〇101号室 日比木静

「私が奏多くんに呼び出されるなんて、思いもよらなかった。

どうしたの?」

「ああ、実は静にお願いがあって」


12月のある日。

私は今日珍しく、リロードレコーズの会議室に呼び出されていた。

理由は聞いていないんだけど、奏多くんが私を呼ぶなんて

何ごとかと驚いた。

だって奏多くんは、家を出てこの会社を作ってから

私にはあまり関わろうとしなかったから。

私に……というか、実家にか。

それに今は充希ちゃんと結婚もしたし……あ、そうか。

充希ちゃんとのことを家族に連絡したいとか、かしら?

やっぱりお祝い事はみんなに知らせたいものね。

充希ちゃんは専門学校のときは女の子として

ボーカルを務めていたけど、

結局男性アーティストとして今はデビューしている。

だから結婚式は挙げていない。

でも、女の子としてはやっぱり結婚式を挙げてほしいと思う。

そういう相談だったら、私も協力したい。


「充希ちゃんとのことは、私から奏多くんのご両親にお伝えするわ。

結婚式は海外でやったらどうかしら?

日本だと充希ちゃんと正体がバレちゃうかもしれないでしょ?

ハワイとかバリとかグアムとか!

海辺での結婚式なんて素敵じゃない?」

「あ、いや。充希とのことは今回関係ない」

「え?」


だったらなおさら呼び出された意味がわからない。

奏多くんは私に、垂直にホチキスで留めた資料を渡す。

同じものが6部ある。

内容は……。


「『リロレコ クリスマスフェス』?」


これって確か、毎年クリスマスに開催される

リロードレコーズの株主を招いたイベントだ。

もちろん株主だけじゃなくて、

一般のお客さんも観覧することができる。


「そうだわ。私にもチケット3枚、もらえないかしら?

たなごさんが笹井くんや吉田くんとも

仲がいいから、きっと見に行きたいと思うの」


ケンさんと、ノゾミちゃん、井ノ寺さんの分。

奏多くんならこのくらい多めに見てくれるはずと

ちょっとだけ期待を込めて。


「3枚? 静のマンションって、6部屋入居してるでしょ?

1枚足りないんじゃない?」

「いいのよ。私の分は必要ないから」


去年のクリスマス、私は実家に帰っていた。

クリスマスは私にとって楽しいイベントじゃない。

星弥の命日だから。

私が星弥をステージに連れ出したから、あの子は死んでしまった。

そのショックで声を失くしたこともあった。

だけどそれは、私にとって当然の罰だとも思った。


「……まだ星弥のことを思ってるの?

静は自分を責め過ぎてる。

もういい加減、気持ちに区切りをつけたら?」


私はそう言われても首を左右に振った。

これからもずっと、クリスマスは星弥に祈りを捧げ続ける。

そんなことくらいしか、私にはできないから。


しばらくの間、沈黙する。

奏多くんと一緒に紅茶を飲む。

ゆったりした空気だ。

……久しぶりだな、こういうの。

でも、昔とは違う。

奏多くんは結婚してるし、私も気になる人ができた。

別々の道を進み始めているのに、一緒にいても心地がいい。

お互い目が合うと、自然と笑みがこぼれる。

そのときドアを開ける音がした。


「静さ~ん!」

「あら、充希ちゃん」

「えへへ、遊びにきちゃった」

「……嘘。ヤキモチでしょ」

「えっ」

「バカだな、充希。

静にヤキモチなんて……俺は静をそういう目で見たこともないし、

そもそも俺たちは新婚だろ」

「で、でも! ……気になっちゃったんだもん」

「まぁまぁ、奏多くん。奥さんの機嫌を損ねちゃダメよ?」


大学時代はふたりを見るのもつらかった。

失恋というのは、時が解決してくれるのかもしれない。

最近なんかつらいどころか、ふたりが仲良くしているのを見るだけで

こちらも幸せになってくるようになった。

ふたりはお似合いだし、充希ちゃんもかわいい妹って感じだものね。


「それよりカナタ、静さんに言ったの? 

クリスマスフェスのこと」

「あ、そうそう。チケットをくれないかって

今お願いしていたところだったのよ」

「……いや、チケットは渡せない」

「え?」


なんで? やっぱりズルはダメってことなのかしら。

それだったらしょうがないわね。

一般発売で買うしかないけど……そうなると3枚も

取れるかわからない。

それだけ人気のフェスなのだ。

しかし奏多くんは、先ほど渡した資料に目を通すように促す。

そう言えば、まだタイトルしか中身を見ていなかったわね。

何が書いてあるというの?


