〇203号室 井ノ寺明日人

「井ノ寺さん、本当にごめんなさい! 今回だけですから……」

「いや、構わない。日比木さんにも都合があるだろう。

何だったら今後、夏の間は俺が出てもいいが?」

「本当ですか? 助かりますけど……申し訳ないですよ」

「いや、これもここのアパートの仕事だ」


日比木さんは遠慮しながらも俺に仕事を託すと、

仕事へと行ってしまった。


……仕事、と言っても、本業ではない。

日比木さんの目的は、ピアノ教室を開くこと。

その前段階というか、練習というか。

教師になるための講習に夏の間出席しなくてはならないとのことだった。


しかし、時を同じくして町内会の夏祭りの会合が

毎週土曜の夜にある。

本当は大家である日比木さんが出なくてはならないが、先の理由がある。

だったら暇……いや、アパートの警備だけをしている俺が

出るべきだ。

他の面子はなんだかんだ忙しいからな。

琉成と翔太は夏のフェスがあるらしい。

今日もその打ち合わせがあるようだ。

ノゾミは大学の試験。

一応あいつは名門二ツ橋大学の学生だ。

マコとともに俺の部屋で試験対策をしていたが……

大学のテストっていうのは大変だな。

試験範囲もわからないのに、論述だなんて。

俺も公務員試験で経験したが、本当に泣きそうになりながら

すべての語句や問題、文章を暗記していた。

最初、ケンも誘おうと思ったが、お断りされてしまった。

どうもサポメンをしているバンドが、自主企画で

ライブハウスでイベントを行うとのことだった。

ケン自体は嫌がっていたが、そこは仕事だからな。


しかし……町内会の集まりとは、一体どんなものなのだろう。

俺は見た目だけヤンキーだったことはあるが、

普通の家庭に育った普通の子どもだった。

だから、町内会の集まりなんかは親が基本出ていたし、

俺は子どもとして神輿を担いだり、お菓子をもらったりと

遊びの延長で参加していただけ。

だが今回は違う。

企画段階での参加だ。


会合が行われるのは、アパートの近くにある桜咲神社だ。

名前の通り、桜の大木が植えられている。

これが御神木らしいが、春になると花が美しい。

ここの神社には、大きな車庫もある。

車庫の中にあるのは、毎年新しくされる神輿が収納されているのだ。


俺は日比木さんから受け取ったメモの通り、

その車庫の横にある、禰宜さんの住んでいる家へと足を運ぶ。

俺が到着すると、すでに酒で酔っ払った老人たちが待っていた。


「おう! 新入りか? 名前は?」


酔っ払いたちは陽気だ。

名前を聞かれた俺は、胸を張って答えた。


「井ノ寺明日人です。ハイツ響の代表としてきました」

「おいおい、ハイツ響だったら、あのきれいなねーちゃんじゃねぇのか!?」


そんな酔っ払いの言葉を、一蹴したのが奥さん方だった。


「あんたたちじいさんの相手をしてるほど、美人さんは暇じゃないの!

ここにあのお嬢さんを混ぜたら、セクハラされちゃうわよ!」

「しねぇって!」


俺は珍しく閉口した。

意外とこういう場面に接したことがなかったからだ。

今まで俺はわりと引きこもりだったし、バンドはやっていたが

俺よりも目立つヤツの方が多かったからな。

それに、何よりも自分よりも20、30老けたじいさんやばあさんと

話したことがないのだ。

自分の祖父母は早いうちに亡くなっていたからな。

しかし、酔っ払いたちはそんな遠慮しがちな俺にも

上機嫌で接してくる。


「よう、兄ちゃんは酒、いけるのか!?」

「そこそこは」

「じゃ、剣菱行ってみよう!」


渡されたのはでかいグラス。

……日本酒ってお猪口で飲まないか?

渡されたのは、1杯でお猪口3杯分はあるグラスだ。

なみなみと注がれた俺は、躊躇した。

いや、飲めなくはないが、今回は夏祭りの話をしにきたんだ。

酔っ払ってしまったら元も子もない。

困っていたところ、ある女性が俺と酔ったお年寄りの間に入ってきた。


「はいはい、お父さん! 井ノ寺さんを潰したら、それこそ会合の

意味がなくなっちゃうわよ!」

「ほたる……お前は父に向って!」


ほたる?

彼女の名前か?

俺がじっと見つめていると、『ほたる』と呼ばれた女性が

照れながら笑った。


「ああ、ごめんなさい! 私は真田ほたると言います。

そこの町内会長……真田の娘です」

「娘っつっても、30近くの行き遅れだけどな!」


ちゃちゃを入れた町内会長の頭を、容赦なく丸めた雑誌で殴る

ほたるさん。


「うるさいなぁ! 私は別に行き遅れてるわけじゃないの!

