第11話 すきって便利な言葉

 一、二、三。

 三秒立ってから月丘は席を立った。そうしてわたしの隣に座ると――壊れ物を扱うようにそっと、わたしの頭を撫でた。

「僕のニコ」

 強引だった。

 その手は力強くわたしを引き寄せる。わたしはバランスを崩しそうになって慌てる。まるでタックルを食らったような勢いで、わたしたちはもつれるように倒れた。

「痛くなかった? ごめん、勢いが余ったようだ。気持ちがいてしまって」

「大丈夫だけど、いつも女の子をこんな風に押し倒すのはちょっと引くと思うな」

「慣れてないのにそんなことを言うなんて」

 固く抱きしめられる。久しぶりのことだった。

 ああ、そう。これが男の人の身体で、女とは基本的に骨格が違う。月丘の吐息が耳元で聞こえるのを、不思議な気持ちで聞いていた。


「僕も男だってことだ、情けないけど」

「なにかコメントした方がいい?」

「いや、なにも言わないで」

 月丘は身体を硬くしていた。そのままじゃ肩凝りしてしまうんじゃないかとわたしは思っていた。

 それにしても何時までこの姿勢のまま固まっているのか、なんだか本来の目的とは違う気がして気になってくる。

 思い切ってわたしは口に出した。

「月丘⋯⋯悪いんだけど、痛いよ」

「ああごめん!」

 彼は驚いたように飛び退いた。まるでそんなこと、考えてもいなかったかのように。

 そして両手を上げてこう言った。

「ニコから許可が出たものだから」

「そうじゃなくて、前みたいにもっとやさしく抱きしめてくれない?」

 今さらだったけど、口にしてみる。月丘も、そうだね、と言った。


 月丘のコロンの匂い。

 彼の腕の中はわたしにピッタリだった。広さといい、心地良さといい。わたしはうっとりして悲しみもどこかに飛んでいきそうになる。嫌なことはさよならだ。あんな男のことは記憶の彼方にやってしまえ――。

 とん、と頭を月丘の胸に当てる。上から心配そうな視線が降ってくる。いつも自信に溢れている月丘とは、違う瞳が揺れている。

「抱く? いいよ、このまま」

「それは僕たちの関係を壊しかねない」

「いいじゃない? 恋人に昇格だよ」

「ニコ⋯⋯」

 彼は腕を伸ばしてわたしを引き剥がした。

 接着テープのようにベリベリッと音がした気がした。

「そういう八つ当たり的な行動は慎んだ方がいい。君の美徳をすべてダメにする。今のは僕も失望した。君にとって僕はそんなに安い男なのか?」

「ごめんなさい! 安くない。かけがえのない人だよ」

「自分をもっと大事にしてくれ。押し倒しておいて言える台詞じゃないけど」

「もう一回だけ抱きしめて。そうしたら帰るから」

「もう一回だけだね。ちょっと寂しいけどそうしよう」

 友達のハグだね、と言うと、彼は「友達のハグだよ。だから安心して」と言った。

 月丘は完璧な男友だちだった。


 ◇


 部屋に戻るとドアの前に慧人が座り込んでいた。もたれかかった背中が寒そうに丸まっていて、いつからここにいたんだろうと疑問に思う。

「どうしたの?」

 わたしは彼を一瞥いちべつすると、その存在を無視するように自分のカバンから鍵を出してドアを開けた。慧人は「よっ」と掛け声をかけ、立ち上がる。こっちを見ようとしない。