「……え!? ちょっと待って、奏多くん。これって……!?」


「実は今度のイベントは、一部だけある雑誌社との共同企画なんだ。

今、静のアパートには、偶然にも5人のアーティストが住んでいる。

3+のRyusei、地殺の翔太。それに元・MAXLUCKのJIROに元・SODのアスト。

最後に最近ネットで話題になっているR32P。

これだけ集まってるなら、そのメンバーでバンドを組んでほしい。

もちろんクリスマスのフェス一日だけ。

報酬はきっちり払う」


私はもらった資料を目で追う。

バンド編成はこうだ。

笹井くんがボーカル。吉田くんがドラム。これはいつものバンド通り。

ケンさんは『JIRO』としてはギターだけど、今回はベース。

ノゾミちゃんが作詞・作曲を手がけ、キーボードが井ノ寺さんだ。


「静にはみんなを説得してもらいたい。

この通り、お願いだ」

「で、でもなんで……?」

「もちろん話題性だ。

だが、同じアパートに住んでることは言わない。

バンドをシャッフルすることで、『特別なイベント感』は

出るだろう?」

「そうそう! ファンも喜ぶし、株主も上機嫌! ってこと」


奏多くんのうしろから首に腕を回す充希ちゃん。

話題性……。

そういうのはよくわからないけれど、

アパートのみんなで何かできたら、確かに楽しいかもしれない。

でも私の一存では決められない。


「一度、みんなに聞いてみてからでもいいかしら?」

「もちろん。そのために静を呼んだんだ。

説得だけならアストやRyusei、翔太、誰にでも頼んでもいい。

でも、あのアパートできちんとみんなをまとめているのは、静だからね」

「私にそんな力はないわよ?」

「そういう控えめなところ! そういう性格の静さんだから、だよ」


充希ちゃんはそう言って笑うけど……

私はみんなに協力してもらっているだけ。

大家だけど、私は無力。


そんな本音を隠して、

私も充希ちゃんと奏多くんに笑顔を見せて会議室を出た。


アパートに帰ると、私は一軒ずつ資料を配りに

部屋を回ることにした。

朝渡して説明するには、みんな忙しいだろう。

ポストに入れておくだけでも意味もない。


まずは2階端から。203号室の井ノ寺さん。

インターフォンを押す前に出てきてくれて、少し驚く。


「どうかしましたか? 日比木さん」

「あ、ごめんなさい。ちょっとびっくりしちゃって」

「防犯カメラをチェックしていたところだったんです。

そしたらあなたが」


そうか。

井ノ寺さんには警備も任せていたんだったわ。

最近は警備というよりも、私と一緒に朝の掃除や

町内会の会合に出席したりと

私よりも大家らしい仕事をしている。

ちょっと自分が情けない。


「それで、俺に何か用事ですか?」

「あ、ああ! そうなの。実は……」


私は井ノ寺さんに資料を渡す。

それを見ても、彼の表情は変わらない。


「あの……どうですか? 井ノ寺さん。

みんなで音楽、やってみません?」

「俺ひとりでやることは構わない。夏祭りでも演らせてもらったしな。

だが、他のメンバーが何というか。

俺ひとりでは決められない」

「やっぱりそうですよね……」


どうしよう。

冷静になってみれば、こうやってひとりずつ部屋を訪ねても

みんなの総意が得られなきゃ意味がないわよね。


「みんなの意見が知りたいのなら、集まればいい」

「え?」

「メッセで俺の部屋に来るよう、みんなに集合をかけます」


その手があったか。

やっぱり私よりも井ノ寺さんの方が大家に向いているのかも。

奏多くん夫婦は私に架け橋的な役目を頼んだけど、

私にそんな力はない。

とりあえず井ノ寺さんにお礼を言い、

全員が集まれる20:00に再度部屋へお邪魔することにした。


「あたしは無理! だって、あたしは本職のミュージシャンじゃないんだよ!?

大学の卒論のためだけに音楽やってるんだから」

「嘘つけ、楽しんでるのには変わんねーだろ」


ノゾミちゃんが「できない」と言っても、

ケンさんが彼女の頭をがっしり手で押さえて笑う。


「オレはやりたいです! 

なんだかんだ言って、笹井さんと一緒にステージに立つことも

目標だったですし!」

「そのわりに最近僕への態度、ひどくなったよね? 吉田くん」

「音楽をやってる笹井さんはかっこいいですけど、

実体を知っちゃったら……まぁ」

「なに、その『まぁ』って」

「笹井くんはやっぱり嫌?」


私がたずねると、笹井くんは顔を赤くして否定する。


「いえ! 僕も他のみんなと演奏するのはいい経験になると思うので。

……それに静さんの頼みなら……」


「笹井も吉田も事務所の社長命令なんでしょ!? でもあたしは違う。

R32Pの正体は謎なんだから。バレたら……恐ろしすぎる!

アンタたちは人前に出ることに慣れっこかもしれないけどね、

あたしは一般人なんだから! 身バレとか勘弁してよ……」


「お前は前に出なくてもいいだろ。作詞・作曲担当なんだから。

俺はお前の作った曲、やってみたいと思うぞ?

まぁ本当はギターがよかったけど、今回はベースだ。

いつも協力してるだろ? たまには俺のための曲、作ってくれよ」

「うっ……」


ノゾミちゃんもケンさんに頼まれたら嫌とは言えないみたい。

すっかり仲良しさんになったのね。

ふたりの関係がちょっとうらやましいな……。

そう思いながら、ふと笹井くんの方へと目を向ける。

途端、目が合って私はすぐに逸らした。

……びっくりした。

まさか笹井くんも私を見てたとは思わなかった。

ノゾミちゃんとケンさんは、まだ恋人じゃない。

でもきっと、いずれかは……。

私は?

私は笹井くんのことをちゃんと想っているのかな。

まだその勇気がない。

一緒に江ノ島へ行ったとき、『本当はふたりで来たかった』って

思った。

それなのに私はいつも受け身。

好きな人ができても、いつも声すらかけられなくて。

ただ、お菓子を焼いてきたり、世間話をするのがやっとで。

たまに見せる笑顔や照れた表情。

吉田くんにからかわれて、すねてそっぽを向くところも好きなのに、

なにもできない。

無力で、カッコ悪くて、ただ笑っているだけが

精一杯の小心者だ。


私が持ってきたお手製マドレーヌと、

井ノ寺さんが作ったチーズケーキをむしゃむしゃ食べる

ノゾミちゃん。

ノゾミちゃんが曲と詞を作ってくれなかったら、

きっと奏多くんもがっかりするだろうな。

彼女も売れっ子さんだから。

私個人としては、みんなの作ったステージを見てみたい。

これはただのわがままでしかないんだけど。

どうしたら説得できるかな……。

私が困っていると、井ノ寺さんが資料の4ページ目をみんなに見せる。


「これが契約書内容だ。

俺たちはステージに立つが、ノゾミには作詞・作曲だけ。

しかし、ギャラはかなりいい。見てみろ」

「ギャラ……。そう言えばいくつか機材を新しくしたいと思ってたんだよね」

「あ、それならタヌキ社長が立て替えてくれるんじゃねーの?

『新曲作るためです!』って言っとけば」

「う~ん……そういうことなら、引き受けてもいいかな。

1回だけだし」


ようやくノゾミちゃんがうなずくと、

みんなは私を見つめた。


「静さん、僕たち、ステージに立ちますよ」

「ええ!」


笹井くんを始め、みんな笑顔だ。

みんなの心がひとつになった気がして、

私の胸も熱くなる。

嬉しくなった私は、すぐに廊下へ出ると

奏多くんに連絡した。



12月24日のイベントまで、日がない。

ともかく曲がないと練習できないということで、

ノゾミちゃんは大学をサボって曲を作っている。

時折ケンさんが様子を見に行ってくれたりしているけど、

なかなか難しいみたい。


そんなさなか……。


「ケンさん、なんで松本大学来ねぇんですか!」

「お前には言えねぇなぁ~」

「ま、まさか病気とか!?」


あ、狛江くんとケンさん。

ノゾミちゃんのことで言い争ってるみたい。


「ちょっとふたりとも! 

ケンさんも狛江くんをたきつけないでください」

「静さんは知ってるんですか? 松本が学校来ないの」

「それは……」


ケンさんは知らんふり。

私も奏多くんから強く口止めされているし、

言えない。


「松本、メッセも返信遅いし……心配なんですよ」

「大丈夫よ、ご飯は私や井ノ寺さんが持って行ってるし……あ」

「静さんっ!」


ケンさんがギンッ! と私をにらむ。

失言したかも。

ケンさんはため息をつくと、狛江くんに説明をする。


「松本はな、クリスマスに向けて新曲を作ってるんだよ。

今まで以上に最高の、な」

「だったらなんで俺に何も言ってこないんですか!

