山での初仕事⑥
「お疲れさまでした。すみません、帰りも運転お任せしてしまって」
「運転できんのか、おまえ」
「免許を取ってまだ一年経ってないので、公用車を運転する資格がありません」
「あっそ」
一切の期待を放り投げた声で応じて、先輩がエンジンを回す。
「うん?」
回す。
「な、なんか、変な音してません?」
先輩は真顔のままだが、ぎゅるぎゅる、ぼすんとエンジンは不安になる音を立て続けている。先輩が無言のまま、もう一度エンジンキーを回した。ぼすんとまぬけな音を最後にエンジンが完全に無音になる。
「あの、先輩」
「……エンスト」
ぼそりと嫌そうに先輩が言う。不貞腐れた三歳児そのものの横顔だったわけだが、そんなことは言えるわけがない。代わりに、「バッテリー上がっちゃいましたかね」とあたしは尋ねた。
決して新しいとは言えない公用車ではあるものの、破滅的に古いわけではない。エンジンキーを無言で凝視していた先輩が、ちらりとあたしを見た。
「手ぇ伸ばして、ちょっと回して」
「はい?」
「そこから手ぇ伸ばして、エンジン回せって言ったんだよ」
あたしが回したところでなんの意味もないんじゃないかな。疑問はあったが、先輩のご機嫌が最優先だ。
失礼しますと断って、手を伸ばす。そんなわけあるかと思いながら回したエンジンは、あっけなくかかった。一発で。
「……」
思わず先輩の横顔をガン見したものの、先輩はガン無視で「よし、帰るか」と呟いた。アクセルを踏み込む。
……って、ふつうに動いてるし。
謎すぎるし、公用車はそれ以降なんの不調もなく走り続けている。もう突っ込むのはやめにしよう。無事に市道に出たあたりで、あたしは肩から力を抜いた。
襲いかかる眠気を追い払ううち、公用車は無事に市役所に到着した。
「お疲れさまだったね」
よれよれになって、よろず相談課に戻ったあたしたちを、七海さんは朝と変わらない笑顔で労ってくれた。課長の席はもう無人である。
「定時過ぎちゃったからね、課長は帰ったよ」
「七海さんは待っていてくださったんですか?」
申し訳なさの滲んだあたしの声に、七海さんは笑顔で首を横に振る。そのあいだに先輩は自分の席にどっかりと腰を下ろしていた。
「僕は仕事が残っていたからね。それで、どうだった? はじめての外回りは」
「え、……っと」
曖昧にへらりとした笑みを浮かべ、先輩を横目で見る。
どう言えばいいのかわからなかったけれど、思ったままを言葉にした。
「そうですね。あの、なんというか。なんで先輩が毎日つなぎでふらふらしていらっしゃったのか、よくわかりました」
小さく目を瞬かせた七海さんが、そうだねと穏やかに頷く。
「明日からは、三崎くんももっとラフな服装で来たらいいよ。今日は気を使ってくれたんだろう?」
「はは、ちょっと、選択を間違っちゃったような気もしてたんですが。そう言ってもらえると救われます」
笑ったあたしに、七海さんもにこりとほほえんだ。
「三崎くん。今日はお疲れさま。定時も過ぎたし、もう上がったらいいよ」
「え、でも。なにか報告とか」
「明日でいいから。ね、真晴くん」
その声に、いかにも渋々と先輩が顔を上げた。そして小さく手を振る。さようならというよりは、犬を追い払う手つきだ。
「明日教えてやる」
でも。
「ありがとうございます! それじゃ、お言葉に甘えて、お先に失礼します」
その言葉に、愛想笑いではない笑顔であたしは頭を下げた。スーツの汚れも、パンプスの汚れもまったく気にならない。
今日の朝、なにも教えてやらんと言わんばかりだった先輩が、明日教えると言ってくれた。
ほんの少しだけでも認めてもらえたのかなと思うと、素直にうれしい。
懐くのに時間のかかる野生動物みたいなものだから。そう笑った七海さんの台詞が頭によぎって、あたしはひとりでふふと笑った。
たしかにこれは、野生の動物を懐かせた優越感と少し似ている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます