⑧「零れ月」
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月が満ちれば、いずれは欠ける。
どんなことにもきっかけというものはあるのだ。
二人にとっての「そのきっかけ」は、ジャハムがもたらした。
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ある日の夕暮れ。
リオンがその日の仕事を終えて帰ろうとすると、「リオンさん、お客さんが来ていますよ」と声がかかる。
リオンはこの日、現場ではなく内勤として働いていた。いくつかの建築物の設計の仕事を頼まれていたのだ。
そして、やや足早に出口まで行くと、そこには見慣れた姿があった。
ジャハムである。
この老人が自分の職場までやってきたのは、今までなかったことだ。一体何の用だろうと逡巡するリオンだが、少なくとも良い話ではないなとジャハムの様子を見て察した。
ジャハムの佇まいは一見して重く、普段はピンと張った背筋が、今はわずかに前に沈み込んでいる。まるで湿った分厚い憂鬱のベールをまとい、その重さに耐えかねているようだった。
◆
「話がある。その、シーラのことなんじゃが」
職場からやや離れた場所で、ジャハムはそう切り出した。
リオンの勘は当たった。
やはり悪い話だったのだ。
ジャハムによれば、シーラが死んだという。
大通りで、馬車にひかれて。
運が悪かったのはその日クラウディアも勤めている商店の仕事が長引き、留守だったということだ。
どちらかが居ればこの悲劇は防げたかもしれない。
「そうですか。しかし、シーラは家に……それにドアも窓も、しっかりと閉めていたと思うんですが。もちろん、餌はちゃんと用意してありました」
自分でそう言って、瞬間、リオンは以前クラウディアと話したことを思い出した。
──精霊はね、恩恵を与えるだけじゃなくって悪戯をするときもあるらしいの。勝手に扉を開けたり、窓を開けたり。大した悪戯じゃないけれどね。自分はここにいる、って人間に伝えている……って話よ
まさかな、と思う。
王国では精霊信仰が盛んだが、実際に精霊が存在するという確固たる証明はされていない。
サルーム王国民でさえも、一種のおとぎ話だと思っているのだ。
「猫は……ほんのわずかな隙間から外に出ることもできる。シーラもきっと、どこか私たちが想像もつかない場所から抜け出したのかもしれん。それにしても、気の毒なことじゃ。……クラウディアも悲しむじゃろうな」
ジャハムの言葉にリオンは頷いた。
そして、伝えてくれたことへの礼を述べようとしたが、黙り込む。
なぜなら、ジャハムがまだ何かを言いだしそうにしていたからだ。
言うべきか言わないべきか悩んでいる、そんな気配を感じる。
すると、
「生きているものは」とジャハムが口を開いた。
「生きているものは、いずれは死ぬ。死ぬべき時に死ぬ。しかし、死ぬべきでない時に死んでしまうものもいる。そんな者たちを、精霊は憐れむ。そして、機会を与えてくれる……然るべき場所で、然るべきやり方をもって祈れば」
言葉の一つ一つにトゲが生えているとでも言ったように、ジャハムはどこか苦しそうに続けた。
「時も、重要じゃ。早ければ早いほど良い。命の精霊が抜け出してしまう前に、それをするんじゃ」
ジャハムが一体何を言っているのか、リオンにはよくわからない。
機会とは何か、それをするとは一体何をすることを意味するのか。
気になることはたくさんある。
しかし、それらを聞いてしまえば後戻りできなくなる、そんな思いも抱く。
「…………シーラを、埋葬せねばな」
ジャハムの言葉は助け舟だった。
少なくとも、あのまま彼の言葉を聞いているよりはずっと良かった。
──そうだ、シーラを埋葬しなくてはいけない。でも場所はどこに……。決まった場所があるのだろうか、どこでも構わないということだったら家の近くがいいだろうか。シーラは乾かした果実が好きだった……墓の前に置いてやろう
リオンがそんなことを考えていると、ジャハムが再び口を開いた。
「然るべき場所がある。そこに埋めよう。シーラのお嬢ちゃんが引かれたのは、ついさっきじゃ。早ければ早いほど、良い」
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