あいつお抱えのイラストレーターですよ!?」

「……悪いな、今回は俺のために作ってるから。曲」

「なっ!?」

「そういうことだから、さっさと帰れ」

「……くそっ! いってぇ……」


狛江くんは電柱を思い切り蹴って

帰って行った。


「ケンさん、あんな言い方は……」

「ノゾミが俺のモンだってことは本当のことだろ? はっはっは!」


もう、ケンさんったら……。

でもいいなぁ。

笹井くんもあんな風に……って、いけない。

こんなの妄想だ。

相手に何かを求める前に、私が行動しなくちゃいけないのに。

いつも笹井くんの言葉を待っているのはずるい。

だけど、どうすればいいの?

悩んでいると、携帯にメッセが来た。


『静さん、助けて』


ノゾミちゃん!?

何があったの!?

私は急いで2階へ上ると、合鍵で部屋を開ける。


「ノゾミちゃん!」

「静さぁ~ん……」


部屋の電気がついていない。

壁をつたってライトをつけると、

ノゾミちゃんがベッドの上でぐったりしていた。


「どうしたの!? 大丈夫!?」

「熱が……」

「お薬は?」

「効かないやつなんです。いわゆる知恵熱ってやつで」


知恵熱?

と、ともかく熱は出てるのよね。

おでこに手を当てると、熱い。

だけど風邪じゃない。ただ熱があるってだけ。


「解熱剤、効くかしら」

「いや、問題が解決すれば引くんだよ」

「もしかして……曲作りがうまくいってないの?」

「曲はできた。みんなにメールで譜面も送ってる。

ただ、バラードの歌詞だけ……。ね、静さん! 

あたしの代わりに書いてくれないかな?

もちろんギャラも渡すし!」

「ええっ!? と、突然すぎるわ」

「だけど……静さんもアパートのメンバーじゃない。

一緒に参加したいと思わない?」

「それは……」


それは確かに密かに思っていた。

だけど……。


「私はミュージシャンじゃないよ?」

「何言ってんの。声楽科の歌姫でしょ!

シロウトのあたしなんかよりきちんと理論とか勉強してるじゃん」

「でも……」


私が言いよどむと、

ノゾミちゃんは私の唇に人差し指を置いた。


「『でも』とか『だけど』とかやめない?

あたし気づいちゃったこと、あるんだよね~」

「え?」


私がノゾミちゃんのベッドに座ると、

彼女はボーッとしながらつぶやきはじめる。

どうやら帰りの電車で、私は眠ってしまったらしい。

思い返してみても、ノゾミちゃんの言う通り。

記憶がない。


「そのときさ、静さん、笹井にこうして

肩に頭置いてたの。超安心しきった顔で」


クッションを抱っこしたノゾミちゃんが

私の肩に寄りかかる。

彼女の柔らかな髪の感覚がする。


「それ見て、静さんも実は笹井のこと……」

「ノゾミちゃんは? ケンさんのこと、どう思ってるの?」

「どうって……」


パソコンのファンと暖房の風の音が

ノゾミちゃんの作った曲の代わりに流れている。

こうやって女同士で話したこと、よく考えたらなかったな。


「静さん、そこにワインあるんだよね~。

飲まない?」

「平気なの? 知恵熱」

「酒飲んじゃったら変わんないし?」

「ふふっ、お酒好きな人は本当にしょうがないわね」


冷蔵庫の前に何本か置かれているワイン。

私は食器棚からグラスをふたつ取り出すと、

一番高そうな赤ワインを選んでベッドのノゾミちゃんに

差し出した。


「これでもいい?」

「そのつもりだった」


コルク栓を抜くと、グラスに注ぐ。

ふたりきりで乾杯すると、のどを鳴らす。

たまにはこういうのも悪くない。

私立の一貫女子高だったのに、

あんまり深くつきあった子はいなかった。

大学時代の友人の方が多いくらい。

その友達も、声を失って疎遠になってしまった。

声が戻った今なら、大学にも戻れるかもしれない。

それでも私はその道に戻ろうとしないのは、

もう過去を振り返らないと決めたから。

声が戻った、あの冬の夜に。


「あたしは……こんな性格じゃん?

昔っから友達なんていなかったんだ。

ぼっち上等。今でもね」

「私もある意味ノゾミちゃんと一緒よ。

みんな声をかけてくれても、何を考えてるんだか……。

『すましてる』なんて言われても困る」

「あー、あたしも最初そう思ったよ。静さんのこと」

「ひどい、ノゾミちゃん」

「今は違うって」


女子ふたり。

私もまだ『女子』でいいのかはわからないけど、

ノゾミちゃんと一緒に、ワインを飲み干していく

空になったグラスに、さらにお酒を注ごうとした

ノゾミちゃんを捕獲すると、脇腹をくすぐる。


「うわっ!? の、ノゾミさんっ!」

「そろそろケンさんのこと、話してもらうわよ?」

「あはははっ!! も、もうわかったよ!

だからやめてって!」

「それならよし」

「静さんもいい性格してるよね」


ノゾミちゃんの拘束を解くと、

私からグラスにお酒を注いであげた。

それをごくんと一気にあおると、ノゾミちゃんは顔を真っ赤にして

話し始めた。


「なんだかんだ言ってさ、やっぱケンって大人なんだよ。

あたしはまだまだガキで。

でも、やっぱあたし……ケンとこれからも一緒にいたいって思ってる。

これって恋かな?」


ノゾミちゃんもわからないんだ。

それだったら、私が答えを出してはいけない。

ワインを飲んで誤魔化すと、大きく息を吐く。


「勇気を持つってことは大事だと思う。

その人を『好きだ』って思う勇気。

それを『伝える』っていう勇気。

人を愛するのには、どちらも欠けちゃいけない。

私には勇気がなかった」

「静さん……」


私はノゾミちゃんの腕を取ると、

そっと言った。


「さっきのお話。私が詞を書くっていう……。

お金はいらない。

表面上はノゾミちゃんが書いたってことにしてくれるなら、

書くわ」

「え、本当?」


驚く彼女に力強く私はうなずく。

私は決めた。

ちゃんとあなたを好きだって、告白する。

ただ、まだ勇気が足りない。

だから歌にして伝えるわ。

そしていつか、本当のことをあなたに打ち明ける。

この曲はあなたのために、私が書いたものだって。

ノゾミちゃんにもそうお願いする。

彼女は「やっと頭痛の種が消えた」って

笑うけど、きっと私の思いを理解してくれている。

その証拠に、一筆書いてくれた。

『静さんの想いが届きますように』って。

そう書くと、飲み干して空になった

ワインのビンに紙を入れる。


「笹井と両想いになったら、このビンを割って

みんなでお祝いね!

