私を忘れてしまった彼と、一夜に溺れる
星名 泉花
第1話「彼からの着信」
付き合っていた恋人が事故で記憶をなくした。
私のことを覚えていない彼はすっかり性格も変わってしまい、恋人だと伝えても煙たい顔をされてしまった。
もう私の好きだった彼はいないと悟った瞬間でもあった。
会う度に彼はイライラして私の手を振り払う。
はじめは胸が苦しさでいっぱいになったけど、今はただ喉の詰まりを思いきり吐き出したいばかりだ。
毎日のように病室に通うことも、恋人としての思い出話を語ることも、全部が彼を逆立てるだけ。
「今までありがとう。バイバイ」
いつかこの想いは青空に変わるだろうか。
今はシンシンと雪が降って指先はかじかんでいて、無理やり吐き出したい息の白さにやけくそになって赤い目元を擦り、空を仰いだ。
初雪、初恋。
サヨナラさえまともに出来なかった17歳。
もうすぐ新年を迎える冬の賑わいのなか、何度も唇を噛んで、喉を締めるように指で首をなぞっていた。
***
起きたら部屋が黄昏に染まり、カラスまでももう無理だと去っていく時間だった。
「寝すぎだろぉ。……久しぶりにこんな寝た」
社会人になって規則正しい生活に慣れたつもりだったが、いざ年末年始になるもリズムは崩れるもので、今まで寝足りなかった時間を取り戻す執着で二度寝、三度寝を繰り返した。
ぼんやりとした頭をハッキリさせようと、ベッドの上であぐらをかいて身体を左右に揺らす。
しかめっ面にスマートフォンを手に取ってSNSを開くと、今年の反省と来年の抱負がタイムラインを埋めつくしていた。
反省なんてものは疲れるばかりで、周りの熱さに焼けて骨さえ残らない。
抱負は頑張ってすり減って、ふとした瞬間にガラガラ崩れてしまう。
人間の心はジェンガのようなものだ。
いつになったら積み直せるのかと、沈んだ息を吐いてのそのそと背中を丸めてベッドから降りる。
大晦日になると私の中で芽を出す感情に対して行動はいつも同じ、カラーボックスの前に立ち、汗ばんだ人差し指でクリアファイルの角を手前に引く。
本に埋もれさせたクリアファイル、そこに収まった今年の運勢が書かれたおみくじ。
何年前に引いたものだろうと、毎年考えてはおみくじの文章を読み直す。
彼といっしょにおみくじを引いて、年越しをするたびに見比べて笑いあった。
……穏やかで、太陽みたいだった彼は一瞬で別人となり、私を見るたびにシャーシャー猫のように威嚇して、最後には皮肉に乾いた笑い方をした。
私がそばにいると、彼は玉のような汗を出しながら目尻を真っ赤にして、鋭い毒を刺すばかりになる。
それに私も胸が締め付けられて、青い炎にのまれてカスになってしまった。
彼を思う気持ちは絶対に出すものかと喉にフタをした。
「年越しそばでも食べるか……」
なげやりに呟きながら冷蔵庫を開くも食材は空っぽで、あるのは缶ビールと冬にこそ美味しいアイスクリームだ。
これではさすがに自暴自棄だと頭をかき、買い物に出るために身支度を整える。
誰に見られるわけでもないのに軽く化粧をしてしまうのは、毎年のクセでしかない。
大晦日というだけで特別なイベントに期待して、ただ買い物に出るだけでも浮き足立つ。
なにかロマンスでも訪れてくれたらこの胸の痛みにもサヨナラできるのにと、いつまでも物思いに沈んだ笑みを浮かべるしかなかった。
♪〜♪〜♪〜と、初期設定のままの着信音が鳴り、表示された番号を見てひゅっと息を飲む。
名前が表示されなくても番号を覚えてしまうくらい、何度も画面の向こう側に語りかけた日々が溢れ出す。
消したはずの感情に背中をおされ、考える思考もないまま応答した。
『……あ、沙希? やっと出た』
喉が焼ける。
『いつものとこでずっと待ってるんだけど。連絡もこねーから何かあったんじゃねぇかって』
手に汗が滲む。
今にもスマートフォンをすべり落としてしまいそうだ。
気さくさが同じで、声は少し低くなったような。
「……望くん」
私に怯えて、私を拒絶した人。
『なんだよ、その声。泣いてんのか?』
若い喋り方のまま、イタズラに笑って向こう側から気にかけてくれる不器用さ。
これは幻聴なのか、わからないままに視界が揺れて鼻をすすり、震える喉をさすって笑みを浮かべた。
「なんでもない。どうしたの? 急に電話してきて」
『別に急でもないだろ。それより今どこ? ひとりで待ってんの結構さみーんだけど』
衣擦れの音がする。
その奥からはせせらぎ音があり、カラスが色を変えていく空から逃げようとカァーカァー鳴いているのが聞こえた。
遠くなった光景に短く刻まれた呼吸を繰り返す。
もう彼はいないはずなのに、私はがむしゃらに走っていて、まるで息づかいや仕草ひとつを目で追いかけていた頃の私が戻ってくる。
オレンジ色の憂いた空が群青に塗り替えられていき、太陽が沈んでも燃えカスがあたりを照らしていた。
段になった川は激しくぶつかり合う音をたて、走れば走るほどに流れが落ちついてサーッと景色に溶け込むやさしい音に変わった。
息を切らして足をとめると、夜に溶け込みそうな黒髪が風になびいている。
河川敷の高架下、光をさえぎる影の空間で彼はボーッとしながら橋の向こう側に切り取られた世界を眺めていた。
「……お、沙希。おせーよ、夜になっちまったじゃん」
「望くん? 本当に望くんなの?」
「他に誰だって……ってか、なんでそんな泣きそうなの? オレ、なんかした?」
この人は望くんだ。
見た目は大人っぽくなっているが、中身はあの頃の望くんがそのままいる。
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