幹事長 川端朝日くんの性春コンプレックス

七篠康晴

Chapter 1.1 カスの蛍の光

第1話 モラトリアムとは無責任で在る様


 大学生であるということは、無責任であるということだと、俺は思う。


 大学受験をくぐり抜け、社会に入るまでの自由時間モラトリアムを獲得した学生たちは、単位よりも睡眠を優先し、健康ヘルシーよりも美食ジャンクを欲して、その期間を目一杯謳歌する。


 多分に漏れず俺も、期末テストに寝坊して単位を落としかけたことは一度や二度でないし、自炊するのも面倒だから、外食ばかり取っていた。一年掛けて大学という空間に馴染んで、そんな大学生という言葉が想起させる、退廃的で、情けない、されど悦に浸れる概念の一翼を担った。


 学生会館のエレベーターに乗り、俺はサークルでできた親友の堀江光人ほりえみつひとと、先輩に呼び出され部室に向かっている。大学生という概念を支える要素というのは、単位、睡眠、美食、サークル、バイト──そしてもう一つ、欠かせないものとして、恋愛セックスがある。ただ、もう俺は後の大学三年間、その要素はなくてもいいかな、と考え始めていた。


「なあ、どうしような。朝日あさひ

「知らねえよ。もう」


 自棄になって返事をすると、堀江は深いため息を吐いた。これから起こる出来事を考えれば、憂鬱になるのも無理はないだろう。


 恋愛セックスにありつけないのもまた、大学生。


 S棟404号室。学生研究会と書かれた看板を掲げたこのサークルは、部室に入り浸ることだけを目的としたサークルである。〝学生を研究する〟という大義名分を掲げて、部室モラトリアムをエンジョイできるここは、新歓をガチった俺に言わせれば、最もコスパの良いサークルだった。


 面倒な活動はないし、目的を持って集まったわけではないから、ジャンル違いの普段全く会わないような人に出会える。自分の好きなものが他の人と被っていることの方が少ないから、その知識や技能を比べたり、変な競争をする必要もない。何をするも自由。部室には背もたれを倒せる椅子があって、眠かったら仮眠を取ることもできるし、机で課題をやってたって構わない。


 部屋の中を覗けないよう小窓を塞いでいる紙から、光が漏れている。ドアノブに手を掛け、俺は扉を開いた。


「…………お疲れ様。川端かわばた。堀江。座って」


 暗い表情をした先輩が二人、そこにはいる。

 俺たちの学費を最大限取り返すため稼働を続ける、空調の効いた部室の中。スティックを弾く、聞き慣れた格ゲーの対戦音もしなければ、本のページをめくる音もしない。ボドゲのトークンを置く音もしなければ、雑談をしているわけでもない。重苦しい沈黙がそこにはあって、俺たちが来るまでの間、この二人はどうしていたのかと疑問に思った。


 ペン、大学からのお知らせの紙、部室ノート、本やお菓子が散らばった机の前には、敬愛すべき現幹事長と現会計がいる。彼らを見て、日本、中国、アメリカの大統領が並んだクソ狭い机のミームを思い出した。物理的な距離は近いけれど、心理的な距離は遠そうに見える。


「今日は、来てくれてありがとう。それで、話は、少し聞いてると思うんだけどさ」


 幹事長の村田が、苦渋の表情で語っている。会計の門真は、滲むような汗を掻いている堀江を凝視していた。


「ええ、聞いてますよ」


「……うん。その、二年と三年……これから新三年と新四年になるメンツの間であった、人間関係トラブルは記憶に新しいと思う」


「綺麗な言い方するのはやめてくださいよ。あの、村田さん」


「いや、門真さんもいるし……」


「……いいよ、私は。つか、今さら何? 川端くんと堀江くんが来るっていうから、私はここにいるわけ。何体裁取り繕ってんだよ殺すぞ。汚いんだよお前」


「お、落ち着いてください! 門真さん!」


 暴言を吐いた門真さんを、俺の隣に座っている堀江が制止した。


 学生のうちに、恋愛はしとけ。

 そう、昭和生まれの大人はよく嘯いている。

 学生研究会。

 何か具体的な目的のないこのサークルには、出会いしかない。


「いや、先輩方。その、二年の島田さんクソビッチが二年の間で四股した挙げ句、村田さんと部室でセックスしたことの是非はもうどうでもいいんですよ。使用済みのゴムが大学当局に見つかって、活動停止処分になったわけじゃないんで」

「ちょ、朝日!?」


 言っちゃいけないことを言う悦びってのは、確かにあると思う。

 絶対に越えてはいけないラインをトップギアで突っ切った俺を見て、堀江が唾を撒き散らしながら驚愕している。門真さんは痛快そうに笑っていて、村田の野郎はぷるぷるしながら顔をしかめていた。


