日記

いとうはるか

華氏451度の話

 華氏451度。昔は共感したが、今はあんまりできない。

 あの本は反知性的なもの、思索をしない者、思索を妨げるテクノロジーへの反感に満ち満ちている。そしてその象徴として本以外の娯楽、本を読まない者を蔑むような節がある。自分はどうにもそこが引っかかるようになった。

 単に時代の違いだと考えることはできる。今や娯楽は発達しきり、メッセージ性や文学性はもはや本の特権ではない。映画もアニメもみな享受する者の人生すら変えうる強いパワーを持つようになった。しかし、自分が言いたいのはそういうことではない。

 自分は、本を読まない人のことを素直に受け入れるようになったのだと思う。

 思索に耽ることは一種の才能が要る。偏って破綻した思想を持つことでさえ才能がいる。この才能が無い人は思想など持たず、習慣と常識に寄りかかって生きる。その生き方を、ミルドレッドのようだと蔑むことが自分には出来なくなってしまった。

 その生き方は決して気楽なわけではない。世の中にある抽象的なことばの全てが、意味不明なものとして自分にぶつかってくるのは恐怖だろう。習慣が崩れ、常識で対応できない状況になったときはパニックになってしまうかもしれない(夫の病欠という異常事態で白痴のようになったミルドレッド)。それは怠惰に楽しみだけを貪る生き方ではない。単に。そういう人もいるというだけなのだ。上下や善悪はそこに無い。

 抽象的思考をしないこと、筋道の通った思想を持たないことを責めるのはフェアな行いだろうか。確かに近代以降の市民としては不適格かもしれない。しかし、そもそも人類のほぼ全員に市民であることを期待する方にも問題がある。それは単にシステム上の要請であり、生まれてきた全員がそこにフィットするのは、人間を工業製品よろしく検品・選別でもしない限り無理だ。

 ミルドレッドは愚かだった。でも、それを糾弾するのはフェアではない。愚かなら愚かなりに上手くやっていく方法はあるはずで、そこに辿り着けなかったのは悲劇だ。思索に目覚めた主人公と、本を敵視する「愚かな大衆」の、その間にどれほどの価値の差があるだろうか。

 愚か者の都市に爆弾が落ち、数名の読書家だけが生き残るラストは、今となっては選民思想じみて見える。終末のとき我らだけは天国に行けるのだ、奴らと違って、というありふれたそれのような。

 本を読まない。本に書いてある思想を解さない。短絡的で麻薬的な娯楽に耽る。それを蔑むべきことだと昔の自分は思っていた。しかし今は、それを当然の前提として飲み込んだ上で、ではどうすれば上手くいくのか考えている。

 あの本にあんまり共感できなくなったのは、そういうわけだ。

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