第13話   本丸への潜入

 涼一は闇夜に溶け込むように敷地内をひたすらに走っていた。


 その呼吸は一切乱れてはおらず、一滴の汗も掻いてはいない。


整息術せいそくじゅつ〉である。


 忍者は例え何キロ走ろうが決して息を乱すことは許されない。


 乱れた呼吸音のせいで気配が敵に伝わるとも限らないからである。


 だからこそ、忍者は古来より特殊な訓練によって息を乱さない走法を編み出し昇華させてきた。


 鼻先に紙や羽毛をつけて走っても離れないような訓練から始まり、少しずつ吸いこんだ空気を腹に溜めて、全身にいきわたらせるような訓練に励んだ。


 この訓練を称して〈整息〉と呼び、この術を突き詰めていくと〈無息忍むそくにん〉という呼吸音を無くす術を会得できた。


 もちろん、涼一も会得済みである。


 舞花と別れてから二キロほど走った涼一は、ふと立ち止まった。


 瞬時に身近な茂みに身を隠し、常人よりも遥かによく効く夜目で目の前に広がる光景を凝視する。


 茂みの隙間から視線を覗かせていた涼一の目の前には、外観が白一色に塗られた五階建ての建物が堂々と鎮座していた。


 正面入り口はゲートで閉ざされ、建物全体を囲う塀の高さは軽く五メートルはある。


 それだけでも堅牢という文字が頭に浮かぶのだが、その他にも塀の端には目立たないように監視カメラが設置され、建物にはめられている窓はおそらく防弾ガラスだろう。


 何せセミナー参加者を寝泊りさせている施設の窓でさえ防弾ガラスだったのだ。


 そう考えるとこの敷地内に建てられている全施設の窓は防弾ガラスと見ていいだろう。


 はっきり言って金のかけすぎだ。


 外観を一通り見渡した涼一は、今度は正面入り口に視線を向けた。


 入り口には屈強な信者二人が後ろで腕を組みながら立ち番をしていた。


 一分おきに左右に配っていた鋭い視線や、服の上からでもわかるほど発達した筋肉が如実に物語っていた。


 男たちはプロである。


 少なくともただの信者ではない。


 さてどうするか。


 涼一はこのままどうやって施設内に潜入するか思案した。


 入り口を警備している二人の門番を倒すのは造作もなかった。


 涼一が潜んでいる茂みから正面入り口までの距離は約十メートル。


 手持ちの遠距離用投擲武器である棒手裏剣で機先を制し、一気に間合いを詰めれば素手で倒せる。


 その自信は確かにあった。だが、そこで終わりである。


 監視カメラは入り口のどんな角度でも映せるように設置されている。


 例え一瞬で終わる行為とはいえ、どこかの監視室で見張っている人間は嫌でも気づくだろう。


 するとすぐに大勢の人員を送り込まれ、多勢に無勢の状況に陥ってしまう。それだけは避けたい。


 自分一人ばかりではなく舞花にも迷惑がかかり、何よりも聖を救出する目的自体が無為になってしまう。


 そこで涼一は一旦その場から移動することにした。


 よく考えれば忍者が正面突破するなど愚の骨頂である。


 それは先ほど舞花に自分が言ったことではないか。


 涼一は軽く苦笑すると、門番の人間やあちこちに設置されている警備システムに引っ掛からないように走り出した。


 少し遠回りになるが正面入り口から右手に周り、裏口か何か抜け穴のようなものがないかを隈なく探した。


 これは経験からなのだが、どんなに屈強で堅牢な建物であっても必ずどこかに思わぬ落とし穴が存在する。


 人間と同じである。


 弱点がまったくない完全無比な人間がこの世に存在しないように、完全鉄壁な建物なども存在しない。


 必ずどこかに潜入できる場所がある。


 周囲の木々や茂みに身を隠す〈木遁の術〉を使用しながら、涼一は慎重に建物の外周を回っていく。


 途中、巡回している信者に遭遇しそうになったが、その度に気配を完全に消してやり過ごすと、涼一は建物の裏手の位置までやってきた。


 徐々に走る速度を落としていった涼一は、念のために片膝をついて周囲を見渡した。


 幸いにも裏手のため外灯は一切なく、警備の人間の気配も皆無だった。


「……見つけた」


 思わず涼一は嬉しそうに呟いた。


 外灯がなかったため建物の裏手は漆黒の闇に覆われ、五メートルの塀が悠然と広がっていた。


 だからこそなのだろうか。


 普通の人間ならば気づきもしなかっただろうが、夜目が驚異的に効く涼一は見落とさなかった。


 塀の一番右端の場所に小さな扉があった。


 おそらく非常口である。


 光は点っていなかったが、扉の上には一本の蛍光灯が見えた。


 非常事態にのみ光が点る仕組みなのだろう。


 涼一は近くの地面を見渡すと、手頃な大きさの小石を拾った。


 そして人差し指、中指、親指の三本の指でいい塩梅に握ると、手首のスナップを利かせて小石を投げ放った。


 目標は蛍光灯だ。


 次の瞬間、バリン、と蛍光灯が粉々に砕け散った。


 涼一の手元から恐ろしい速度で飛んだ小石が、ただのガラスで形成された蛍光灯を見事に打ち砕いたのだ。


 蛍光灯が粉砕した光景を視認した涼一は疾風の如く移動し、非常口の扉まで近づいた。


 扉は引きドア式だと確認すると、涼一は気配を消して隣の壁に背中を預けた。


 感じる。


 誰かが非常口の扉を開ける気配を――。


 涼一の予想通り非常口の扉は開かれた。


 中からは気だるそうに欠伸を漏らした二十代前半と思われる青年が出てきた。


「いったい何だよ」


 外に出てきた青年は、呆けた様子で割れた蛍光灯を見上げた。


 首を傾げながら「何で割れてんだ?」と阿呆のように呟いている。


 好都合であった。


 外に出てきた青年はただの木偶の棒であった。


 涼一はすぐさま青年の前に躍り出た。


 青年は突如として目の前に現れた不審者にギョッと身体を硬直させたが、それは一瞬だけであった。


 涼一はポカンと開いていた青年の口を瞬時に左手で塞いだ。


 間髪を入れず、甲の部分を下にして放つ右の下突きを青年の腹部に矢の如く突き放った。


 青年の柔らかな腹部には強烈な涼一の下突きが深々とめり込んだ。


 その衝撃は外部だけではなく内部にまで浸透し、青年は立ち眩みにも似た症状を発しながら昏倒した。


 この間、わずか二秒。


 まさに瞬殺であった。


「しばらく休憩してな」


 気絶した青年を地面に寝かせた涼一は、次にポーチの中から携帯ライトを取り出した。


 スイッチを入れて微量な光を放出させると、その光を頼りに青年のポケットを弄る。


 あった。


 青年のズボンのポケットには身分証明書の代わりであった専用のIDカードが入っていた。


 このIDカードがあれば施設内の専用部屋に入れるだろう。


 涼一はそのことを知っていた。


 いや、厳密に言うと目撃していた。


 それはセミナー参加者の施設内をさりげなく見回っていたときであった。


 二人の信者が一般解放されていない部屋に入ろうとした光景を偶然にも目撃した。


 一人の信者がIDカードを持ってくることを忘れたと騒ぎ、もう一人の信者は笑いながら自分のIDカードを取り出して専用部屋のロックを解除したのである。


 その二人のやり取りを柱の影から覗き見ていた涼一は、その他の施設も同様の警備システムだと読んだ。


 おそらく当たっているだろう。


 IDカードをポケットに入れた涼一は、非常口の扉から颯爽と建物内に潜入した。

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