第10話 残念ながら
本上さんは手を離したあとも、月丘の顔を見ていた。気持ちはわかる。月丘の日本人にしては風変わりな習慣に驚いたんだろう。
「なにか付いてます?」
「いいえ、なにもないです」
彼女はパッと視線を外すと、顔を真っ赤にして自分のミートソースパスタにフォークを突っ込んだ。
わたしたちはその後、無言で麺をすすった。ずるずるずるずる、海外に行ったらマナー違反だと嫌な顔をされるだろう。
いつも何を考えているのかわからない月丘はいつも通りで、わたしの隣と斜向かいからは緊張がビンビン伝わってきていた。
わたしはというと、慧人は本当にバカなんじゃないかと頭に来ていた。それは彼女とご飯を食べているからではなかった。そんなことで腹を立てるなら、わたしと月丘だっておかしなことになってしまう。申し開きのしようもない。だから、そうじゃなくて。
わたしの座るイスの背もたれにはいつもの茶色いツイードのコートがかけてあった。わからないものなんだろうか? いま、流行ってるわけではないこの古いコートの意味に気づかないほど心は離れてしまったんだろうか?
目の前からすっとティッシュが渡される。熱いものを食べて余計、刺激を受けたせいか鼻水だけではなく、涙が……。
「ありがとう」
小走りに近くのトイレに向かった。
情けない、悔しい。
一体、どうなっちゃったんだろう? なんでわたしは聞けないんだろう? 「その子はなんなの」って。目の前にいる時にハッキリさせてマウント取ればいいのに。
鼻がズビズビいって、軽く引いたアイライナーが滲んだ目元をティッシュで押さえる。
ああ、そう。月丘をひとりで置いてきてしまった。逃げないであそこにもう一度戻らなければいけない。深呼吸して、背筋を正して。
「彼らは帰ったよ」
すべての覚悟はおジャンになった。ため息をつきながらイスを引いた。
「ニコの知っていること以外に報告するようなことはなにもなかったから」
「そう……」
ふたりはイチャイチャして手を繋ぎながら人前でキスしたりはしなかったということか。大人しそうな子だったな、とふと思い出す。大人しそう。キレイな髪にやさしそうなメイク。ピンクのストール。
「大人しそうな子だったね」
「ああ、月丘もそう思う?」
「ニコに似ていないのは確かかな。ニコみたいに芯が一本通ってる感じじゃない」
「なにそれ。でもさ、それじゃあ、慧人が……慧人から」
「さあ、僕たちも行こうか。彼らも次の講義があるから行ったんだろう? 僕らも時間が無い」
二人分のトレイを躊躇いなく軽々と持ち上げて、月丘は立ち上がった。月丘が戻るまで荷物の番をしながら、バカな女になる。
⋯⋯慧人は、ああいうタイプが本当は好きなのかもしれない。わたしはいつも男みたいだと言われてきたし、大人しくて女らしい子が好みなのかもしれない。わからないことがたくさんある。
「ニコ、そういうのは考えるだけムダだと思うよ。それはどんなに勘繰っても答えが出ない問題だ。必要なのは回答集の方ではないかな」
回答集。
まさにその通りだ。わたしの聞きたいことを問一から順に解説してもらえれば、悩まなくて済む。
「やっぱりわたしが男っぽいってことかな?」
「どうしてそんなことを?」
「わたしと慧ちゃんはほとんど背の高さも変わらないし、わたしの髪は限りなくベリーショートに近いし、体はストンとなにかが引っかかるところもない」
月丘は笑った。なんだよもう、と恥ずかしかった。
「僕から見たニコと、ニコの考えるニコは全然違うよ。ニコはすらっと背が高い。大抵の女の子はそうなりたいと思う体型だと思うけれど。顔立ちだって顎のラインからすべてシャープだし、それを短い髪がよく引き立てている。どこもほかの女の子と比べて劣ったところはないよ。僕の好きなニコはほかの女の子よりずっと素敵だ」
並列に歩いていたわたしの頭を、月丘は気軽にポンと叩いた。こんなことをスラスラ言えるくらいにはわたしに本気じゃないんだな、と思うと少し悔しくなった。
「時々思うことがある。いっそ僕が女だったらニコをもっと悩ませずにいられたかもしれないと。今みたいに悩んでいる時、女同士ならニコの部屋で朝まで話を聞いてあげることができるのに」
月丘はさみしそうに笑ったので、きっとそれは本心から出た言葉だったんだろう。わたしはそれを想像してみたけれど、どうにも上手いこと想像しえなかった。想像の中の月丘は男のままで、どうしてそのまま朝まで話を聞いてくれないんだろうとどうしようもないことをぼんやり考えた。
北風がわたしたちを飛ばすように背中から吹いて、わたしたちは無駄口をきかずに講義室へ走った。
◇
講義が終わるとわたしの気持ちはまたひとつダウンして、悲しみが心の奥からじんわりと湧き出した。彼女を実際に身近で見てしまったというショックは簡単には消えるものではなかった。
綺麗な人だった。清楚で、大人しそうで。
どう見ても、慧人と彼女――本上さんはカレカノだった。その仲に割り込んでいるのがわたしだと思えてくる。
なにもわからないバカな女のふりもやればできる気もする。『嘘』という名の真実にぶら下がって暮らしていけばいい。
あの子はただ趣味の合う仲のいい女の子で、わたしと月丘みたいなものだ、と。
違う。あの親密な雰囲気、慧人の少し強引にイニシアティブを取るところにすっかり慣れている様子、そういうことがすべてを物語っている。
足元を軽い
わたしの頭の中は結局、慧人でいっぱいなんだ。そう思うとバカバカしくて涙が出そうになる。
⋯⋯わたしたちの三年って、なんだったのかなぁ?
