第七話 佐藤優希の秘密2
このままリョウの側にいてはいけないという思いはあったはずだ。しかし、目の前の無垢な子を守ってくれる人は自分以外にいない。そのことを彼は知っていた。
ネグレクトで通報すれば、一時的に親はリョウの面倒を見るようになる。しかし、それが続かないことはもう何度も証明されていて、行政もそれ以上は手が出せない状態だった。
——僕はリョウに手を出さない。絶対に。
優希はそう覚悟を決めて、リョウの世話を続ける事にした。
そんな彼をさらなる地獄へと導いたのが、
佐野家の両親は、会社経営をしている父親と専業主婦の母親だった。父親はかなり横暴な男で、仕事はしっかりしていたものの、頻繁に若い女と出かけては数日戻らないという生活をしていた。
母親はそれを知りながらも父親に縋り続け、女としての自分を保つ努力をしようとして、ミドリを放置し続けていた。
リョウは仲間意識からかそれに気がついたらしく、自分からミドリに声をかけたらしい。そうして同じ傷を持つもの同士はすぐに仲良くなり、二人は一緒にいることが増えていった。
「ゆうくん、ミドリちゃんもいっしょね! ね! おねがい!」
リョウがいつもそう言うので、ミドリはリョウの家で寝る時間になるまでを一緒に過ごすようになっていった。そしてそのうちに、優希はミドリに対しても似たような気持ちを抱いていくようになる。
その時の落ち込み方は、リョウへの思いに気がついた時よりも酷いものとなった。もしかしたら、自分は小さい子なら誰でもいいと思っている節操なしなのではないかという、新たな悩みが生まれたからだ。
「なんでこんな風に生まれたんだ……。どうして僕には普通と呼べるところが一つもないんだ」
毎日そう思って、自分を忌み嫌うようになった。その絶望感は、それから五年ほど優希の心の底へと溜まり続けることになる。
彼には、自分が二人と会わずに逃げるということが、彼らを見捨てることになると思えてならなかった。罪のない二人がそんな悲しい経験をするということが、どうしても受け入れられずにいた。
おそらく、彼らに対して優しくすることで、そうして欲しかったかつての自分を慰めていたのだろう。それならば、自分から会わなくなるという選択肢は取りづらい。
「せめて誰かが代わってくれるまでは……」
そう思って続ける事にした。
ただし、どれほど我慢しようとしても、体に反応は起きていく。罪の意識は常に頭を離れず、優希はいつも悲しみに潰されそうな顔をするようになっていた。
「ゆうくん、ないてるの? どこかいたいの? びょういんいく?」
常に目に涙を溜めている優希のことを心配して、リョウがそう訊ねた時、彼は何も答えられない自分のことを心底嫌悪した。
「なんでもないよ、リョウ。ちょっと勉強に疲れたのかなあ」
そう誤魔化して安心させてあげると、リョウは可愛らしい笑顔を浮かべて抱きついてくる。その時巻き起こる感情は、甘くて深い絶望だった。
電車に飛び込んでしまおうかと思ったこともある。それでもやはり、命を捨てることだけは、どうしても出来なかった。
「ゆうくん、あのね」
幼稚園から帰ってきた二人が、その日にあったことを話してくれる。その目の輝きが、踏みとどまれと言っているように思えた。
「絶対に二人を守るんだ。もし手を出しそうになったら、その時に死ねばいい」
そう決めてからは、一緒に過ごす時間はとにかく心を殺すことを念頭に置いた。少しでも黒い感情が湧いた場合には、思考を止めることに精を出す。
何も考えられなくするためには、自分を痛めつけるのが最も効果的だと分かってからは、人に見えない場所を選んで痛みを与え続けた。
どうにもならない瀬戸際に追い込まれた場合は、コンパスの針で思い切り足を刺した。深く針を刺して血が流れたとしても、その痛み程度であれば、優希にとっては心を殺す日常の中にある癒しのようですらあった。
繰り返されたそれは、今でも優希の足に幾何学模様のようになって残っている。日常生活には支障はないが、何度も筋肉を壊してバランスを崩した足では、いつの間にか走ることが困難になっていた。
「これでいいんだ。今日も僕は罪を犯さなかった。そのことを誇りに思おう」
自傷傾向の深まりは優希の判断力を歪め、生きていることが不思議なほどに憔悴させていった。
そんな日々が長く続いた。そうやって、耐えに耐えた。それでも解決策が見つからない。苦しみに耐えかねた優希は、藁にもすがる思いで葵に相談することとなる。
「子供に性欲? お前が?」
葵は驚いて言葉を失くした。その時の葵の顔を見て、優希は安堵した。葵にも秘めたものがあるからか、彼は人のままならない事情を揶揄したりすることがない。きちんと話を聞こうとしてくれているのが伝わり、それだけで彼の胸は詰まっていく。