静さんは今日飲んだのと同じグレードの赤ワインを

持ってくること! あ、シャンパンでもいいかな~」

「了解、約束するわ」


私はかわいい妹みたいな彼女の頬に、軽くキスをする。


「わ!? し、静さん!?」

「ふふっ、ノゾミちゃんがかわいかったから」

「……酔ってる?」

「酔ってないわ。私はみんなが大好き。もちろんノゾミちゃんも。

でも、一番大切な人に、今度はきっと気持ちを伝える。

今夜はありがとう」


熱があると言っていたノゾミちゃんの代わりに

グラスを洗うと、私は202号室をあとにした。


「詞、かぁ……」


昔は思いのたけをぶつけていた。

『hallelugah』のときは、星弥を勇気づけるような歌詞を

書いていたっけ。

ギターとしてステージに立っていたあの子が

ずっと心配で。

……心配なんて、ステージに立てる力がついた時点で

いらなかったのにね。

人を奮い立たせるような、そんな歌。

大声で『頑張れ』って叫んでいた。

今から思うと、それは自分に言い聞かせていたのかもしれない。

奏多くんにフラれて、惨めだった自分に。

そうか、私は惨めだと自分を思っていたんだ。

だからひたすら『自分』を励ます歌を書いていた。

すらすらと書けたのはそのせい。

でも今回書くバラードの歌詞は、『私』のためのものじゃない。

私が笹井くんに伝えたい『言葉』なんだ。


「あ~……ノゾミちゃんが頭を抱えるわけがわかったわ」


私の方が年上なのに、なにもわかっていなかったのね。

好きな人にただ好きって伝えることが、

こんなにも難しいなんて。

恋に年齢なんて関係ない。

どの年代の女の子も悩むこと。


1階の部屋から窓の外を眺める。

目の前にはいつも通る歩道橋。

今日の私はその下から、星を見上げる。

車のライトは私と同じくらいの目線。

手に届きそうだからと近づくと、きっと車にはねられる。

だから私は遠くから見るだけ。

死んでしまうとわかっているのに、その光にはねられたいと

思ってしまうのは……

とうとう私がおかしくなってしまった証拠なのかしら。


「歩道橋……」


私はぽつりとこぼして、テーブルの上に広げた

ノートにいくつもの文字を並べていく。

私らしくない、荒々しい文字。

これが愛や恋の言葉?

それでもいい。

伝われ、伝わって……!


冬の朝日は昇るのが遅い。

私は珍しく、井ノ寺さんにインターフォンで

起こされるハメになった。


「日比木さんが寝坊……しかも寝不足なんて、

珍しいですね」

「ふああ……すみません、井ノ寺さん。

ところで、クリスマスフェスの練習は?」

「昨晩からはじめています。しかし、大変なのは琉成でしょう。

あいつはボーカルも兼ねている。だが、1曲だけ詞がまだだからな」


そうね……。私が早く書かないと、笹井くんが練習できない。

昨日の段階で、メロディはなんとなく決まった。

歌詞もなんとなく。

今夜にはノゾミちゃんに送れると思う。

ノゾミちゃんからみんなへ。

そうのんきに思っていたけど、確かにクリスマスまでに

時間はない。


「井ノ寺さん、今日のノゾミちゃんのご飯、よろしくお願いします!

私はやることがあるので!」

「え? 日比木さん!?」


驚いている井ノ寺さんだけど、ご飯を作っているよりも

早くみんなに歌詞を送らないと。

私はパソコンを起動させると、昨日

書きなぐった歌詞を打ちこむ。

何度も何度も画面を見つめた。

これでいいの? 自分に問い続ける。

笹井くんに宛てた私の心。

伝わるかわからないけど……送信。

あとはみんなに。

ステージ、楽しみに待ってるわ。


「はぁ……一晩寝るのが遅くなっただけで、

クタクタ。やっぱり私はもう、おばさんなのね」


恋なんて、もう遅い年齢なのかも。

だからきっと、これが最後のチャンス。

カッコ悪い大人になったなぁ……。

これが私の、つまらない青春。

ずっと好きな人がいた。

その人にはあっさりと嫌われた。

理由は当時、わからなかったから……引きずっていた。

でも、今ならわかるの。

私は何もできない操り人形だったから。

大人の言いなりに生きてきた。

その人の代わりを、弟にさせようとした。

すべてを失っても……笑顔のマネキンを演じていた。

マネキンだった私を変えてくれたのが、笹井くんだ。

私はベッドに横たわると、珍しく一日中眠り込んでしまった。


12月中旬。

曲と歌詞がそろってから、私とノゾミちゃん以外のみんなは

事務所のスタジオにずっとこもりきりだ。

ちょっと寂しいけど……フェスのためにはしょうがないことだ。

笹井くんと吉田くんは、アパートメンバーのバンド以外にも

自分たちのバンドの練習もある。

ふたりはほぼ泊りがけ。

吉田くんも、事務所から学校に通っている。

このアパートはノゾミちゃんと私、ふたりきりだ。

朝、掃除をしていると、ノゾミちゃんがひょこっと出てきた。


「し~ずかさん!」

「あ、ノゾミちゃん。今日はお夕飯、いる?」


ノゾミちゃんは最近、狛江くんによく誘われている。

本人は気づいていないけど、

狛江くんはノゾミちゃんのことが好き。

これは誰が見ても明白だと思う。

大学でのふたりはわからないけれど……。

それでもノゾミちゃんは、アパートで私と一緒に夕飯を

食べてくれている。

きっと、たなごさんがいなくなって寂しいと

気を遣ってくれているのね。

だけどノゾミちゃんは、首を振った。


「今日はいらない。そのかわりさ、事務所に差し入れに行かない?」

「え?」

「あたしだって、これでも一応料理できるし!

……みんながいないと、やっぱ寂しいからさ。

騒がしいケンとか、口うるさい井ノ寺、いいやつっぽい皮をかぶった生意気吉田に

ネクラな笹井。みんながいないと、なんかやる気でなくってさ。

それにあたしの曲も、どんな仕上がりになってるか気になるし。

だからさ、一緒に料理作って、事務所に乗り込んでやろうよ!」

「……うん!」


私はノゾミちゃんと夕方買い物に行き、

料理を作って事務所に向かう約束をする。

久しぶりにみんなに会える。

何を作っていったら喜ぶかしら?

