第11話



   「将棋部時代の思い出」


 高校生の時は、将棋クラブに入部していました。

 正式には「囲碁・将棋部」で、全員男子やった。


 高校は、地元の進学校で、伝統があり、海辺の風光明媚な街に建っていた。

 武蔵坊弁慶とか、南方熊楠で有名…というと、わかる人はわかるでしょうか?

 入学したときは席次が”2番”で、かなりの田舎育ちなので、「車輪の下」のハンス・ギーベンラートという少年を連想したりした。(末路も似ているw)

 育ったのは山奥の村で、井上靖さんの「しろばんば」を彷彿した。

 井上靖さんの自伝は、その後やはり、静岡の海岸の中学→金沢の四高と続いていったので、ここも似ているのです。


 将棋クラブに入ると、中学の先輩がおり、この人は囲碁をしていた。

 同じ中学からその進学校に行くのは、年に数人やったから、まあ心強かったが、要するに学力格差?もあるから、田舎からその高校に行く人のほうが地頭力は強いという気味合いもあった。かもしれぬ。


 将棋部は秀才が多いという傾向もあって、手前味噌やが?、先輩の有力メンバーが3人いて、部長は東京理科大、副将が、早稲田。もう一人は東大に行ってました。

 

 入部したときに、副将が、「おれたちは、いつもだいたい図書室のサロンにいるからな」とか、言ってくれたのを覚えています。この人は、のちに就職すると、同じ事務所におられた。進路も似ていたのです。


 高校の先生でも、地学の先生が東大卒でした。広島大は恐育学部が有名?とかで、卒業されていた先生もいた。体育担当の、国士館大卒の、相撲取り並みにいかつい体格の、昔プロレスをやっていたという先生もいた。受け持ってもらっていても、あんまりそれぞれのプロフィールとか詳しくないが、日々に授業を受けていたので、ニュアンスだけの、こもごました思い出は無数にあるなあ。

 そういうのが生徒に影響を与えていくと思うと?教師は責任重大で、ボクはしなくてよかった。w


 将棋部は、半分帰宅部の、ゆるい感じの部活動で、放課後に小人数がぼそぼそとやっているのが常態やったです。

 翌年、ボクらの代の部長になった人は、Mくんと言って、さわやかな感じの滑舌のいい?人でした。前の年から熱心に通っていたのはボクと、Mくん、あと2,3人くらいだった。で、Mくんとは2年ほど、毎日のように差し向かいで将棋を指していたことになる。


 ボクは当時は今よりもっと弱くて、ある時に、Wくんというちょっと軟弱な男が、「このうちで一番強いんはMくんかー! 俺一番弱いかなあー? あ!、Jくんがいるわ! Jくんよりは強いわ!」とか言ったことがある。 ボクはその”Jくん”なんですが、こっちはこっちで、(お前よりは強いわい)とか思っていたりした。


 今はボクは”ひふみん”なみの、「矢倉棒銀」派になったが、当時は「四間飛車」が得意戦法だった。 今では藤井システムという四間飛車定跡がありますが、この考案者の四間飛車党は、聡太でなく藤井猛という棋士です。

 斎田晴子さんという女流棋士も、四間飛車が好きらしい。

 将棋の戦法も流行りすたりがあり、中原誠さんが強かった時代はオーソドックスな相矢倉が多かった。相掛かり、という飛車先を付き合うのが流行ったり、居飛車穴熊が流行ったりして、そのあとAI将棋の時代になって、今は全然知らない。

 コンピューターは独得の思考回路で、常識はずれのとてつもなくヘンな手を指したりすることもあるらしいです。 また機会があったら調べてみたい。


 前にも書いたが、山口瞳さんという週刊新潮の連載コラムで有名だった作家が、将棋好きで、いくつか「将棋本」を、棋譜入りで刊行していて、それをよく棋譜並べして家で研究したりしていた。 そうすると、あにはからんや、強くなって、翌日にMくんと対戦すると、普段はまったく勝てないのに、”金星”を、連続して挙げられたりしたこともあった。


 


 


 


 

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