「それで問題は、今後サークルの三役を担うはずだった二年生が、寝取られた気分になったりドン引きしたりでほとんど離れてしまったことなんですよ。で、村田さんたち上の代は、就活を言い訳にして逃げようとしてるわけじゃないですか」

「…………」


 楽しそうにしていた門真さんも口を噤んだ。大義名分を引っ提げて、全方位に喧嘩を売る悦びも、確かにあると思う。全部これも、大学生のうちにしかできないことだし、大学生のうちにやっておきたいことであると思う。門真さんにまで文句を言うのは筋違いな気がするけど、もう知らん。


「それで、もう、三役をやれそうなメンバーが俺たちしかいないって話、ですよね? 一年の俺たちにまで話が回ってくるって、どういうことですか」

「……本当に、君たちしかいなかった」

「いやいやいやいや、他にいるでしょう。皆無責任な大学生らしく、この崩れゆく城から蒸発して脱出しようとしてるだけですよ。何してくれてんですかマジで。なんとかしてくださいよ」

「…………」


 彼は黙ってしまった。の誼があるから、話も通し易いんじゃないんですか、と声を掛けようとしてみたけど、流石にこれを言ったらそろそろ拳が飛んできそうなのでやめておく。

 彼らは、就活の真っ只中にある。もう、大学で思い出らしい思い出も作れないだろうに、こんなことやらかして、どういう気持ちなんだろうか。終わり悪けりゃ全てBAD。


「堀江。行くぞ」


 この部室で会える人たちのことは嫌いじゃなかった。堀江という親友も出来た。恩がないわけではないけれど、心中するほどではない。大学生らしく、蒸発エバポレートしたろと思った俺は、交渉の決裂を示すように立ち上がる。


 マンモス校と呼ばれる我が大学には、五万人近くの学生がいる。新たな人間関係を簡単に始められるのが、高校生とは違う、大学生の良いところだ。


 ありとあらゆるエンタメ作品が高校生を取り上げて大学生や大人を取り上げない理由は、ここにあると思う。俺たちはもう、取り返しが付いてしまう。そんな物語には、誰だってドキドキしない。


 だから村田の野郎も、就職前に精子スプリンクラーできて気持ちよかっただろう。一連の出来事に気持ち悪いと感じた、という大義名分で後輩の面倒を見ることを放棄できるようになった門真さんは就活に集中できるし、そしてもちろん、この出来事を消費しまた新たなサークルに行けばいいと思っている俺も、せいぜい、しゃーねーなぐらいの気持ちで動いていた。


 俺たちは全然、取り返しが付く。


「……朝、日」


 立ち上がった俺の手が、取って引っ張られた。視線を下にやると、そこには今にも男泣きしそうな親友の姿がある。


 こいつ、マジか。


 ボーイッシュな美少女と言われても信じる容姿をしたこいつが泣きそうになっている姿に、胸がキュッてする。瞳を潤ませる彼は、声を漏らした。



「僕、このサークルやめたくないし、なくなってほしくないよ……」



 彼は俯いて、目を赤くしていた。純然たる被害者の登場に、空気が更に重くなる。ずけずけと失礼な物言いをする俺みたいな奴よりも、彼のような存在の方が、ずっと心に来るのか、村田もまた俯いていた。


 どうやらここに、取り返しの付かないやつが一人いる。

 大学に入って初めて気の合う友達ができて、高校では全く通じなかった話題が皆にウケて、本当に楽しいんだ──そう彼は言っていた。


 大学一年生は、まだ高校生と変わらない、と俺は思う。ただ、それぞれのタイミングで、大学生というものにメタモルフォーゼする。

 取り返しの付かない彼は、どうやら随分とサナギに籠もっていたらしい。


 堀江のすすり泣く音が、空調の音に紛れて響いていた。それには、形容しがたいエロさがある。窓の外からは、ダンスサークルの練習の掛け声が聞こえている。部室の扉の向こう側で学生がインスタント麺を啜る音が響いていた。ここには、音ばかりがある。


「……その、なんというか、幹事長として、こんな人間関係トラブルを起こしてしまったのは、申し訳ないと思っている。価値観の違いが起こしたトラブルというか……」

「ひっく……ひっく」


 思わずカチンと来た。この期に及んで言い訳を重ねようとしているバカに、そして親友が泣いているのに、憤らなかった自分に。

 俺たちは全員大学生クズだ。『大人になる』という言葉で彩って、諦めてすり切れることを美化した俺たちは、彼の涙よりずっと色が淀んでいる。すでに汚れてしまった自分にできることは、彼の透明度を守るため、迸ることだ。