ノゾミちゃんが大学へ行っている間、

私はネットのお料理レシピとずっとにらめっこを

していた。


だけど、結局ふたりで用意したのは、

おにぎりとサンドイッチ。

からあげと卵焼き。

ベーコンのアスパラ巻きとポテトサラダという

普通のお弁当になってしまった。

最初はローストビーフとか、もっとゴージャスなメニューに

しようとも思ったんだけど、

きっとみんなは食べ慣れているだろうとノゾミちゃんが言った。

『どうせケータリングでいいモン食べてるんだから、

静さんの得意な内容がいいよ』って。


大きな重箱を持って、事務所の前に行く。

そうだ。

奏多くんに連絡して、事務所の入館証明書をもらわないと。

そう思って、携帯を取り出したところ、

意外な人に会った。


「あれ? ……確か静さん?」

「あなたは……華也ちゃんだったっけ?」

「お久しぶりです!」


華也ちゃんには以前ここの事務所で会ったことがある。

リロレコのアーティストのMUGIさんと

偶然事務所内を案内してもらったことがあって、

そのときに初めて顔を合わせたのだ。


「静さん」

「あっ、ごめんなさい。

華也ちゃん、こっちはうちのたなごさんの松本ノゾミちゃん。

ノゾミちゃん、彼女は出雲華也ちゃん。

Stringsの専属ダンサーさんなのよ」


私が軽く紹介すると、ふたりも挨拶する。


「ところで静さんは、今日どうして事務所に?」

「実は、知り合いがスタジオにずっとこもっているから、

お弁当を作ってきたの」

「知り合いって……あ! もしかして、『Apart Lead』の?」

「あぱーとりーど?」


ノゾミちゃんが首をかしげると、華也ちゃんが興奮しながら

説明する。


「静さんのアパートのメンバーのバンド名ですよ!

私もバカstringsのせいでフェスには出ることに

なっているんで、知ってたんです!

私、案内しますよ! 翔太に会えるかもしれないし……」

「吉田に?」

「華也ちゃん、吉田くんの大ファンなんだって」


こそっとノゾミちゃんに耳打ちする。

華也ちゃんに入館証をもらうと、

私たちはそれを首にかけてさっそくスタジオへ向かう。


「えっと……この時間だったら多分、Aスタジオだと思います!」


エレベーターでスタジオの階まで行くと、

静かに廊下を歩く。

Aスタジオの前に着くと、『収録中』のライトがついていないことを

確認すると、一応ノックをする。

扉が分厚いから、ノックしても気づかれないかもしれないけど、

念のため。

中から返事はないが、ノゾミちゃんが扉を少しだけ開いた。

すると、ちょうどみんな休憩していたみたい。

お茶やコーヒーを飲んでいた。


「ケン、みんな!」

「ノゾミ!? 静さんも」


ケンさんと吉田くん、井ノ寺さんは、

突然来た私たちに目を丸くする。


「陣中見舞いにこれ、持ってきたんだけど」


私は控えめに、お弁当を入れた風呂敷を持ち上げる。


「静さんのお手製弁当だよ!」

「ノゾミちゃんも一緒に作ったでしょ?

そうだ、華也ちゃんもよかったら……」


一緒に食べない? と誘おうとして振り向くと、

華也ちゃんは吉田くんの前で自己紹介しようとしていた。


「しょ、翔太……くんっ! 私、翔太くんの大ファンなんですっ!

握手してください! あと、サインも!!」

「え? あ……それは嬉しいな! いつもありがと……」

「ちょ~っと待った~!」


吉田くんが華也ちゃんと握手をしようとしてきたとき、

男の子ふたりが乱入してきた。

あの子たちは、確か奏都くんと奏夢くん!?


「華也ちゃん、レッスンに来るのが遅いと思ってたら~!!」

「探しに来て正解だった! さ、行くよ!」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ! 私は翔太とやっと握手……」

「約束したでしょ! 華也ちゃんはオレたちのお姫様なんだから!」

「わぁ~ん!! 翔太ぁ~!!」


華也ちゃんはふたりに引きずられて強制退場。

それを珍しくひきつった笑顔で見送る吉田くん。


「あの子が『華也ちゃん』だったのか」

「知ってたのか?」


ケンさんの質問に、うなずく吉田くん。


「前に一度、社長室に偶然みんな集まったことがあって。

そのときstringsのふたりが、『華也ちゃんに近づくな!』って。

よくわからなかったんですけど」


吉田くん、事務所内にもファンがいるのね。

ま、当たり前か。

吉田くんは爽やかで人当たりもいいもの。

顔もかわいらしいし、モテない方がおかしい。

……吉田くんがそうなら、やっぱり笹井くんもモテるのかしら。


そうだ。そう言えば笹井くんは?

スタジオの中にいない。

最初は休憩中だったから、お手洗いにでも

行ってるのかと思ってたけど、

違うのかな。


「あの、笹井くんはどこへ?」


「ああ、外の空気を吸って来るって。

屋上じゃねぇかな。よく息抜きに行ってるみたいだからな」


屋上……。

みんなは私が作ったお弁当に舌鼓を打つ。

おいしそうに食べてくれるのは嬉しい。

だけど、一番食べてほしい人がここにいなかったら

意味がない。

みんなが盛り上がっている中、私はそっとスタジオを抜け出して

屋上へ向かった。


階段を上って重い扉を開けると、

そこにはひとりの男の人の姿があった。

見覚えがある背中。

笹井くんだ。


「今夜は星がきれいね」

「静さん? なんでここに……」

「差し入れを持ってきたの。笹井くんがいなかったから、

探しに。どう? バンドは」


何気なく隣に立つと、柵に寄りかかって

笹井くんの顔をのぞく。


「いつものメンバーと違う人とやるの、

すごく楽しいです。

でも、ひとつ気になることが」

「なあに?」

「あの曲のバラードの歌詞……松本さん、誰に向けて書いたんだろうって」


まっすぐな瞳を私に向ける笹井くん。

歌詞はノゾミちゃんが書いたってことになっている。

本当は私から出した笹井くんへのラブレター。

笹井くんがわからないのは当然だわ。

ノゾミちゃんが書いたものじゃないから。


私はそれに答えないで、顔を上げた。


「ここの屋上は、歩道橋より空に近いね。

星に手が届くんじゃないかって、錯覚しちゃう」

「………」

「でも、あんまり長く外にいたら、風邪をひいちゃうわ。

ライブ前にそれはダメでしょ?

