第3話 残念ながら
気がつくと鍋の水分がぐっと減っていて、掬ってあげなかったアクが鍋のへりにこびり付くように浮いていた。
『夕飯食べちゃった? まだだったらカレー食べに来ない?』
そうしてこういう時に呼んでしまうのは結局、月丘なんだ。それはわたしの弱さとも言えるし、ほかに友達がいないんだから仕方ないとも言える。トマトの水煮缶を入れるのをすっかり忘れたことに気がつく。夏野菜の入らないカレーは少し色がさみしい。
「まさかお呼ばれするとは思わなかったな。てっきり今は彼と一緒なんだろうと」
「その彼ならとっくに帰ったから。ちょっと座ってて、ルーは月丘が来てから入れようと思ってたの」
コンロの火を止めてルーを割って入れる。ルーは小さい箱のものだからすぐに全部割れて、べたーっと鍋の中に溶けていく。程よく溶けたところでまた火にかける。
「手作りのカレーというのは久しぶり」
「月丘、料理しないの?」
コンビニのお弁当の入った袋を手に提げた月丘というのはまったく不似合いでうまく想像できなかった。真っ黒いコートを着た紳士然とした彼が、夕方、或いは夜道、カレーの入ったディスポーザブルの容器が入ったビニール袋を、揺らさないように持って、姿勢を正して道を行くのだ。
「随分楽しそうだね。来た時には元気がなかったから心配したけれど、杞憂だったかな?」
「ねえ、コンビニで買い物したりするの?」
「……それはするさ。今日だって一緒に食後のデザートを買いに行っただろう?」
「違う、ひとりで」
「もちろんするよ。生きていくにはいろいろ必要なものが多いからね」
鍋をかき混ぜるのも忘れて、キッチンで
「なにがそんなにおかしいんだ?」
おい、ニコ、と月丘はわたしを見下ろした。涙が出るほどおかしくて、最後はむせるほどだった。ケホッ、と出た咳はおかしなことに止まらなくなって息が苦しくなる。月丘が驚いて背中をさする。
「コンロの……」
途切れる呼吸の途中で言った一言に彼は素早く反応して、カレーをかけてあった火を止めるカチリという音が鳴った。焦げてしまうと思ったのだ。
「飲みなさい」
コップ一杯の水を少しずつ飲むと、ようやく落ち着いて、涙目になったわたしのおでこに月丘の細い指がひんやりと触れる。まだ外気に触れたまま、温まらないのかもしれない。
「解熱剤は?」
「熱なんてないよ」
「体温計は持ってるの?」
ごそごそと机のペン立てから電子体温計を出してくる。目で促されて熱をはかる。
電子音が小さく響いてデジタルの数字を見ると、確かにわたしは病人だった。
「そう言えば今日も軽い咳をしていたね。少なかったから気にとめなかったけれど」
「言われてみればそうかも」
「寒気はなかったの?」
「……帰り道は少し寒かったかも」
月丘は嫌な顔をした。わたしはちょっと不安になる。
「一緒にいたのに気が付かないなんて。僕はつくづく愚鈍な男だ」
そこまで言わなくても、と思ったけれど、月丘の真剣な顔を見ていたらとてもそんなことを言えなかった。彼は「薬局に行ってくるからその間に着替えてベッドに入っているように」と言い残して部屋を出ていった。
のろのろと立ち上がって鍋を見ると、カレーにはもう薄い膜が張っていた。
そうそう、着替えておかないといけない。月丘が戻ってきた時に着替えの途中、というわけにはいかないだろう。確かに肌寒い。冬だからこんなものだと思っていたけれど、そうではないようだ。逆に首筋に触るとびっくりするほど熱かった。
付き合っているわけでもない男を、ベッドで寝ている時に招くなんてどうなんだろうと考える。確かにわたしは背が高いけど、その分、出るべきところは出ていないようだった。つまり、女性としての外見的魅力には欠けるのではないかと常々思っていた。一重の目と、薄い唇。月丘だって襲いたいとは思うまい。そういう色気とは無縁な体なのだから。
薬局はうちを出た先の交差点、最寄りのコンビニの向かいにあった。小さな昔ながらの薬局だけど、この時間ならまだやっているだろう。
熱があると思うとなぜかどっと体が重くなって、まるで地縛霊でも部屋にいるかのようにベッドの下に引っ張られる。……疲れた。そう、確かに言えることは疲れたということだった。
ベッドの中は温かく、次第に汗をかいてきた。訳もなく慧人を思い出す。心細い。今頃、彼はどこにいるんだろう? それを問えば答えられるところにいるんだろうか。もし自分の部屋にいるのだとして、そこに彼女がいないとは限らない。息を殺した彼女の隣で、慧人は電話を取るのか、それとも居留守を使うのか。
そういうことを想像しなければいけない立場に疲れていた。
トントントン、小さなノックが続けざまに響く。ああ、そう言えば月丘はドアの鍵を閉めずに出て行ったかもしれない。わたしに内側から鍵をかけるように指示して出かけていった気がする。
「はーい、開いてる」
ガチャ、と音を立てて乱暴に入ってきたのは慧人だった。
「ニコ、ごめん。さっきは俺が悪かった。やっぱり思い直して帰ってきた」
唖然としてしまって声が出ない。代わりに咳が出た。
「どうした? 風邪ひいたの? そう言えば夕方やけに体があったかいなと思ったんだよ。コンビニ行ってくる、なにが欲しい? なにか買ってくるよ」
待って、と手を出しかけたところで盛大に咳き込む。慧斗は錆の浮いた外階段を音を立てて下りていった。重い玄関ドアが嫌な音を立ててゆっくり閉まる。わたしの声は喉のところで詰まってしまって、どんなに咳き込んでもなかなか出てこない。苦しい。胸が熱い。わたしは玄関に座り込んだ。
「ニコ、水を飲んで落ち着いて」
潤んだ目の向こうに、月丘がいた。ひどく安心して水を飲み下す。その後、錠剤をもらってそれも飲んだ。
「やっぱりこういう時はドラッグストアよりも薬局だね。よく症状を聞いてくれて、咳に効く薬を出してくれたんだよ。明日もひどいようなら病院に行かないと」
まるでお母さんがするように、タオルを水で濡らして額にのせてくれる。熱がすーっと吸い込まれるように引いていく。
「気持ちいい。ありがとう」
「いや、氷枕を買ったんだけど冷凍しないと使えないんだね、これは。不便だな」
彼は苦笑して、誰が飲むのかわからない量のスポーツドリンクを冷蔵庫にしまった。バタン、という冷蔵庫の重い扉を閉める音がなぜかわたしを安心させた。
することが済むと月丘はわたしのデスクチェアにかけてあった自分のコートに手をかけた。
「落ち着いたかな?」
「うん、でも、あの」
「なに?」
「……途中で慧ちゃんに会わなかった?」
「ここに来たの?」
ゴホ、ゴホッとまた咳き込む。大事なことはするりと口から出てこない。
なにも言わずにまた背中をさすられる。大きな手はそれだけで頼もしい。
「コンビニに行くって言って」
「いつ頃?」
「……そろそろ三十分」
今度は月丘はコートも着ずに走っていってしまった。あ、と思ったけれど今のわたしに走れるはずもなくどうしようもなかった。
すっかりぬるくなったおでこのタオルを反転させて、ふーっとため息をつく。
月丘が上手く事を収めてくれるんだろうか? そんなわけはあるまい。月丘だって神様でも天使でもなんでもない。ただの人間だ。わたしたちの問題はわたしたちで解決しなければならない、のだろう、たぶん。
特に何もない天井をまじまじと見つめる。この天井を、慧人と一緒に見つめた日もあったように思う。気持ちというのはどんな風にして間違った方向に向いていってしまうんだろう? わたしたちはもう分かれ道で別れてしまったんだろうか? だとしたら、それはわたしにどれくらいのショックを与えるんだろう……。
「ただいま」
「慧ちゃん!」
がばっと起き上がった自分の気力に、まだ彼から気持ちが離れていないことを確認する。わたしはまだ彼が好きで、彼が帰ってくることをこんなに喜んでいる。
バツの悪い顔をした彼は、後ろから月丘に背中を押されて玄関に入った。
「ごめん。これ、お見舞い」
顔もしっかり見ないで、彼は踵を返した。起き上がって追いかけようとするわたしを、月丘が阻んだ。
「慧ちゃん?」
「夜風は冷たすぎるからとりあえず中に入りなさい」
そう言った月丘の手のひらは凍るように冷たかった。その目も同じように冷たかった。
「どうしたの?」
わたしをベッドに戻して彼はギシッとイスに座った。彼の背中とイスの背もたれに黒いコートが挟まれていた。その光景になぜか胸が痛んだ。
「薬局の向かいのコンビニで熱心にメッセージやり取りしてたようだよ。WiFiも入るしね」
メッセージ。
相手がいるということだ。わざわざコンビニで三十分もやり取りをするような。
「ニコは知ってるの?」
「なにを、って言いたいところだけど知ってるの。月丘と歩いてる時にも見たから」
「相談してくれるほど信用はなかったってことかな?」
「……こればかりはふたりだけの問題だからじゃないかな」
イスを下りると、彼はわたしの枕元にやって来て温まったタオルを手にした。そうして氷枕を代わりに持ってきた。
わたしの後頭部に手を入れて頭を浮かせると、氷枕を下に入れて目をじっと見つめた。
「そんなに至近距離で見ないでよ」
考えてみたらカレーを作る前に化粧を落としてしまっていた。元々、自信が無いのに月丘みたいな男にまじまじと見られるのはいくら友達とはいえ困る。彼の長いまつ毛が、悲しげに伏せる。
「いっそ別れてしまうわけにはやっぱりいかないんだろうね?」
「いかないだろうね。そこまでプライドは低くないし、こういうのは理性でどうにでもなるというわけじゃないし」
「僕が代わりになるというのは?」
ふっ、と笑ってしまう。彼の表情はなんとも言えないものだった。自信がなさそうな月丘というのは初めて見た。
「友達がいなくなっちゃう」
「それは大丈夫。ニコの恋人に昇格して、かつ唯一無二の親友。信頼を裏切るようなことはしないよ」
そんなのどこまで本気か全然わかんないよ、と言いながら、わたしは手で顔を覆った。
「ねえ、やっぱりわたしたち、もうダメなんだと思う?」
「残念ながら」
「わたしも同意見だな」
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