 激情に身を任せ、声が荒らげる。


「村田てめえ! 学部四年にもなって価値観の違いとか言ってるんじゃねえぞ! アカデミアで何を学んだんだお前は! クソが!」


「……はあるし、それぞれ尊重し合わなきゃいけないだろ。それが出来なかったから、こうなってしまって──」


「ああ!? なら今価値観の違いなんて尊重するなという俺の価値観を今ここで尊重してみせろよ!」


「何言って──」


「あああああああああクッソ頭キたマジでほんまイライラする、そもそもお前の価値観ってなんだよ、二年の島田の顔がまあまあ良くて愛嬌あるから行けそうなら行くって価値観か? 据え膳食わぬは男の恥とか、いつの時代の話してんだ! 就職先の男だけの飲み会ホモソーシャルで自慢でもしとけよ、旧時代の遺物! 超克しろ!」


「…………」


 部室を取り巻く喧騒を掻き消す勢いでまくし立てる俺に圧倒され、村田は口を閉ざすことしかできない。やらかした出来事と立場上、言い返すことはできないが、少し不満がありそうな、曖昧な表情を彼はした。


「で、引き継ぎでしたっけ? いいですよ。堀江が会計で、私が幹事長で。副幹事長は適当に誰か入れといてください。何もしなくていいんで」


 俺が引き継ぐと言ったタイミングで、村田の顔が少し緩んだのが見えた。彼に俺の言葉は響いていないし、彼の文脈の中では、俺は「みんな」と違う変な奴、とだけ処理される。好き嫌いの文脈でしか見れない彼はフェイクで、俺こそがリアルだ。


 この、情けないやつ。スケールの小さいやつ。

 そして、島田曰く、一番ポークビッツで早漏なやつ。


 死ぬ気で、血の滲むような思いで辿り着いた大学には、こんなしょうもない奴らがたくさんいる。こいつらが足を引っ張って、俺が怠惰に堕ちていって、世間が向ける大学生という生き物への目は、どんどん厳しくなっていく。


 俺たちって、何なんだろうか。

 惰眠を貪り、健康を捨て去って過ごした時間で、俺たちは何を得る?


 俺たちには何もない。専門学校に行って得られるような実践レベルのスキルもなければ、就職して社会人としての経験を積むわけでもない。


 俺たちは何故、ここに在る?


「朝日……」

「ま、最悪、俺たちが最後に組織畳んで終わればいいだろ。来年までどうするか、考えなきゃなあ」


 先輩二人を追い出した部室の中、二代前の先輩が置いていったらしいスイッチの電源を点けた。こんなときでも、こいつとやるスマブラは最高に楽しい。俺は今、スマブラを通して彼と繋がっている。ガードを差し込み、コンボを決めて、脳汁を出す。要は俺たちは今、村田がこの部屋でしたものなんかよりも遙かに高尚な、セックスをしている。


 高校生たちがキュンとして胸に手を当てる、少女漫画少年漫画ラノベの全ての先にあるものが何か、俺たちはもう知ってしまった。その結末の大半っていうのは、あのポークビッツだと思う。高校時代モテたラブコメ主人公のほとんどは、大学に行きその経験を生かして暴れるだろう。取り返しの付きやすい関係を上手く搾取し、取り返しが付かなかったころに持っていた美しさの全ては、泥に塗れる。


 肉体ばかりにその個性が囚われて、捨象を繰り返せばおっぱいしか残らないようなヒロインのバラエティセットが、世間では称賛されている。できることなら俺は、捨象を繰り返したときにその美しい精神性が残るヒロインたちと、恋愛ラブコメしたいと思う。


 だから俺は、あの二年の島田エロいやつの誘いをマジギレして断った。


 今俺は、この世界に憤慨してばかりいる。

 そしてこの思いつきの憂鬱で、悦に浸っている。


 画面上に派手なエフェクトが走った後、ズドン、という重い攻撃音がした。

 思考に意識を割いていたからか、隙を見せてしまった。俺のキャラクターが着地するところを狩られ、堀江に撃破される。彼の操作するキャラクターが勝利のポーズを取った。残機がなく、俺はもう復活することができない。


「がー、負けた」

「はい余裕」


 いつも通りの部室が帰ってきた。堀江の機嫌は、良さそうだった。

 コントローラーを置き、一息吐いた。じっとりとした静寂がそこにはあって、お互いピロートークに集中できず、物思いに耽っている。きっと、この部室で村田と島田がセックスした後も、こんな空気だったろう。


「なあ、堀江。まずどっから手を付けようかなあ……」


 あと少しで、春休みが始まる。村田と門真が置いていった引き継ぎマニュアルによれば、来年の準備のために、始めなければならないことが今の時点でも山ほどある。そうすれば、俺は二年生になって、幹事長になってしまう。


 この一年間で、俺は大学がどんなところなのかを知ることができた。じゃあこの後は、この大学で俺が何をするのか、何をしたいのか、そして大学生って結局何なのかを、知ろうとしなければいけない。


 沈思する俺を見た堀江が、ケ、と気持ち悪い笑みを浮かべた。オタクくんの気持ち悪い笑みのはずなのに、その容姿のおかげで、全部許されている。



「次期幹事長。まずは対空意識の改善からじゃないかな?」



 すぐ調子に乗る堀江に、無言で再戦の要求をした。


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