それに笹井くんはボーカルなんだから。

お弁当、食べに戻りましょう?」

「……はい」


私は笹井くんを連れてスタジオへ戻る。

ドアの前でもう一度、空を見上げる。

冬の空は澄んでいる。

まるでダイヤモンドだ。



フェス当日はあっという間に訪れた。

12月24日。

私たちは会場である横浜のアリーナに

すでに到着していた。

リハーサルは順調に進んでいる。

今日のフェスはリロレコのメンバーが

総出の豪華なものだ。

最初に吉田くんのバンド、次にMUGIちゃん。

笹井くんのバンドが終わったら、Strings。

そしてアパートのみんなのバンド、Apart Leadが出て、

トリは充希ちゃん。

オーラスは全員で洋楽のカバーを歌うらしい。


私とノゾミちゃんは、座席のほうじゃなくて

舞台袖で演奏を見学させてもらうことになっていた。

みんなと一番近い場所で、同じ熱気を感じていたかったから。

奏多くんにわがままを言ってしまったけど、

このくらいいいわよね。


そして18:30。開演。

トップバッターの地殺の人気はやっぱりすごい。

若い女の子たちの黄色い歓声が聞こえる。

吉田くんも汗まみれでドラムを叩く。

華也ちゃんがファンになる気持ちもわかるかも。

5曲演奏すると、MUGIちゃんにバトンタッチ。

MUGIちゃんはアコギでの演奏。

激しかった地殺の演奏よりはまったりしていたけど、

充希ちゃんとのコラボ曲になると、

みんなテンション高く腕を振る。

MUGIちゃんたちが引っこむと、いよいよ笹井くんのバンドだ。

地殺は女の子の声がよく聞こえたけど、

3+は男性ファンの雄叫びもよく聞こえる。

男女ともに人気なんだな……。

昔、ゾンビスクラップだったときは、ほぼ男の人しかファンがいない

なんて笹井くんは言っていたけど

今はどっちにもファンがいる。

スポットライトを浴びた笹井くんは、光っている。

曲が始まると少ししゃがれた声で歌い始める。

笹井くんの声は、きれいで透き通った声ではないけど、

私は大好きだ。

それに彼のギター。

前は星弥と重ねていたけど、今は違う。


演奏を終えた笹井くんを

私はタオルを持って迎えた。


次はStrings。

その間にみんなは同じTシャツに着替える。

今日のイベント用のものだ。

無論、物販でも販売しているもので、着ているお客さんもいる。

デザインはレイちゃんがやってくれたみたい。

おそろいの白いTシャツ。

みんなが黒Tシャツばっかりだから、

たまには他の色をってことみたい。


「おっしゃ! いっちょぶちかましてくるかっ!」

「ケンはブラックパレードよりも俺たちとのバンドの方が

楽しいみたいだな」


すでに気合いが入ってメガネを外している井ノ寺さんが言うと、

ケンさんはニヤッと笑った。


「当たり前だ! あれはあくまでも仕事だからな!」

「これも仕事でしょ?」

「仕事だけど……演るのはお前の作った曲だからな」

「……バーカ」


ふふっ、ノゾミちゃん真っ赤になってる。

あ、そうだ。

ひとつみんなにプレゼントしたいものがあったんだ。

私はバッグの中から、革のリストバンドを取り出した。


「みんなに似合うかはわからないけど、

作ってみたの。

Tシャツは物販でも売ってるけど、これは

今日の思い出ってことで」


ケンさんには黒、井ノ寺さんには青、吉田くんには黄色。

ノゾミちゃんには赤を。

そして笹井くんの手首に、私は緑のリストバンドを巻いた。


「へぇ、日にちが入ってるんですね!

いいなぁ、こういうの!」


素直に喜んでくれる吉田くん。

ノゾミちゃんもにっこり笑ってくれている。


「だけど……俺にはちょっと恥ずかしいな。

年甲斐もないし」

「いや、バンドというものはいつだって

年齢なんか関係ないだろう。

俺たちミュージシャンは、40になっても50になっても、

売れない曲とTシャツとタオルを売り続けるのだ」

「あはは、井ノ寺ってば『売れない』って決めつけてるんだ」


みんなが盛り上がっている中、笹井くんだけは

腕につけたリストバンドを眺めている。

……気に入らなかったのかな。


「ほら、時間だ!」


ケンさんが声をかけると、みんなは円陣を組む。


「笹井、いけ」

「………」


笹井くんは一瞬私を見たが、すぐみんなの輪に加わる。


「一晩だけのバンドです! だから……最高の曲を

みんなに届けましょう!! ハイツ響、ファイト!」

「おうっ!!」


ふふっ、みんなやる気満々で

ステージに出ていく。

舞台袖で、そんなみんなを眺める私とノゾミちゃん。

客席からは大きな歓声が響く。


これからノゾミちゃんの作った曲を

演奏するのね。

楽しみだわ。


「どうも、Apert Leadです!」


笹井くんがマイクを持つと、

吉田くんのドラムが弾む。

ケンさんと井ノ寺さん、笹井くんのパートが入ると

4小節目。

やっぱり笹井君の歌はいいな。

ノゾミちゃんの作った曲や歌詞もカッコイイ。

みんなが作り上げたステージ。

私は部外者だけど、それでも嬉しい。


3曲演奏したあと、みんなは一度戻ってきた。

このあと、アンコールがあるはずなのよね。

そして私の書いたバラードと、もう1曲演奏する。

汗を拭いているみんなの横で、

笹井くんは少し乱暴にバンドを取った。


「え……?」

「ごめん、静さん」

「う、ううん、無理につけることはないから」


もしかしたら、リストバンドが演奏の邪魔だったのかな。

だとしたら余計なことをしちゃった。

少しだけしょぼんとしていると、

笹井くんははっきりと言った。


「そうじゃない」


取ったリストバンドを私の手首にそれをはめる。


「言ったじゃないですか、静さん。

『静さんも、ちゃんと自分の幸せを考えてください』って。

みんなには作って、自分だけ仲間外れになるなんて」


「でも、私はバンドには関わってないから」


そう口にすると、ノゾミちゃんがハッとしたような

顔をする。

ダメ、ノゾミちゃん。

詞のことはまだ言わないで。

私には勇気が……。


「勇気がなかったのは、僕だけじゃなかったんですね」

「え……?」

「今わかったんです。『あなたの声を取り戻す方法』」


私の声?

もう私は昔みたいに筆談じゃない。

普通に話すことはできるのに、一体どういうこと?


「行きましょう! ステージに」


「えっ!? 笹井さん!?」

「笹井!? 静さんをどうする気よ!」


慌てる吉田くんとノゾミちゃん。


「……そう来たか、若造が」

「琉成は本当に面白いやつだな」


ケンさんと井ノ寺さんはのんびりと構えている。


笹井くんが速足で私をステージへと連れ出す。


『私をステージに連れ出してくれる?』


あのつぶやきは聞こえなかったはずなのに。

どうして?

どうしてあなたは、私の手を引っ張ってくれるの?