ただ、目の前にいい人がいないから……」

「言い訳だな」

「言い訳、悲しい」

「お父さんが泣くのもわかる」


町内会のお年寄りたちは、ほたるさんのお父さんの肩を持つ。


「う……なんでみなさんそうなんですかっ!

とりあえず夏祭りの会議、始めてくださいよっ!!」


ほたるさんは町内会長の横にどかっと座る。

長い髪をまとめていて、胸もデカい……。

美人ってわけではないが、頼れる姉御といった感じで

モテないというわけでもなさそうなのだがな。

少なくても俺は、こういうタイプの女性をかっこいいと思う。

父親である町内会長の代わりに、司会をして

場を仕切る。

その手腕や見事。

しかし、ある場面になると、大きかった彼女の声が小さくなった。


「……それで、毎年やってるステージなんだけど」

「なんだ? ステージだったら近所のダンス教室の子どもを躍らせるとか、

カラオケ大会を開くとかでいいんじゃないか?」

「私もそう思ってたんだけど……」


ん? 何か問題でもあるのか?

俺はほたるさんの次の言葉を待つ。


「実はダンス教室は今年出演したくないって。

子どもに変質者みたいなファンがついたって苦情が……。

カラオケは出場者全員、妙にみんな自信を持ってるじゃない?

優勝者を決めた後のいざこざが……」


ほう。

そんな苦労があるんだな。

祭りなんだから、みんなで大騒ぎしておけばいいだけかと思っていたら、

落とし穴があったということか。


「だからさ、他に何か案、ないかな? 井ノ寺さんとか」

「俺か……?」


みんなの注目が俺に集まる。

いい案と言われてもな……。

盛り上がればいい、ということならば……。


「アーティストやバンドを呼んだらどうだ?」

「は!?」


ふと口にしただけなのに、全員の眉毛がつりあがる。

なにかおかしいことを言ったか?

ほたるさんは大きくため息をついた。


「そんな予算、ありませんよ。呼べたとしても、誰も知らない演歌歌手くらいでしょう」

「そうだろうか? ……俺も全面的に協力はするつもりだ。

だから少し打診してみよう」

「え!? 打診?」


うちのアパートは琉成に翔太、ケンがいる。

ノゾミや日比木さんだって、

一応アーティストみたいなもんだしな。


うちのアパートの強みを使わないでどうする。


「そういうことだから。では」


俺は日本酒を飲み干すと、神社からアパートへと出て行く。

あとはみんなの意見を聞くだけだ。


――翌日。


「おはようございます、井ノ寺さん。昨日、ありがとうございました!

それで……どうでした?」


玄関の掃除を始めようとする日比木さんに、

俺はさらっと答えた。


「うちのアパートにいるアーティストで、祭りに出てくれる人

いますかね」

「え!? な、なんでそんな話になってるんですか!?」


日比木さんは青ざめるが、そんな大事か?

ちょっと顔を出してくれるだけでいいのに。


日比木さんは頭を抱えると、俺に小さい声で言った。


「あの……井ノ寺さんはここの警備員として奏多くんに

派遣されてきたんですよね」

「ああ。でも町内会の祭りだぞ? 少しくらい平気だろう」

「でも! 笹井くんは現に刺されたことがあるんです!

吉田くんやケンさんだって……」

「ノゾミもNGか?」

「ノゾミちゃんに関しては、DTMをやってること自体秘密ですって!」


『ゼータ』という記号は『ζ』と書くらしい。

俺の頭の中は、まさに今この『ζ』だ。

要するに、アパートの住人で祭りに出せるのは誰もいないってことだよな。


俺がむう……とあごに手を当てていると、

翔太と琉成が出てきた。


「あ、静さん! ……と、井ノ寺さん。おはようございます」

「おはよーございまーす!」


「ふたりとも、今日は休みなのに早いのね」

「ええ、事務所に呼び出されていて」


琉成はわかる。

社会人になれば、夏休みなんてものはないからな。

だが、翔太は別だ。

休みなのに事務所の呼び出しなんて、大変だな。


「……ああ、フェスの打ち合わせか?」

「はい。幕張とひたちなかの方でやるんですけど、どっちも3+も地殺も

出るんで」

「……そのついでに、町内会のステージも出てみないか?」

「は?」

「井ノ寺さんっ!」


俺の言葉に、琉成も翔太も困った顔をする。

俺は夏祭りのステージでの出し物がまだ決まっていないことを

簡単に説明した。

日比木さんは反対しているが、本人たちはどうだ?

町内会の祭りだぞ?

小さい頃、はしゃいだ記憶だってあるだろう?