「誤解をときに来たんだ」

「誤解はなかったって、お昼にもう確認済みだから帰って」

「だから誤解だって」

「出て行ってよ! もう会いたくない!」

「⋯⋯本気で言ってるのかよ」

 大きめのリュックは床にドサッと落ちた。無理やり押し付けられた唇はすっかり冷えていてカサカサだった。

 ああ、こんなことなら月丘ともキスくらいしてくればよかったと、自分を大事にしない方向で考えてみる。その方が話はスムーズだったかもしれない。


「あの男のところにずっといたの?」

「慧ちゃんには関係ない」

「あの男を切れないのかよ?」

「慧ちゃんだってわかってるでしょう? わたし、月丘以外に友達がいないことくらい」

「友達なんてニコならすぐできるよ」

 水かけ論。

 段々、どっちが浮気をしたのかわからなくなってくる。最低だな、この男。自分のことは棚に上げて。わたしのことを『自分のモノ』扱いしないでほしい。


「本上さんに乗り換えればいいじゃない!」

「だから彼女とは友人関係以上じゃないって」

「よく言うよ。そういうのって、見ればわかるんだよ」

 はぁっと慧人は息を吐いて、こたつに入った。「冷静に話をしよう」と言って。

「彼女とは本当になんでもないんだ。友だちのひとり。この前、確かにふたりでDVDを観たけどそれ以上でもそれ以下でもないよ。空きコマだったんだ、たまたまふたりで」

「いい加減にしてよ! 女の子、連れ込んだんじゃない」

「ニコはあの男を部屋に入れたことはないのかよ? あるだろう? 風邪をひいた日、たまたまここにいた? 偶然なんてあるもんか!」

「DVD観ただけで部屋がキレイになるわけないでしょう? あの人、あんなに大人しそうな顔してよくやるよね? ⋯⋯わたしがいつも枕代わりにしてたクッション、わざとベッドから落としていったんでしょう? 自分たちのしたことを誇示するために」

 ガタン、と大きな音がして、気が付くとまた床の上だった。どうやら慧人がわたしを突き飛ばしたらしい。

 一日に二回も床に倒されるなんて、奇妙な日だなと思う。


「彼女はそんなにしたたかじゃないよ!」

 倒れた時に打ったところがズキンと痛んだ。それだけだ、心が痛いのは。

「もういいよ、行って」

「⋯⋯あの男と別れてくれ」

「だから付き合ってないってば」

「男として、あんな男と比べられたらプライドが傷付くんだよ。なんであんな完璧な男と⋯⋯」

 わたしの方が余程泣きたかった。ほかの女を庇う男のためになにをしろと言うんだ? フローリングの床からそろりと起き上がり、頭を打たなくて良かったと思う。

 そっと手を伸ばして、ひざまづいた彼の髪に触れる。何処にも変わりはない。だけどこの人は変わってしまったんだ。わたし以外の女を知って⋯⋯。


「ニコ、やり直そう。中学の塾でお前を送った時から、俺、もうお前がすきだったんだ。高校に入ってからもいつ俺の存在に気付いてくれるかなってずっと思ってた。お前を想う気持ちは積み重ねると俺の方がずっと多いよ」


 思ってもみなかった。

 あの、恥ずかしくふたりで歩いた夜道が目に浮かぶ。見えたかわからない月明かりまで見える気がしてきた。コンビニの看板が煌々と光を放ち、そして彼は手も振らずに「じゃあ」と寒い中、自転車を走らせた。

 ――わたしだってあの時、キュンときた。まだ十五だったんだ。少女マンガに憧れる世代のド真ん中だった。まるで白馬に乗った王子様のように彼は現れ、そして去っていった。颯爽と。


「わたしのどこがそんなに?」

「クラスでいちばんかわいかったよ。ダントツだった。性格もサッパリしてそうで、笑顔がさぁ、どストライクだったから」

「そうなんだ。それも遠い昔の話だね」

 王子様が目の前にいたのにわたしの心は急に萎んでしまった。朝顔が昼には萎むように、きゅうっと。お茶くらいは出してあげるかと、ケトルに水を張る。カチンとセットすると振り向くより前に、彼はわたしを後ろから抱きしめた。


「どうしたの? 話したらあの頃の気持ちを思い出しちゃったとか?」

「ニコ、やり直そう。ニコがいないと息苦しくなる」

「死んだ魚じゃあるまいし。もっとも、わたしの心の中の慧ちゃんはもう死んだも同然だけど」

「ニコ、すきなんだ」

「本上さんの方が女性として格上だよ。スパゲッティのシミも飛ばさないし」

 シミが飛ぶわたしの方がすきだと言った月丘のことを考えると胸がズキンとする。針で刺されたような痛みが走る。

「すきなんだ⋯⋯」


 すきって便利な言葉だな、とわたしは思っていた。

 それはすべての免罪符になる。

 慧人が彼女よりわたしをすきなら、すべてが許されるかのような⋯⋯。

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