マイクの前に着くと、ライトがパッと私たちを照らした。

客席からは笹井くんを呼ぶ声。

私が何者かわからず、ざわざわしている様子もうかがえる。

それでも笹井くんは、私の腕を離してくれない。


「笹井くん!」

「……歌ってください。あの歌、静さんが考えたものでしょ?」

「な、なんで……」

「わかりますよ。あんなに思いがこもった歌詞だったら。

松本さんは、もっとストレートでわかりやすい詞を書くって

伊藤さんも言ってましたから」


笹井くんは私の手を握ったまま、マイクに近づく。

他のメンバーも用意を始めたみたい。

後ろでごそごそと音が聞こえる。


そんな中、私をステージに連れ出した彼は

観客に向かって大声を放った。


「3+、Ryuseiです。今日は『Apart Lead』という特別バンドで

ギターボーカルをやらせてもらうつもりでした。

……けど、本当に歌うのは僕じゃない。

紹介させてください、僕ら、バンドの本当のリーダー・静さん」


みんな何が起こっているのか、

観客はわかっていない。

まばらな拍手に、笹井くんが歌わないことに不満を持つ人も

見える。

でも……そんなの関係ない。

ここから見える景色は、歩道橋から見える景色と同じだから。

細かいホコリにライトが当たり、

きらきらとステージの上で星のように輝いている。

それに、真っ暗な観客席から見えるペンライト。

まるで車のヘッドライトだ。


……大丈夫。私は歌える。

手を握ってくれていた笹井くんに大きくうなずくと、

彼は笑ってくれた。

ようやく私は、勇気を出すことができるようになったんだね。

私だけの力じゃない。

みんなに支えてもらった、ほんの少しの勇気。

でも今はそれで十分だ。


笹井くんがわきに逸れると、演奏が始まる。

私の新しい歌。

笹井くんへの気持ちがたくさんこもってる。


『ステージの上で 君が歌ってたんだ

僕はそれを ただ喜んで見ていた

でも本当は そのきらめくステージに

戻りたい 戻れない 勇気はない


歩道橋で 冬の朝日を眺めてた

いつもは明け方 ひとりきりで

君もこの景色に気づいてて

僕は思わず嬉しくなった


ああ、僕の手をつかんで あの空へ一緒に連れてって

約束してくれるなら 君のために僕は歌うから

ごめんね、愛想笑いで いつも人をだましていて

もう嘘はつかないよ 月のライトが僕を照らしてるから


青い信号点滅して、黄色から赤へ 心がすさんでいく

車のテールランプ ダイヤが光る夜 寒い夜の白い息

遠くのビル群 僕は叫んでいる』


歌いながら視線を交わすと、

彼もギターで答えてくれる。

舞台袖にいるノゾミちゃんも嬉しそう。

吉田くんとケンさんが冷やかすようにニカッと笑う。

井ノ寺さんは演奏に夢中で、

キーボードを叩いているだけで楽しそう。

たった1曲だけ。

4分ちょっとの短い演奏。

その4分ちょっとのために、

私は今までずっと悩んで、苦しんで、悲しんで、

すべての感情を胸に生きてきたのかもしれない。


今日は弟の死んだ日。

だけど、もう悲しまない。

星弥はもういないけど、私には今、たくさんの仲間が

いるから――。



「それでは、リロレコクリスマスフェス、お疲れ!!」

「お疲れ様でした!!」


事務所近くの大きなホテルの会場で、

今夜の打ち上げは行われた。

形式的には奏多くんが主役なんだけど、

今日、ステージに立ったみんなも同じように主役だ。


「静さ~ん! 超よかったよ!」

「ありがとう、充希ちゃん。でも、奏多くんまで出るとは

思わなかった」


充希ちゃんの出番はラストだったんだけど、

奏多くんが特別ゲストとして

ギターを弾いたのだ。


「クリスマスなんだし、サプライズがあってもいいと思ってね!

静さんと一緒!」

「私はギリギリまで出るつもりはなかったのよ。

本当に偶然というか……」

「僕が引きずり出したんですよ。

静さんはいつまでも日陰に隠れているような人じゃないですからね」

「わぁ、ラブラブ~!」

「充希! こっちで挨拶するぞ!」

「はぁ~い」


ラブラブって……。

充希ちゃんの言葉に顔を真っ赤にする私たち。

そういう充希ちゃんだって、奏多くんとラブラブじゃない。

呼ばれたら喜んで飛んで行ったんだから。


「やっぱりあたしの予想通りだったわね! ドリームチーム!」

「あなたは……もしかして星さん!?」

「久しぶりね、声楽科の歌姫・日比木さん」

「耕平も一緒だったんだ」


耕平くんは笹井くんと同じバンドだから知ってるけど、

まさか同じ大学だった星さんとここで再会するなんて

思ってもみなかった。

話をきくと、大学を卒業した今、

音楽雑誌の出版社で働いているらしい。

しかも奏多くんが言っていた『共同企画』をした雑誌社が

星さんの会社。言い出しっぺもなんと星さんだったとのことだ。


「え、なんで?」


驚いたのは笹井くんでも私でもない。

耕平くんだった。

といっても、彼はあまり感情を表に出さないタイプみたいで、

笹井くんが「なんで耕平が驚いてるの?」と言って

初めて気づいたくらい。


星さんはこほんと咳払いをすると、

耕平くんに説明を始める。


「あんたがまんまと清里の一件であたしをハメたでしょ。

単独取材だけじゃ元が取れなくてね。

こっそり翔太とKOUの跡をついて行って、

ハイツ響を見つけたの。

そしたらびっくりしたわ。ミュージシャンの巣窟じゃない。

ここに住んでるメンバーでバンドやったら、

絶対面白いと思ってね!

なのにあんたは……っ! 

また地殺の合宿とかいって

熱海に呼び出されたと思ったら

今度はただの旅行だしっ!」


「……言ったじゃない。諦めないって」


「ああ……耕平、お前……」

「ん、じゃあまたね」

「こ、KOU!? まだ文句が……っ!」


星さんは耕平くんを追いかけていく。

あのふたり、一体どんな関係だったのかしら?

笹井くんいわく、耕平くんが書いているコラムやインタビューを

星さんが編集しているとか。

でも、妙に仲がいいようにも見えたんだけど。


「よう、琉成。うまくいったみたいでよかったじゃねぇか。

これでようやく大家さんをゲットか~」

「う、うるさいよ、九郎っ! そういう九郎だって……」

「やめてくださいって! KUROさんっ!!」

「俺はもう1匹ゲットしてるからな。

まぁせいぜい励め!」

「な、何を?」

「静さ~ん! ボーカル、最高でしたよ~!!」


九郎くんとMUGIちゃんは嵐のように去っていった。


「あのふたり、つきあってるの?」

「さぁ……?」


次に近づいてきた団体は、

ずいぶん騒がしかった。

若い子がたくさん。

stringsの奏都くんと奏夢くん、そしてダンサーの華也ちゃん。

さらに地殺メンバー勢ぞろいに、なぜか高橋くん?


