一緒に暮らすほど親密になっている。

「おはよう駿くん、今日も見たの」

「今日もか、ほらココア。まだ冷えるから」

駿くんこと、中谷駿は私の彼氏で数少ない理解者だ。私以外の私にも、積極的に関わってくれる。記憶こそないが、駿くんから話も聞いている。

私と出会う前、なぜ私と同じような施設に入ったのか、施設の規律のため聞けなかったが、それでも私に優しく接してくれて、包んでくれた。だから彼の優しさは間違いじゃないと思ったし、それを信じたいと思ったんだ。

「私ってね、子どもの時から変わってないなって思うの」

「そんなことないよ。ルナは最初の頃、僕と話をしてもくれなかったじゃないか」

小さい頃――夢に見たあの日以降、私は児童養護施設「ひまわり」で保護される事になった。人をあまり信用できるようになるまで三年以上かかっていたにも関わらず、駿くんは私のことを気にかけてくれた。何故そこまで気にかけてくれるのか、駿くんに聞いた事がある。その時には話してくれなかったけれど、今になると私の事が好きでいてくれたのだと思う。

「今日は学校休む?」

様子を窺うような声の問いかけに、私はできるだけ優しく、断りの旨を伝えた。彼は眉尻を下げた笑みでなら朝ごはんを作ってくると言って部屋を出てしまった。




大学は家から電車を乗り継いで三十分のところにある。

元々、大学には行かずに施設を出た後は就職する予定だったけれど、駿くんの熱烈なアプローチから同じ大学に行くことに決めた。

受験勉強は数年かけてコツコツやったおかげで、同じ学部ではなかったけれど、入ることができた。

最初は不安が大きかった。小学校、中学、高校のどれもみんなと同じような「普通」の学校にはいけなかったから、周りにいるのは私と同じような変わった子ばかりだった。だからこそ、大学は私が初めて「普通」と触れ合う機会になる。もし、私が何か失敗したら、大学でも居場所がいなくなるのかもしれない。そもそも、触れ合うことができるかもわからない。胸が締め付けられる。

 大学初めのオリエンテーション。グループ活動で自己紹介をメインにトークが繰り広げられていた。私はせわしなく辺りを見渡しは水分を取り、水分を取ってはわまりを見渡すそそっかしさがあった。

「ねえ、あなたはなんて呼べばいい?」

不意に、前の席に座っていた女生徒が話しかけてきた。大学生らしく、髪を綺麗に染め上げている可愛らしい女の子だった。化粧は薄く、それでも可愛さを保っていられるのは彼女の本質が綺麗なんだろうなと感じた。

「私は、ルナ、でいいよ」

「ルナちゃんって言うんだ。可愛らしい名前だね。私は明香里、藤野明香里だからあかりんとかだいいよ」

それから数回にわたる明香里からの尋問があった。好きなもの、嫌いなもの、趣味、大学にきた理由。一つ一つ、変な回答をしないように言葉を選んだ。少し嘘も着いたと思う。嘘への罪悪感で一層体は萎縮してしまう。けれど明香里は私のことを輝いた目で見つめてきた。眩しいな。

それから、明香里は私に友人を紹介してくれた。「可愛くない?しかもめっちゃいい子」なんて言ってくれたけど、嘘も吐いたと思うと素直に受け入れられなかった。

今日は午前中の授業だけで、その後の予定は空っぽだった。駿くんはバイトが入っている。暇を持て余してもいいことがないなと思ったから、夜ご飯のために買い物に出かけた。夜ご飯はカレーかな。駿くんの好物でもあるから喜んでもらえる。一度考えれば簡単だ。後はスーパーで材料を買って作るだけ。

今日は比較的調子のいい日だ。トラウマの夢で気分は少し良くなかったけれど、それでも人並み程度の生活を私の手でつくってる。そう、思っていたのに。

私の意識は急に遠のいていく。深い深い海の底沈むようにおちていく。

私は、ワタシへとなっていく。

「今度は、誰なんだろう」

そうして、スーパーへ行く道中、私の意識は消えてしまった。

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