死後心中、または後追い/甲池幸
女の前には死体があった。床には小瓶が転がっていて、そこから小さな錠剤がいくつか零れ落ちていた。転がる酒瓶と、既に空になった瓶が入っていたと思しき箱に書かれた薬の名前を見て、女は現実を理解する。それを拒もうと思うほどの混乱はなかった。ただ、握りしめてしまった痴人の愛が小さく音を立てて歪んだだけだった。
「小粋先生」
女は死体の名前を呼んだ。それが戸籍にのっている名前ではないのは明確で。でも、女にとって、それは目の前で死体になっているひとを指す、この世で唯一の言葉だった。
真ん中に死体が寝そべる懺悔室には窓がなく、電気もない。女が入ってきたときから開いたままのドアから僅かに差し込む外の光が、まっすぐに小粋の顔を照らしていた。光と一緒に入りこんだ風が、女の髪と小粋の髪を揺らす。小粋はもう死んだのに、彼女の瞼が開くことはないのに、生きている自分と同じ動きをする髪の毛がなんだか不思議だった。
「小粋先生、一緒に死んでもいいですか」
問いかけには当たり前に返事がない。無言は肯定だなんて都合のいい解釈をして、女は死体の前に座り込んだ。死体の綺麗な顔を見つめて数分。ようやく、座っているだけでは死ねないことに気が付いた。自覚をしているよりずっと、動揺しているらしい。女は死体の前から立ち上がって、握りしめたままだった痴人の愛を小粋の前に置く。
一緒に燃やしたら、あの世で読めるだろうか。
あの世の摂理もそんなものがあるかも、女は詳しく知らなかったけれど、もしそうであったらいいなと思った。小粋が生前、唯一愛した本が、あの世でも彼女に寄り添ってくれる。その光景はなんとも綺麗で、救いがあるように思えた。女はちいさく笑みを浮かべて、小粋の屋敷を飛び出した。
屋敷から少し離れると途端に喧噪が耳を劈く。小粋が死んでも、女が動揺していても、世界は変わらずやかましかった。大事なひとが死んだら明日が来ないだなんて思えるほど、純情ではないつもりだったけれど、いつもと変わらずに進んでいく世界に憤りを覚えたのも確かだった。女はぼんやりと雑踏を睨みながら、花屋への道をたどる。
肌の上を滑る風はようやく冷たさを孕んで、その中に仄かに甘い匂いがしている。小粋の小説に出て来た金木犀の香りだった。秋が目の前に迫って、女の中へと浸み込んでくる。小粋はもう、秋の中には戻れないのに、女だけが秋に染まっていく。それは恐ろしいことだった。彼岸なんてものよりずっと遠くに、小粋が消えてしまうような気がした。女は足をはやめて、雑踏を行く。
花屋では木から切り離された金木犀を買った。甘い匂いが秋を加速させていくようで焦った。
デパートではラメのアイシャドウをメインにしたパレットを買った。パッケージが可愛くてきっと気に入ってくれるだろうと思った。
デパートと花屋の間にある服屋でワンピースを買った。黒くて、フリルが付いていて、彼女を送る喪服としてはこれが正解な気がした。
デパートの靴屋でブーツも買った。厚底の装飾がないもの。喪服が完成して、女は彼岸花とアイシャドウのパレットと、別の店で買った口紅の袋を抱えて小さく笑う。準備は万端だった。踊るような足取りで、小粋の待つ屋敷へと向かう。屋敷のすぐ近くのスーパーでサラダ油を二本買った。花を持って、デパートの紙袋を抱えて、サラダ油を買う女というのは、随分奇異なものに映ったらしくレジの担当者には二度見をされた。ちょっとだけ、不愉快だった。けれども、咎められるようなこともなく、女はすんなりと小粋の屋敷に戻ってくる。
女が小粋の死体を見つけてから、実に二時間と少しが経っていた。
秋がすぐそこまで迫っているとはいえ、死体を放置しておくにはまだまだ気温が高く、窓のない懺悔室の中には異臭が立ち込めている。感覚も常識もはなから狂っている女は眉一つ寄せずに懺悔室の中に入った。ぼう、とどこか遠くを見つめるような目で、サラダ油のフィルムを剥がした。わざわざ懺悔室を出て、屋敷の、それも懺悔室から一番遠い部屋のゴミ箱にそれを捨てた。アイシャドウの箱も、口紅のパッケージも、同じように捨てた。女はプレゼントの残骸に目を落として、思わずその場に立ち尽くす。
