古代ローマもう一人の英雄物語

シャリアちゃんねる

第1話 新たなる始まり

桜がほころぶ春の夜。疲労にまみれた一人の社会人が、己の運命に導かれるように新たな物語を刻み始める。

桜の花が通勤路に薄紅の彩りを添え、年度替わりの慌ただしさが漂う四月。社会は新たな始まりを迎え、喜びと期待、不安が交錯する季節だった。柿薄総司は、大手企業で営業主任から係長に昇進したばかり。しかし、それが彼にとって大きな喜びとなることはなかった。

日々の仕事量は膨大で、部下を抱える立場になったとはいえ、彼の肩に乗る責任の重さは変わらない。もともと真面目で責任感の強い性格ゆえに、総司は自分の限界を超え、常に周囲の期待に応えようとしていた。

その日も深夜まで残業をこなし、上司からのプレッシャーや部下たちのフォローに追われる。やっとのことでオフィスを出た総司は、気の置けない同僚たちの誘いに応じ、軽く酒を飲んで帰宅した。家に帰り着くと、いつものように寝巻きに着替え、ベッドに身を沈めた。

「うーん、気持ちいい。このまま死んでもいいや…」

それが、総司が最後に記憶した言葉だった。

目を覚ますと、風が頬をなでる。見知らぬ空、ざわめく市場の音。総司は朽ちた布切れにくるまれて横たわっていた。

「ここは…どこだ?」

体を起こすと、自分の小さくなった手に気づく。目に映るのは、10歳にも満たない少年の姿だった。驚きと混乱の中で、彼は手近な水たまりに映る自分の顔をのぞき込む。やはりそこに映るのは、現代の自分ではなく、飢えと疲労の影が差した子どもの顔だ。

「これ…夢だよな?」

呟いてみるが、耳に届く声はあまりにも幼い。総司はふと市場のざわめきに耳を傾けるが、聞こえてくる言葉はまるで理解できない。

腹が減ってきた。夢の中で空腹を感じることに違和感を覚えつつも、耐えきれない飢えに駆られ、近くの市場に足を向ける。そこで彼は、棚からパンを一つ失敬する。

「ごめん…ごめん…」

罪悪感に苛まれながらも、空腹を満たすために食べたパンの味は、妙にリアルだった。

「これ、本当に夢なのか…?」

次の日も、その次の日も、総司は目を覚ますたびに同じ場所、同じ状況に戻る。そして再び空腹が彼を襲い、ついには市場の常習犯として追われる身となった。

ある日、追っ手を振り切ろうと市場を駆け抜ける途中、一人の男にぶつかり転んでしまう。男は優雅な身なりで、品格のある顔立ちをしていた。

「このガキだ!こいつがパンを盗んだんです!」

市場の店主が血相を変えて叫ぶ。男――マルクス・トゥッリウス・キケロと呼ばれる哲学者であり弁護士である人物は、転がる総司を見下ろした。

「さて、君は一体何者なんだ?なぜこんなことを?」

キケロは厳しいながらも慈悲深い口調で問いかける。総司はとっさに現代日本語で弁解するが、もちろんキケロには理解されない。異国の言葉を話す少年に興味を抱いたキケロは、総司を捕まえる代わりに市場の損害を弁償し、彼を家へ連れ帰ることにした。

キケロの屋敷は本であふれ、知識と知性の香りに満ちていた。総司は彼が「キケロ」であることに驚愕する。歴史の教科書で見た名前、その人物が今、目の前にいる。

総司はキケロの質問に答えることを拒み、出生や過去については一切語らなかった。ただ、自分の名を「カキウス・ソウジ」とだけ名乗った。

「面白い少年だ。私の手元に置き、君が話す言葉や文字について研究させてもらおう」

キケロは微笑を浮かべた。その日から、総司の新たな生活が始まった。キケロからラテン語を学びながら、自らの状況を分析する日々。数か月後、彼は片言ながらもラテン語で意思疎通ができるようになる。

総司は自らの脳が子どものように柔軟であることを実感し、現代日本の知識と経験を活かしながら、この異世界――古代ローマで新たな生き方を模索し始める。

そして彼は思った。

「ここが共和制ローマならば…カエサルがまだ若い頃に違いない。この歴史の転換点で、俺は何を成すべきなんだ?」

彼の目は新たな可能性に輝き始めていた。


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