山での初仕事③
「なんだか、すごい山の中ですねぇ」
本当にこの道で合ってるんだろうな、と。疑いたくなる場所なわけだが、助手席に座っている身で言えるわけもなく、あたしはきょろきょろと周囲に視線を配った。ものの見事な山道である。
「基本的にこういうところばっかりだぞ、うちは」
「はぁ」
だから、この人、春夏秋冬つなぎで過ごしているのだろうか。
「あの、ちなみに、さっきのおばあさんってどんな方なんですか? すみません、あたし、怒らせてしまって」
謝罪行脚ではないと先輩は言っていたけれど、お気を悪くさせたことについては謝ったほうがいいだろう。ちょっと気は重いけれど。
先輩はまた少し黙ったあと、ぼそりと呟いた。「狸」
「え? 狸って、狸?」
山の中に住んでいるから、狸ということだろうか。それとも、まさか、狸でも飼っているのだろうか。
混乱するあたしを他所に、先輩はまた口を閉ざした。怒らせたかなと横顔を窺う。だが、その横顔は怒っているというよりは悩んでいるようで、あたしは首を傾げだ。
「まぁ、なんだ。狸みたいなばあさんだ」
「は、はぁ」
あたしにもわかる言葉を探してくれたのかもしれない。ポジティブに捉えようとしたのも束の間、先輩は面倒になったことが見え見えの態度で言い切った。
「見ればわかる」
だからそれ以上は聞くなと言われたことを悟って、大人しく口を噤む。ガタガタと古い公用車のシートは揺れていて、酔わないようにあたしは意識を外に向けた。途切れることなく緑の続く、本格的な山道である。
ナビもなにも必要としない先輩の運転に加え、話しかけるなと言われてしまえば、することがない。
よろず相談、か。
暇な頭であたしは考える。直近の相談内容が境内掃除と聞いた時点で、本当によろずなのだと実感した。
――たしかに、掃除も大事だとは思うしさ。誰かがしなきゃいけないことだっていうのもわかるんだけどさ。それが仕事内容なの、っていう。課長がああ言ったときは、なんか勢いで感動しちゃったけど。
そんなこと、課内では口が裂けても言えないし、顔に出すわけにもいかないけれど、思うくらいは自由だろう。
挙げ句の果てに、初日から、よくわからない先輩とふたりきりで道なき道をドライブだ。
墓場。
異動になったら最後、退職するまで変わることはない夢守市役所の墓場。
嬉々とした鈴木さんの顔がよぎって、あたしは国民健康保険課に思考を馳せた。きっと今ごろ大忙しだろうなぁ。年度初めは一年のうちでも忙しい時期のひとつなのだ。
引っ越しや転職による保険の切り替え。窓口も電話も大混雑で、番号順に並んでもらうことさえある、息つく暇もない繁忙期。
――そりゃ、部署が変われば大きく仕事も変わるんだろうけど。
なんだか、昨日までとは大違いだ。あたしはそっと運転席に視線を向けた。もっさりとしか表現できない黒髪と、容貌のほとんどを覆い隠す大きな黒縁眼鏡。
それでも間近で見ると、あのころの「最上先輩」の面影があった。じっと見ていると視線が煩かったのか、先輩が眉を顰める。
「なんだ」
「あ、……いえ。すみませんって、ん?」
妙な音が聞こえた気がして、謝罪の途中であたしは眉間にしわを寄せた。
「なにか聞こえません?」
呆れ顔の先輩が溜息交じりに、車を停める。駐車場でもなんでもない、かろうじて補整されていた山道から少し外れた平地。建物も目に見える範囲にはなく木々ばかりだ。
「狸囃子だろ」
「わぁ、懐かしいです、それ。昔おばあちゃんがよく言ってました。というか、よくご存知ですね」
「馬鹿にしてんのか」
「いやいやいや、むしろ逆というか。今まで私の周りにそういったことを知っている子っていなかったので」
はなはおばあちゃん子だよね、とか、ばばくさい、とかは、幾度となく言われたけれど。
ちなみに先輩の言った狸囃子とは、夜中にどこからともなく響いてくる笛や太鼓の囃子のことだ。その名のとおり、その音を出しているのは狸なのだそうだ。まぁ、今は夜中ではないけれど。
「そういう時代だからな」
「え?」
「だから、俺が呼びつけられるんだ」
「はぁ」
意味がわからなくて、あたしは曖昧に頷いた。先輩に倣ってシートベルトを外す。なにもないところだが、ここで降りるらしい。
「最近じゃなんだ、アポカリプティックサウンドとかなんとか言うやつもいるけどな」
「なんですか、それ?」
「さぁな」
おざなりすぎる相槌ひとつで、先輩がドアを開けた。説明してくれる気はないらしい。
「ここから先は歩く」
その言葉に、あたしも慌てて外に降り立つ。不思議な音は止んでいて、騒めく木々の音だけが静かに響いていた。
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