「翔太! 今日こそ握手をっ!!」

「ダ~メ、華也ちゃんにはオレたち王子がふたりもいるんだから」

「ま、いずれはどちらか選んでもらうことにはなるけどね~」


吉田くんと引き離される華也ちゃん。

吉田くん本人はというと、苦笑いで3人に手を振る。


「翔太、モテるねぇ~」


そんな彼の後ろから飛びついてきたのが、

タキシード姿の高橋くんだった。


「アキラ、なに素で紛れてるの!?」

「女装もそろそろ限界かなって」

「え~っ!? レイちゃん、男の子だったの~!!」


地殺メンバーが一斉に声を上げる。

笹井くんも目を丸くしている。


「え……え!? レイさんは小さい頃から女の子で……あれ?

ど、どういうこと……」

「落ち着いて、笹井くん」

「『高橋玲』。

『レイ』でも『アキラ』でもどっちでも読めるってことで、

正体隠してたんだよね。ゴメン☆」


レイちゃん……じゃなくて、アキラくんは

てへっ☆と舌を出してウィンクする。

絶対悪いと思ってない……。


「ちょっとかわいいとか思ってたのに~!!」

「いい子だと感心していたんだがなぁ……」

「嘘だろ!? 女子高生のつかわれることに興奮してたのに!」

「えっ」


最後のテツくんの言葉に、メンバー全員だけじゃなく

アキラくんも驚いた顔をする。

そりゃそうよねぇ……。


「あ、あはは~……翔太、あっちにケーキあるから

行こっ!」

「う、うん」


地殺メンバーを置いて行ってしまうふたり。

残ったメンバーたちは、しょんぼりしたテツくんを

慰めるように次々とお酒を飲ませていた。

その横で片っ端から飲んでいたのは……。


「あーあ、ケンさんにノゾミちゃんっ!

飲み過ぎよ!」

「いーのいーの! 今日はサイコーの日なんだからっ!」

「ようやく笹井のバカが静さんに告ったんだからな!!」

「せーの、カンパ~イ!!」


ふたりは上機嫌でワイングラスをあげる。

いくらふたりがお酒に強くても、

さすがにこれは心配……。

おろおろしていると、後ろから井ノ寺さんが

現れた。


「大丈夫だ。ふたりの面倒は俺が見る。

翔太もきちんと遅くなる前に送る」

「いえ、私たちも一緒に……」

「いや、それはダメです」


私の肩をつかんだのは、笹井くんだった。


「あのふたりは勘違いしてますよ。

まだ僕は静さんに……」

「え?」

「行ってこい、琉成」

「はい! ありがとうございます、井ノ寺さん。

帰りましょう、静さん。アパートへ」

「え、ええ……」


タクシーを呼ぶと、アパートの近くまで乗せて行ってもらう。

その間ずっと無言。

だけど笹井くんは、私の手を握ったまま。

彼は何を考えてるんだろう?

わからないまま、路肩に降ろしてもらう。

アパートまでもう少しの距離だ。


「笹井くん、前まで乗せてもらえばよかったんじゃない?」

「そしたら、上れないじゃないですか。アレ」


彼が指さしたのは、歩道橋。

笹井くんに導かれ、ゆっくりと階段を上る。


「僕、ここに引っ越してきてから道を横切ったこと、ないんですよ。

歩道橋に上ると、時間食うってわかってるのにね。

車にはねられるんじゃないかって思って。

歩道橋を使っても、まだ怖かった。

自分から飛び降りるんじゃないかと」

「まさか!」

「嘘です」

「もうっ……! 驚かさないでくださいっ!

……でも、なんとなくわかるわ。

その気持ち」

「えっ?」

「私の部屋からだと、

車のライトがきれいに見えすぎるの。

だから近づいて……はねられるんじゃないかと

思ったりして」

「だ、ダメですよっ! そんなの」

「当たり前よ」


私は必死な笹井くんを見て、

くすっと笑ってしまった。

まったく、お互いさまね。


「でも……上を見ると大きな月と星空。

下は光が流れてる。朝はグラデーションがきれい。

特に冬の日。

寒いはずなのに、ずっと眺めていられる。

……夢のような空間だわ」


私は空を見上げてから、ヒールを脱いだ。


「静さん!? どうしたんですか、靴なんて脱いで」

「うふふ……手、離さないでね?」

「ちょ、ちょっと!」


少し酔ってるのかな。

イブの夜の風が、気持ちいいくらい。

私はそっと歩道橋の手すりに足をかける。


「し、静さん! 降りて! 危ないから!!」

「少しだけだから……歩いてみたかったのよね」

「……本当にあなたって人は。一番無茶をするんだから」

「無茶かしら? ……きゃっ!」


何歩か歩いたあと、足を滑らせて、

笹井くんの上に落ちる。


「痛っつ……」

「ごめんなさい、笹井くん! 頭打ってない?」

「それより静さんは?」

「……こうやって抱きとめてもらったから。

ともかく立ち上がるわね。ごめんなさい」

「いえ、このままでいいです」

「え?」


「……僕、ヒーローになりたかったんです。

静さんの声を取り戻して、あなたを守るヒーローに。

確かに去年の冬、あなたの声は戻った。

けど……僕が取り戻したかったのは、静さんの歌声だったんだ。

ステージで歌う、ディーバのね」


「私はステージに連れ出してほしかった。ずっとね。

笹井くん。あなたは私だけのヒーローです」


そう告げると、笹井くんはぎゅっと私のことを

抱きしめる。


「ここじゃ恥ずかしいですよ!」

「すみません、嬉しくって……」


私たちはようやく立ち上がると、

笹井くんがそっと両手を握る。

そして――

笹井くんは私に軽く触れるだけのキスをした。


「やっぱり、歩道橋は危ないです。

だから……今夜は僕の部屋で、飲みなおしませんか?」


黙ってうなずくと、笹井くんは怒って私の頬に手を当てる。


「ちゃんと口で言ってください」

「……お邪魔させていただきます」

「うん、それでよし!」


笹井くんったら、意地悪なんだから……。


私たちはゆっくりと、歩道橋を降りていく。

ふたりなら大丈夫。

私たちは微笑みあう。

こんなに幸せなクリスマスは何年振りかしら。


「大好きです、笹井くん」

「僕も、です」


これからは笹井くんと歩いていく。

春には穏やかな日差しを、夏には沈む夕日を。

秋には空のグラデーションを、冬には朝焼けを……

きっとこの歩道橋で一緒に眺めるのだ――。

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