逃げてゆく瞬間

鷲羽巧

世界の中に身を置き、外の世界を発見するのと同時に、自らを見出す。外の世界が私たちを形成するが、同時に私たちはその世界に影響を与えることもできる。絶え間ない対話の中で一をなす、内と外、そのふたつの世界のあいだに均衡を打ち立てなければならない。私たちが通じ合わなければならないのは、そうした世界なのである。


――アンリ・カルティエ゠ブレッソン




 現像液から停止液、定着液までをそれぞれ計量カップに注ぐ。流し台に渡したトレーのうえにカップを並べ、水とヒーターで調整しながら、薬品に差した温度計がいずれも一定をさすまで待つ。フィルムの現像は待つことの方が多い。イメージが浮かび上がるまで、待つ……。考えてみれば、写真を撮ること自体とよく似ている。そう云っていた男の顔を思い浮かべて、わたしは苦笑する。

 今日はきっと、久世くぜのことをよく思い出すだろう……。

 そう郷愁とも自嘲ともつかないことを考えながら、わたしはフィルムを手に取った。久世の妹から送られてきた未現像のフィルム。彼女の言葉が正しければおそらく十数年放置されていたそのひと巻きのために、わたしは久しぶりに道具一式を用意して、自宅で現像しようとしている。

 なんのために?

 ――理由を考えてはいけない。

 久世は云っていた。

 ――なんのために撮るのかなんて、どうでもいいだろ。とにかくシャッターを切るんだ。理由は後からついてくるよ。

 フィルムからベロを引き出す。ダークバッグにリールとフィルム、タンク、それから鋏を放りこんで、袋を閉じる。あとは腕だけを突っこんで、手先の感覚を頼りにフィルムを巻き取ってゆく。リールの手応え。用意した薬品の、鼻をつく匂い。袋のなかでうごめく手。ほとんどフィルムを触らなくなったいまでも、みんな体が憶えている。ずいぶん久しぶりなのに、巻き取ったリールをタンクに収めるまで、ひとつも手間取ることはなかった。

 そもそもわたしにカメラを、現像を教えたのは、久世だった。

 ――フィルムの醍醐味は、現像だ。自分の手で撮って、像をつくっていることを、そこで実感するんだよ。

 熱っぽく語る彼の笑顔を思い出す。その言葉に耳を傾けるわたしの頬もまた、いくらか熱っていたはずだ。わたしにとって彼は、同期のカメラ仲間である以上に、カメラの師であり、憧れであり、ライバルだった。わたしたちはよく、ふたりで現像した。その成果をふたりで確かめ合ったものだ。

 ――現像を通して、過去がその手に甦ってくるんだ。

 リールをタンクにセットして、現像液を注ぐ。とん、とん、作業台にタンクの底を叩きつけ、泡を逃がしてゆく。五〇秒待つ。タンクをひっくり返す。化学反応と攪拌を、そうして繰り返す。定められたペースで、正確に。

 液を棄て、次の薬品へ。順番に交換し、像を定着させてゆく。

 ――時間を結晶させているような気分になるだろう?

 そう云っていたのはいつだったか? 久世らしい気取った云い回しだ。

 リールを取り出して、洗う。フィルムをトレーに浸し、しばらく水を流しつづける。

 すでにイメージは浮かび上がって、水面の向こうに揺れている。

 ――兄の遺品から見つかりました。

 そんな手紙を添えて、久世の妹からフィルムが送られてきたのは、つい一週間前のことだった。二年前に久世が亡くなっていたことも、わたしは知らなかった。彼が大学を離れてから十年あまり、わたしたちはずっと疎遠だったから。もっと強く云えば、断絶していた。例外として、わたしが写真のコンクールでささやかな賞を受けたとき、あるいは小規模ながら個展を開いたときに葉書を送ったけれど、返事はなかった。便りがないのはなんとやら、実家でそれなりに幸せにやっているのだろうと思っていた。

 妹が手紙を送ることができたのは、その葉書のおかげだったという。

 彼女の手紙に拠れば、葉書はフィルムといっしょの箱に収められ、納戸の奥に置かれていたらしい。まるで、隠すみたいに。自分からも遠ざけるようにして。だから発見されるまでに時間がかかった。

 ――兄が大学でカメラに凝っていたことは知っていました。こちらに戻ってからは、少しも触ろうとしなかったけれど。

 手紙の文字はひとつひとつ生真面目に書かれ、その端々に丸みを帯びていた。

 ――きっと、わたしたち親族の誰よりも、あなたが持つべきではないかと思うのです。

 処分に困った遺品を体良く押しつけられている。そうひねくれて考えることもできた。最初は送り返そうかと思った。けれども結局、わたしは感傷に折れた。わたしなりの弔いだ、と夫に説明したのは、どこか云い訳じみていた。

 作業はガレージでおこなった。丘陵部にある一軒家の、半地下になっているその空間は、いつも夫が工作に使っている場所だ。天井近くに開けられた窓から陽が差して、灯りを点けずともじゅうぶんに明るい。

 ――フィルムを洗うこの時間は、現像が成功したかどうかを確かめる時間だ。

 記憶の中で、久世が云う。

 ――現像までが撮影だとすれば、一連の作業の結果が、ここでようやく明らかになる。

 緊張する時間だ。いつも、審判を待っているような気分になった。写真家としての技術が、作品の未来が、ここで暴かれる。

 では、いまは?

 この時間に、いったい何が問われ、暴かれるのだろう?

 流し台の水面がきらきらと光を照り返す。その向こうに見える写真を、わたしはまだ、確かめることができない。

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