彼が来るの

からし

二人乗りにはご注意を!


信号待ちで、バイクがエンジン音を立てている。

タンクにしがみつくようにして後ろに乗っている彼女の髪が、風に流されていく。

彼の心は、ほんの少しの間だけ安らいでいた。

周りの景色は、いつも通りの街並み。

青い空に浮かぶ白い雲、そして信号が赤に変わり、彼はブレーキをかけた。


コツン、コツン、コツン——バイクの音が、耳にひびく。


その瞬間、彼女が不意にバイクから降りると、ヘルメットを脱いだ。

彼は驚き、何が起こったのか理解できなかった。

彼女の目は、まるで何かに取り憑かれたように焦点が定まらず、口からは意味不明な言葉が溢れ出ていた。


「助けて!ここから出して!」と、彼女は叫んだ。


彼の心臓はドクン、ドクンと早鐘のように鳴り始めた。

周囲の人々が彼女を見つめている。

彼女の顔は真っ青で、恐怖がその表情に刻まれている。

彼は「何があったんだ?」と問いかけたが、彼女はただ無我夢中で道路に向かって叫んでいる。



「コツン、コツン、コツン」



——その音は彼女の叫びに重なり、まるで誰かが後ろから迫っているようだった。

彼は背筋が寒くなり、背後を振り返った。


しかし、そこには誰もいない。

もう一度、彼女の様子を見つめると、彼女は突然、目を大きく見開き、彼を見つめ返す。


「彼がいるの!私の後ろに、彼がいるの!」彼女は泣き叫んだ。


彼は恐怖に駆られ、

「誰がいるんだ?何もいないだろう!」

と言ったが、彼女はますます狂ったように笑い、涙を流しながら

「見えてるんだ!あの人が私を見てる!」と叫び続けた。

その声は周囲の人々を引き寄せ、彼は自分が孤立していることに気づいた。



「コツン、コツン、コツン」



——その音は、彼女の叫び声と共鳴し、まるで彼女の心の中に潜む恐怖が外に出てきたかのようだった。信号が青に変わると、周囲の人々は次々と通り過ぎていく。

彼は彼女を抱きしめようとしたが、彼女はその手を振り払った。


「近づかないで!」

と叫ぶ彼女の声が、まるで彼の心を引き裂くように響いた。


その瞬間、彼女の目が急に冷たくなり、何かを見透かすような表情に変わった。


「もう遅い、彼が来る……」と呟いた。

その言葉が彼の耳に残り、彼の心に重くのしかかる。

彼は背後に何かが迫っているような気配を感じ、思わず振り返った。

しかし、そこには何もない。


ただ青空と静かな街並みだけ。


彼女はそのまま、何もかもを忘れたように立ち尽くしていた。

彼は彼女の肩を揺らし、「大丈夫だ!何も怖くない、俺がいるから」と言ったが、彼女の目は完全に虚ろで、もう彼の声は届いていないようだった。


その時、彼女の口から出た一言が、彼を凍りつかせた。


「彼が来たの、私の後ろにいるの、見える?」


彼は恐れを感じつつも、彼女の言葉を無視しようとした。

しかし、その瞬間、彼の背後で「コツン、コツン、コツン」と、はっきりとした音が響いた。

まるで彼を呼び寄せるように。


彼は背筋が凍りつくのを感じ、もう一度振り返った。

そこには何もない。

しかし、彼の心の中に、何かが芽生えていた。

恐ろしい真実を理解し始めていたのだ。

彼女の目が見開かれたまま、彼を見つめている。

彼女の表情には恐怖が満ちていたが、同時に何か解放されたような笑みも混じっていた。


「もう帰れないの、彼と一緒に行くの」

と彼女が呟いた瞬間、彼の頭の中に、彼女の声と共鳴するような

「コツン、コツン、コツン」という音が響き渡った。

彼女はまるで彼の手を振りほどき、何かに誘われるように、彼から遠ざかっていく。その瞬間、彼は彼女の目の奥に潜む恐怖を確かに感じた。


彼は叫び声を上げたが、彼女はすでに暗闇に飲み込まれつつあった。

「彼女を返せ!」と叫んでも、周囲の人々は無関心に通り過ぎていく。

彼女は振り返り、最後の一言を残した。


「さよなら、私を忘れて!」


その言葉が響くと、彼女は消え去った。


信号は赤のまま

彼は一人、空虚な街の中に立ち尽くしていた。

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彼が来るの からし @KARSHI

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