8 香りと向き合う試練
調香室に満ちる香りは、これまでの試作にはなかった強烈な力を持っていた。
ローズエバーグリーンを中心に調合された香りは、吸血衝動を和らげる可能性を秘めている一方で、涼音の心を深く揺さぶるものでもあった。
彼女はその香りを嗅ぐたび、過去の記憶や吸血鬼としての本能に囚われる。
その日の午後、涼音は試作の香りを手首に一滴垂らし、外の世界を歩き出した。
いつもとは違う空気に触れることで、香りの作用を確かめようとしたのだ。
街の雑踏の中で、人々の視線が彼女に集まるのを感じた。
「この香り……。」
誰もが無意識に涼音の近くに引き寄せられていく。
その香りには、相手の心を惹きつける奇妙な力があった。
だが同時に、涼音の内なる衝動も徐々に高まっていく。
人々の鼓動の音が彼女の耳に鮮明に響き、吸血鬼としての欲望が胸を締めつけた。
彼女は必死に拳を握りしめ、自らを抑えた。
「このままでは……危険すぎる。」
涼音は足早に街を抜け、調香室へと戻った。
調香室に帰ると、情報屋の男が待っていた。
彼は涼音の青ざめた顔を見て、すぐに異変に気づいた。
「何かあったのか?」
彼女は深く息をつき、試作した香りの危険性について話した。
「この香りには、確かに吸血衝動を抑える力がある。でも、それ以上に相手を引き寄せる力が強すぎる。まるで、人の心を操るような……そんな危うさを感じるの。」
男は眉をひそめた。
「そんな力を持つ香りを他の吸血鬼が知ったら……奪い取ろうとする奴が出てくるだろうな。」
その言葉が現実になるのは、すぐのことだった。
夜、調香室の扉が激しく叩かれた。
涼音が警戒しながら扉を開けると、そこに立っていたのは一人の吸血鬼だった。
彼は冷たい笑みを浮かべながら涼音に近づく。
「君が特別な香りを作ったと聞いてね。それを嗅がせてもらおう。」
涼音は無表情を装いながら答えた。
「ここは私の調香室よ。勝手に踏み込ませるわけにはいかない。」
だが、男は構わず中へと足を踏み入れる。
涼音は一歩下がり、机の上に置かれた香水瓶に目をやった。
「その香り……。」
吸血鬼は瓶を手に取り、鼻を近づけた。
その瞬間、彼の表情が変わる。
「なんという力だ……これがあれば、人間を完全に支配することも可能だろう。」
彼は笑い声を上げるが、同時に体を震わせた。
「くっ……。」
香りが彼の内なる衝動をも刺激し、暴走しかけていたのだ。
涼音はその隙をつき、男の手から香水瓶を奪い取った。
「これはあなたのために作ったものじゃない。」
男は苦々しい表情を浮かべながら言った。
「ふん、そうか。だが覚えておけ。お前がその香りを完成させた時、必ずそれを狙う者が現れる。」
男が去った後、涼音は香水瓶を手に取り、その中身を見つめた。
「この香りが完成すれば、吸血衝動を抑える手段になるかもしれない。」
だが、それが他の吸血鬼を引き寄せる危険な力でもあることを彼女は理解していた。
「それでも、進むしかない。」
彼女は決意を新たにし、次の素材――魂を癒すと言われる「エクリプスアッシュ」を探す旅の準備を始めた。
それは、これまで以上に困難で危険な挑戦になるだろう。
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