「気持ち悪いよね。でも……お願い、葵しか頼れない。聞くだけ聞いて欲しいんだ。解決策が無いことはわかってる。二人が大人になったら……せめて中学生くらいになれば、僕はどこかへ消えるよ。それまででいいんだ。僕のこと支えてくれない? 僕が道を踏み外しそうになったら、止めて欲しいんだ」
「優希……」
当時、葵は家族と揉めていて、家に居場所が無かった。二人は気兼ねなく過ごせる場所として、図書室を選んでいた。テスト期間のあけたばかりの図書室は、人が少なくなる。そのタイミングで優希は葵に相談を持ちかけた。
葵は、優希の話を聞いても俄かには信じがたかったため、足の怪我を見せてもらった。それを見て、事の深刻さを理解する。
「お前これ……、こんなになるまで頑張ったのか……」
葵はこの時、自分のことで精一杯だった自分を恥じた。唯一の幼馴染がこんなに苦しんでいる事に、全く気がつくことが出来なかったのだ。
ようやく人に打ち開かせることが出来た優希は、胸の支えが幾分楽になったのか、小さな子供のように大声をあげて泣き始めた。
葵は優希のその姿を見て、衝動的に彼を抱きしめた。
「わかった。俺がいつもお前の隣にいるようにするよ。俺が見張っててやるから安心しろ。力なら間違いなく俺が勝てるから、お前が何かしそうになったら、殴って気絶させてやるよ」
葵のその言葉を聞いて、優希はしゃくりあげながらも、ふっと楽しそうに吹き出した。
「空手やってる人に殴られたら、僕死んじゃうよ」
それは、彼が久しぶりに得ることができた、心からの笑顔だった。
それ以降は、毎日葵と共に過ごした。葵はいわゆるギフテッドで、勉強らしい勉強をしなくても、授業を聞いてパラパラと参考書をめくっておけば、テストはほぼ満点を取る。大学受験用に勉強をすることも無いらしく、周囲からはそれで嫌厭されていた。
「俺ギフテッドって言われても全くいいことがあった覚えがねーけど、優希のために時間が作ってやれるなら、こんなふうに生まれて良かったのかもな」
そう言って葵は優希を助けるようになった。
彼がリョウとミドリの世話をしてくれている間、優希は一人で勉強する時間を取ることが出来るようになった。わからないところは、翌日学校で葵に教えてもらえる。少しずつ生活に色が戻るのを感じていた。
ミドリは夜には家に帰るため、葵を挟んでリョウと三人で眠るようになった。葵の親が葵を探さないことが気にはなったが、それ以外に困ったことは起きなかった。葵のおかげで優希はようやく安眠出来るようになり、体調もだんだんと回復していった。
そうして協力しながら過ごしていったことで、二人とも無事に希望校に進学し、そのまま何事もなく卒業するに至った。葵の指導に従っていると、難なく就職活動もクリアすることが出来た。
そうして社会人になってからも、優希がリョウとミドリの世話をする時には、葵が必ず駆けつけてくれていた。その間リョウとミドリは小学生になり、自分たちで出来ることが増えていった。四人で過ごす時間は、次第になくなりつつあった。
それでも、毎日少しでも最愛の人たちの世話をしていると、どうしても欲が顔を出して来る時がある。どんなに辛くても自分からは絶対に触れないように気をつけてはいたが、二人から触れてくるのは拒まないように努力した。
優希にとっては、それが最も辛かった。本能を抑え続けて生きていくことは、すでに限界を迎えつつあった。
「もうダメだ……このままじゃ、リョウとミドリになにをするかわからない……」
当時、優希は二十三歳だった。彼がペドフィリアの自覚を持ってから、既に五年が経っていた。暗いトンネルを走り続けた五年の先に、ようやく希望の光が見える時を迎えようとしていた。
彼が希死念慮に駆られていた時だった。手に包丁を持ち、自分へ向けてそれを突き立てようとしていた。
それまで自分を押し留めていたものは、もうなくなりつつある。今なら優希が死んだとしても、二人は生活していけるだろう。
「僕、もう十分頑張ったよね」
誰とは無しに問いかけるように呟いて、楽になろうという思いに任せようとしていた。手を震わせながら、自分を呪う言葉を思いつく限りに吐いた。しっかり自分を嫌いになって、見捨ててやろうとしていた。
その手を止めたのは、葵からの電話だった。着信音を耳にした途端、包丁を捨てた。涙が溢れて止まらなくなり、大声で泣きながら電話に出た。
優希の命を繋いだその電話が、その後の彼の人生を大きく変える事になる。
ダイヤと秘密 皆中明 @mimeina
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