第4話 わたしを一番よく知る人
翌日、慧人は現れなかった。
想定内のことだった。浮気のせいかもしれないし、風邪がうつるのが単に嫌だったのかもしれない。いや、今までがそういう人だったというわけじゃない。そうでも思わないと、わたしがやり切れないだけだ。
昨日とは打って変わって、風のない穏やかな朝だった。窓ガラスから覗く空はガラスに絵の具を薄く塗ったように平板な青だった。手のひらに伝わるガラスの冷たさが、室外の寒さを思い知らせた。
月丘の看病が良かったせいか、熱はとりあえず落ち着いたようだった。そう思って軽くシャワーを浴びるとまだ早い時間だというのに月丘が現れた。彼には当然、合鍵を渡していないのでドアチャイムを鳴らして正攻法でやって来た。
「おはよう。病院に行こうと思って迎えに来たんだ」
「え? いいよ、こっちでかかったことないからどこがいいのかわからないし」
「僕が以前かかったところがあるからそこに行こう」
えー、と言いながらうだうだしていると、止まらない咳がまたやって来る。
「今、熱が下がっていたって夜になれば上がることがある。咳もひどい。病院に行かないなんて信じられない愚行だ」
「そこまで言う?」
「言うとも。心配しているんだ、病人を一分でも早く然るべきところに連れて行きたい」
そういう時の月丘はにこりともしないで強引だ。嫌がる子供を歯医者にだって行かせてしまう眼力を持っている。たじたじだ。
いつもよりぐっと近いところに寄ってきて、そっとわたしの耳の下あたりに手を当てた。熱の具合を確かめたのかもしれないけど、それよりも心臓がやかましく動いた。
カチリ、という音がしてコンロに火がつく。カレーを月丘が温め直す。一方、もう片方のコンロには雪平を置いておかゆを作り始めた。こんなことまで流れるような所作だ。わたしの部屋のキッチンを使うのは初めてのはずなのに、戸惑うことなく道具を使いこなしている。
「梅干しは食べられるかい?」
「食べられるけど買ってない」
月丘は大きく頷いた。そうしてコンビニの袋から梅干しのパックを取り出した。
「僕がいない時のためにレトルトのお粥も買っておいたから。今作ってる分の残りは、レンジで温めれば食べられるよ」
ありがとう、と言いながら、彼氏というより面倒見のいいお母さんのような人だと思う。誰よりもわたしをよく理解しているような。
「カレーは僕がいただくよ。せっかくニコがご馳走してくれるって誘ってくれたんだし。残りは保存しておこう」
どこからかジップロックも現れて、彼はそれを指でつまんでわたしに見せた。確かに、月丘が昇格したら『完璧な彼氏』になりそうだ。
わたしがぼんやりしながらアク取りも忘れて作った雑なカレーを、彼は朝から大きな口を開けてスプーンで食べた。元々、昨夜はそのつもりで誘ったのに、いざ本当にその光景を見ていると不意に胸が熱くなった。手を伸ばしてグラスに入った冷たい水を飲み下す。
「どうした? 咳が出そう?」
「ううん、そうじゃない」
そのカレーを食べるべき人は去ってしまって、そうではない人が代わりにそれを食べている。優雅に、そして美味しそうに。ひと口ひと口を本当によく噛みしめて美味しそうに食べるのは月丘の美点のうちのひとつだった。普段、食事をしていて彼のそんな姿を目にしているとふわっと幸せな気持ちになるものだけど、今日は違った。
第一にそれを食べるのは慧人のはずだった。
第二にわたしはそれを適当に作ったのに、月丘のような善人に食べさせてしまった。
「……ごめんなさい」
月丘は一瞬、スプーンを止めたけれど、ニコはカレーをしばらく食べたらダメだよ、と言っただけだった。
◇
それはどうかと思ったけれど、一枚だけ持っていた襟のボリュームが豪華なタートルネックのセーターを着せられて、その下にはヒートテックの着用を義務付けられた。まったくスキー場に行くわけでもあるまいし、と思っていると背中からそっといつもの『おじさんコート』を回されて、ゆっくり腕を通す。男物というのは便利だ。たっぷりしたセーターでも余裕で入る。
「準備は?」
「万端」
もしかすると肺のレントゲン検査なんかをする必要があって思わぬ出費になることがあると聞いて、あわててコンビニでお金を下ろす。ちらり、と来慣れた店内を見渡せばそこに俯いて無表情でメッセージを打っている慧人の姿が見えた気がして、月丘に早く行こうと促す。
月丘はわたしの手首をしっかり握っていた。逃げ出さないように、という配慮だったのだろうけどなんだか微妙な心持ちだった。
わたしたちは完全に友達だった。
なので普段、手を繋ぐことはない。よほどの人混みで迷子になりそうな時くらいしか繋がない。その辺はふたりとも徹底していた。
月丘はなによりもわたしにはどっぷり甘かった。それでもわたしは月丘にすべてを依存することはなかったし、月丘も不思議なことにそうであるべきだと思っているようだった。もちろん彼もわたしに強引な求愛をすることもなかった。
そんなわたしたちが、強い意志で手を繋いでいるということに鼓動が速くなった。不安だったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。
◇
「ねえ! 吸うだけで楽になる薬があるとは思わなかった。すごいね!」
「僕は子供の頃、喘息だったからニコを早く病院に連れて行こうと決めてたんだよ。腕に貼ったテープも今日、入浴するまで剥がしたらダメだよ」
四角い小さなテープはわたしの右手の二の腕に貼られていた。そこから薬が体中に回って咳を止めてくれるらしい。それらの薬はわたしには目新しかった。
「空気が美味しい」
「よかったよ、強引にでも連れてきて。でも無理は禁物。もう治ったつもりなんだろう。君の気管支が炎症を起こしてる。無理をすると悪化させる」
帰りは緩く手を引かれて部屋までの道を歩く。月丘が一日は休まないとダメだと言い張ったからだ。やさしく拘束されている。
こういうのがいいことなのかわからない。いつもポケットに入っていた片手が別の人の手と繋がっている……。
それはただの月丘なんだとわかっていても、恥ずかしいことこの上なかった。少し冷たい、細くて長い指先。危ないことなんて何もしたことがなさそうだ。中学の時はバスケ部のキャプテンをしていたという慧人とはまるで違った。細くて、繊細な指。
わたしの知る月丘はそういうものでできていた。百八十前後ある身長、小さな顔の端正な造作、長いまつ毛、肩幅はあるけど重いものは持ったことがないような細い腕。見る限り、薄い胸……。
そうか、なるほど。小さい時から喘息で運動はできなかったのか。
そういうことを考えると、いつもやさしい彼と比べてさみしい気持ちになる。
「喘息って、自分からは遠いものだと思ってたからちょっと驚いちゃった」
「これからは気圧の変化や、季節の変わり目、アレルギーなんかに気をつけなくてはいけないね」
「アレルギー? ないよ」
「検査した?」
ふるふる、と首を横に振る。
「ある可能性が高いよ。検査をしてみるといい。とりあえずしばらくはマスクだね」
マスクかァ、と言いながら月丘の指をぎゅっと握る。心なしか、彼の指が一瞬強ばった気がした。わたしの行動は想定外のものだったらしい。でも、思ってた以上に月丘と並んで歩くのは楽しかった。月丘の言うポジは心地いいのかもしれない。それはそうだ、今のわたしをある意味一番知っているのは月丘なんだから。
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