第9話
「25人のビリーミリガン」というダニエルキイス(「アルジャーノンに花束を」の作者)の小説は、多重人格を扱っているが、面白いのは、別人格に、本人には全くない”別種の才能”が存在したりするところである。つまり、ある別人格が表面に出ている時のビリーミリガン氏は、非常に美しい達者な風景画が描けたりする。
これは本に挿絵が出ていた。こういうことは、つまり、脳という複雑な器官ならではのミステリーですが、だいたい脳は、構造、機能その他が複雑で奥が深くて、未解明な部分が多いみたいに、どういう専門書にも説明されている。
だとしたら、どういう人にも、隠秘されている未知の才能とかが存在しうることになる。
将棋が強い、そういう人でも「たまたまその才能が発現、顕現しているだけで、条件が違えばタダの凡人」だった可能性もある。
世の中には無数のいろいろなスポーツや遊戯、種類やルールも違うさまざまな項目、アイテム、仕事やスキルがあり、誰に何の才能があるかもよくわからないし、最適な仕事だか競技だかに「まだ出会っていないだけ」、なのかもしれぬ。
こういうことは誰でも空想するらしくて、吉行淳之介さんは、初めて囲碁を習ったときに「まさかと思っていた囲碁の才能がないことが判明した」とか書いていた。
あらゆることを、だからボクも、できるだけチャレンジしてみようとか、そういう積極的な発想はあります。羽生善治さんは囲碁やチェスも強いらしいが、やはり将棋ほどでない…そういうのも「なぜか?」となると不可思議な、神秘な領域になる。
才能発揮がマルチなタイプ、というのもあって、最近はクロスメディア?というのかそういう流行かもしれない…例の「台湾の天才」の人がそういうニュアンスの話をしていた。
落合博満氏は、ボーリングもプロ級だったらしい。「一芸に秀でし者は…」という諺もある。逆に山下清さんのような例もある。やはり、「Peaple are freaks 《みんなきけいじ》」が、現実みたいだな? ASDと、自称したりするが、だいたいが自閉症スペクトラムという呼称も、「症例が千差万別」という意味らしい。だとするともうそれは単なる性格、個性ではないかとも思うが? 精神医学には精神医学の事情があるのであろうか?
人間には、どんなおかしな人に、一見は見えても、一皮むくと?よく知れば知るほどに意外な、素晴らしい一面、才能とかが隠れていたり、潜在的な無限の可能性があったり、それが真実で、それだから人間個々にユニーク極まりない値打ちや尊厳や、あだやおろそかにできない「畏怖」が存在するのだ…これは「if 」でもある。
人間というものポテンシャルな、無限のパッシビリティとかを、単純に踏みにじったりすることの恐ろしさを、だから蔑ろにすべきでない…「アルジャーノンに花束を」で、チャーリーをさんざん馬鹿にしていた周囲の凡人たちは「backfire《しっぺがえし》」されて、ひどい屈辱に苦しむ…そういうくだりがあるが、別に荒唐無稽なSFの話でなくても、愚か者が多い世の中ではそういうことは日常茶飯にたくさん起こっているような逸話かもしれない…
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