クジラの国

カフェオレ

第1話

 空を見上げる。

 いくつもの雲が自由に空に浮かんでいる。まるで空という海を泳ぐ魚達。

 いや、雲は自由に空を飛んでいるのではない。ただ流されるままに漂っているだけか。そして私達人間は世間という海で泳ぐ魚といったところか。

 違う、私達も泳いでなどいない。進む方向もわからず、ただがむしゃらにもがいて、しかし結局は大海の荒波に揉まれ、流されるままに流されて無様に漂流するだけの小さな弱き存在。

 仕事の休憩時間。いつものごとく公園のベンチで一人コンビニ弁当を食べながら金城祥子きんじょうしょうこはそんなことを考えていた。

 大学を卒業し、OLになってから常にこんな状態だ。目的も夢もなく、大して仲良くもないお互いに無関心な同僚達と何の意義も達成感もないつまらない仕事をする毎日。

 一人暮らしという身分だからもっと友達と遊んだり、彼氏を作ったりすれば多少はマシになるのだろうが、祥子は人付き合いが苦手だし、一人でいる方が楽なのだ。でもその癖孤独を感じるとどうしようもなく不安になり、焦りを覚えるという面倒くさい性格。何とも生きづらい。

 何か趣味といった有意義な時間を持っているかというとそんなこともない。仕事がなければただ手持ち無沙汰に日々を送っているだけだ。その休みさえ最近はろくに貰えていない。アパートと職場を往復するだけの人生。なのに何故かお金は貯まらない。

 なぜこんななんだろう。私って可哀想な女。

 ぼーっと空を眺めているだけでとめどなく負の感情が湧いてくる。こんなに穏やかな空なのに。いや、穏やかな空だからこそだ。この空に対して自分の悲惨な境遇が対極にあるような気がして余計に祥子の憂鬱な思考に拍車をかけているのだ。雲はそんなことも気にかけず呑気に流れていく。

 その時、空に一際大きな雲を見つけた。今までずっと空を眺めていただけなのに気付かなかった。なんて自分は間抜けなんだろう。

「クジラ雲」

 知らず彼女はそんなことを呟いていた。

 小学校の時の国語の教科書にそんなタイトルの話が載っていた。確か学校で授業をしていた小学生達がクジラの形をした雲を見つける話だ。その雲のクジラがみんなを背中に乗せてくれて空を泳いでいくといった内容だった気がする。哀れな社会人もその背中に乗っけて遠い夢の国にでも運んでくれないだろうか。

「クジラ雲ですね」

 頭上から声をかけられハッとする。

 見上げるとそこには青年が立っていた。

「隣よろしいですか?」

「え、ええどうぞ」

 祥子はどぎまぎして答える。彼の声は柔らかく優しさを含んでいるような感じだし、顔もなかなか悪くなかったからだ。

 青年は隣に座る。普通初対面の男ならもっと警戒するところだろうが、彼の柔らかい物腰と丁寧な口調のおかげか拒否感は起こらない。

 見たところ未成年かどうかといった年齢だろうか。としたら十八から二十歳ぐらい。祥子とは十歳ほど離れている。それにしては口調は丁寧だし年齢に不相応な落ち着きがある。

「懐かしいですねクジラ雲。小学生の時に読んだなぁ」

「そうなんだ。私の頃の教科書にも載ってた」

「そうなんですか。おっと失礼、自己紹介をしていませんでしたね。僕は鯨波海くじらなみかいといいます。鯨の波で鯨波。カイは海です。面白い名前でしょ?」

 鯨波はちょっと照れくさそうに言った。

「いいえ、素敵な名前よ。私は金城祥子。あなた学生さん?」

「違いますよ」

 こんな昼間からぶらぶらしているならサラリーマンではあるまい。スーツも着ていない。

「ニート?」

「んー、まあそんなところです。そういえば何だか浮かない顔をしてましたね?」

 話を逸らされた。職業については訊かれたくないのだろう。

「まあ色々あるのよ大人は」

「仕事ですか? それとも人間関係?」

「全部かな。もう全部が不安でどうしようってなるんだけど、逆に人生どうにでもなってしまえって感じ」

「ええ、わかりますよ」

 こんなニートの若造にはわかるまい。祥子は鼻で笑いたくなった。

「もし私がいなくなっても誰も困らないのよね。親とは離れてるし、仕送りなんてしてないから全然親孝行も出来てない。職場だって私のこと知らない人の方が多いだろうし。いっそいなくなれたらって思うけど、そんな思い切ったことも出来ない臆病者なのよ私」

 何故か彼にはするすると自分の心の内を明かすことが出来る。こんな人物に最近会った覚えがない。なんだか居心地がいいな、と祥子は思った。

「でももしクジラ雲に乗れたら……」

「え?」

 鯨波は祥子を見つめると言った。

「どこに行きたいですか?」

「どこって別に……」

 行きたいところなんてない。そう言おうとしたが言葉が出なかった。

 祥子は鯨波の視線に釘付けになった。整った顔立ちだ。彼の口から発せられる言葉が直接脳内に入ってくるような抗い難い感覚。どうしたんだろう私。

「夢の国……とはいかないけど素敵な場所まで行ってみませんか?」

「素敵な場所……」

 鯨波は立ち上がり空を掻き回すように右手を上げて動かす。

 すると雲がどんどん集まりクジラ雲はより大きな塊となる。

 クジラだ。祥子は思った。クジラがやって来る。

 クジラ雲が出来上がると、鯨波はクジラに手を振りこっちへおいでと言う。

「お連れしましょう。クジラの国へ」

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