空を見上げる。瞳に涙が盛り上がるのを感じる。
月丘がなにも気付いてないふりをしてくれているのが、せめてもの救いだった。
「やっぱりそうなのかな?」
「残念ながら」
「『あきらめる』ってどうやってやるんだっけ?」
「僕がニコをあきらめようと悪戦苦闘してるのに、どうして答えられると思うんだい?」
月丘の上質なコートの裾が風に揺れる。この男は寒いという感覚がないのか、今日も背筋がピンと伸びている。あたかも悩みなどないかのように⋯⋯。
いっそこの男の胸の中に障害物など飛び越えて、ドンと飛び込んでしまえたらどんなに楽なことか、と狡いことを考える。だって、こんなに悲しみが溢れている。
「月丘、『抱きしめて』って言ったら抱きしめてくれる?」
わたしは狡い。
「どうしたの? 癖になった?」
「ううん、なんでもない」
月丘は苦笑した。目元がやさしくて、甘いキャンディーのようだった。
「僕の部屋でお茶でもするとしようか」
「うん、それで?」
それでどうするんだろう? まさかお茶だけして帰るわけじゃなかろうに。
◇
「お邪魔します」
月丘の部屋に着くと、コンクリートの
わたしは「お邪魔します」と言って低い段を上がると、リュックとコートを外す。月丘がおじさんコートを受け取って、ハンガーで鴨居にかけてくれる。月丘の黒いロングコートの隣に。
わたしはいつも彼と歩いている時、わたしたちはこんな風に見えているのかとコートを眺めていた。古い、ツイードのコート。「流行らないよ」と慧人に言われても大切に着てきたコート。それさえもバカらしい。――なにを守ってきたんだろう?
と過去を振り返っていると、濃緑色のお茶が前に出てきた。
「どうぞ。今日のお茶は特別なんだ。静岡の川根茶と言って、上質なことで有名なんだ」
「貴重なの? そんなお茶、飲んじゃっていいの?」
「僕が特別な時に飲むくらいには。ニコに飲んでもらうのは特別なことだよ」
甘い言葉が耳からそろりと入ってきて、わたしを溶かす。お茶の瑞々しい色と香りが心を新鮮な気持ちに洗い流す。
「足は崩して結構だよ」
「あ、畳って慣れなくて」
「最近はそういう住宅が多いだろうね」
そう言うと彼もお茶に口を付けた。
「お茶っていうのはね、色と香りと旨みでできている。このお茶は静岡茶だから旨みは軽い渋みになっているけれど、関東の人は渋いお茶がすきだからね」
「渋くないお茶もある?」
「九州のお茶は特に甘いね。ああ、こんな話、面白くないか」
そう言って彼は両肘をついた姿勢で頭を抱えた。なにをそんなに考える必要があるのかわからなかった。考えなくちゃいけないのはわたしの方で、月丘ではない。悩まなくちゃいけないのはわたしだ。
「ニコ、時に彼のことを忘れようと思ったことはないの?」
「⋯⋯あるよ。今回のことはすごく堪えたから」
「そうではなくてほかの時にも」
「ない。慧ちゃんは今まで浮気はしなかったし、わたしを不愉快にすることは全然なかったもの。たまに友だち優先だと頭にくることもあったけど、そんな小さなことで別れる必要はないでしょう?」
いっぺんに喋ったわたしはお茶をずずっと啜った。まだ熱かった。
「そんなにすきなんだね」
「多分ね」
月丘はまた頭を抱えた。
古そうな壁掛け時計の音がカチッ、カチッ、と律儀に音を立てる。それ以外に部屋に音を立てるものはなかった。
「エアコンをつけ忘れたよ」
さっと彼は腕を伸ばすと、座卓の新聞の上に置かれていたリモコンを手に取る。ピピッという音の後、わたしたちの沈黙を破るようにエアコンの吹き出し口から風の音が漏れた。
「⋯⋯目的を覚えてる?」
しっとりした口調で月丘はそう言った。やけに艶めかしくてわたしを混乱させる。
「『抱きしめて』って言ったこと?」
「そう。撤回するなら今だよ」
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