ゴミ箱の中には、昨日まで小粋が生活していた痕跡がなにもなかった。食べ物の滓とか、ティッシュペーパーとか、ペットボトルとか、そういう些細なものが、なにも。それを見て、女は唐突に理解する。カレンダーに視線を移した。今日の日付に、カレンダーで赤い花丸が書かれていた。「誕生日かなにかですか?」と問いかけたのはいつだったか。それに、小粋はなんと答えたのだったか。思い出せなくても、答えは明白だった。命日だ。
力の抜けた女の手から、銀色に鈍く光る口紅が落ちる。アイシャドウでなくて良かったと、どこか冷えた頭で思う。体の芯がしびれて、うまく息ができなかった。苦しくって、痛かった。それがどうしてかも、欠陥品の女には理解できないままに、泣いていた。ただ、小粋が居なくなってしまった、その空白が重くて、息が出来なくて、空気を吸い込む代わりに涙が溢れた。
落ちた口紅を抱きしめるように拾い上げて、女は嗚咽をあげて泣いた。その慟哭は誰にも届くことなく、小粋の残した空白のなかに残らず吸い込まれていく。小粋が死んだことを、女はその時になって、ようやく理解した。
炎が舐めるように死体の上で揺れている。開け放った扉の向こうで小粋が燃えていくのを、女は静かに懺悔室の外から見ている。髪に浸み込んだサラダ油がポタリと落ちて肌の上を滑っていく。視線の先で小粋と一緒に痴人の愛が炎に飲み込まれた。女はひたり、ひたり、と足を進めて、炎の中に身を投げる。肌を炎が滑っていく。麻痺していてもその痛みは分かった。熱い。熱い。痛い。痛い。痛い。女は懺悔室の隅で火に包まれながら、じっと小粋を見つめていた。どうか、同じ場所に行けますように。どうか、こんな浅ましい送り方が咎められませんように。
買ったばかりのワンピースが炎で溶けていく光景が、女が最期に視界に映したものになった。
男は煙草を吸いながら路地を歩いていた。焦げ臭い、と表現するには生臭さが強い匂いが鼻を突いて、男は顔をしかめる。吸いかけの煙草を地面に落として、綺麗な革靴で踏みつぶして、胸ポケットに手を伸ばす。けれども、そこに入っているのは空の煙草ケースと、派手なピンク色の棒付きキャンディーだけだった。思わず湧き上がった殺意を沈めて、せめてもの慰めにとキャンディーを頬張る。普通に不味くて殺意が増した。こんな悪戯をしたであろう上司の殺し方を幾通りも考えながら、男は足をはやめた。目的地に近づくほどに異臭は増していて、男の眉間に刻まれる皺も深くなっていく。
まったく本当に今日は厄日だ。
恐らく原稿も手に入らないだろうと思うと、男の口から深くため息がおちた。足元の小石を思わず強く蹴飛ばして、それがぶつかった塀が見覚えのあるものだと気が付いて、男は視線をあげた。男の咥えていたキャンディーがコンクリートに落ちて、砕け散った。
小粋の家が燃えていた。
男は思わず走り出しかけて、まだ火が回っていない門の前に、白い何かが置かれていることに気が付いて、足を止めた。異臭に気が付いたらしい近所の住人が何かを叫びながら遠ざかっていく。大方、消防車でも呼ぶつもりなのだろう。男は門の前に置かれた白い物に手を伸ばした。
それは、原稿用紙だった。
男が、喉から手がでるほど求めていた小粋な馬鹿の原稿だった。男の全身から力が抜けて、原稿用紙の前に跪く。震える手を伸ばした。空白の一枚目をめくる。二枚目をめくる。三枚目をめくる。どこまでめくっても、原稿用紙にはなにも書かれていなかった。百数枚ののち、最後の一枚に、小粋な馬鹿の字で、いつも通りの彼女の筆跡で、簡素な遺書が書かれていた。
それが、アザフチが小粋な馬鹿から受け取った、最期の原稿になった。
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