しかし、俺の期待とは裏腹に、あっさりとふたりは

断った。


「すみません。事務所の契約条件であるんですよ。

勝手に事務所の知らないイベントに出てはいけないって」

「そうですよ。町内会のお祭りは楽しそうだけど……ファンとか来ちゃったら

この辺交通渋滞ですよ!」


ぐっ、正論だな。

3+も地獄の殺人鬼も今や大人気アーティストだ。

こいつらが出るとなると、もしかしたら地方から遠征に来るファンも

出るかもしれない……。

俺の考えが甘かったってわけか。

だったら……。



ふたりを見送ったあと、俺は自分の部屋でもうひとりのアーティストを

待っていた。


「ふあ……おはよ。メシは?」

「シソと胡麻の混ぜご飯と、冷汁だ。あとオクラサラダもある」

「うまそうだな~、さっそくいただくとするか」


ケンは相変らず俺に食事をたかりに来る。

ま、そのくらいはどうでもいい。

ひとり分用意するのも、ふたり分用意するのも変わりはない。

一緒に食事をしている途中、俺はケンにも打診してみることにしてみた。


「なぁ、ケン。町内会のお祭りで、ステージで何かやろうという話になっているのだが」

「へぇ。昔からあるよな。カラオケとか子どもの出し物とか」

「それが今年はどちらもダメになってな。だからケン……

お前、ギターかベースで出てくれないか?」


俺がそうたずねると、ケンは冷汁をぶっと吹き出した。


「な、なんで俺だよ!」

「琉成も翔太も事務所がNGってことだったから……」

「それだったら俺もNGだよ! ギャラも出ないんだろ? 

ミュージシャンとして、ギャラの出ない仕事は受けたらいけねぇって聞いたことないか?」


……ああ、そう言えば昔、ちらっとカナタが行ってたな。


『ボランティア』以外でギャラの出ない仕事は引き受けるな。


なんでと言うと、そういう特別扱いをしてしまえば

ギャラを出してくれた人間に悪いからだと言っていた。

それと同時に、自分たちみたいにある程度名前の知られたバンドが

そういうことをすると、後輩がもっと安く叩かれるとか。


「じゃあノゾミ……」

「は、もっとダメだ。あいつは音楽やってることも内緒だし、

大学でもそういうスタンスを取ってるからな。聞くだけ無駄だぞ」

「そうか……」


だとしたら、最後はこの手しかない。

だけど……今更こんなこと、できるのか?

でも、ほたるさんに意見を聞いてもらうことくらいはできるだろう。

俺は夜まで待って、いつもの寄り合い所へと向かった。


相変らず『会合』という飲み会は激しく続いている。

今日も俺には大きなグラスに日本酒が注がれている。


「で、みなさん、ステージの件ですが……」

「んなの、ばあちゃんたちの日本舞踊でいいんじゃねぇか?」

「そうそう、ばあちゃんたちだったらきっとやってくれるって!」

「ですが、それじゃ若い人たちが楽しめないのでは? それに日本舞踊連盟の方々は、

その前に市でやる盆踊り大会に出てるんです! 体力が……」

「じゃあ、いい案があるっていうのか? イノくん」


……イノくん。ここでの俺の呼び名だ。

こうなったら最後の手段。

みんながダメなら、俺がやるしかないだろう。

ありがたいことに俺は、もうアーティストではない。

俺のことを追いかけてくれるようなファンだって、ほとんどいない。

だったら……。


「俺がキーボード、弾きます。これでいいですか?」

「……きいぼおど?」


酔っているおじさんたちにはわからないようだが、

ともかく俺がステージの時間に演奏するってことでいいじゃないかと

提案してみる。


ここには俺の正体……SODのアストだと知っている人間はいない。

だったらそれを利用しないわけにはいかないだろう。

それに俺だって自信はあるんだ。

どんな客でもノリノリの『ぱぁりぃぴーぽー』にするくらいの

曲を提供することができるって。


この俺の意見に賛成してくれたのが、意外にもほたるさんだった。


「井ノ寺さんがどんな曲を弾くかわかりませんけど、

私、一応ライブハウスや大きな舞台で照明を担当していたんですよ。

私たちの力で盛り上がったりできるかも……」

「それはありがたい!」

「ひゃっ!?」


俺は自然とほたるさんの手を握っていた。

こんなに頼もしい人間が近くに入れば、こっちの意見にみんな揺らぐだろう。


「まぁなぁ……若いふたりがそういうなら」

「任せてみてもいいかもなぁ」

「案外面白いことになるかもしれんぞ?」


酔っ払いたちは相変らず適当だ。

だけどこれは俺たちにとってチャンスであることには変わりない。


「よしっ! こうなったら本番まで頑張りましょう! ほたるさん」

「は、はい……でも、その前に手、離してもらえますか?」

「あ」


俺はつい真っ赤になる。

ほたるさんが真っ赤だったので、俺も釣られてだ。

これがカナタとかだったらもっと余裕があったんだろうけどな。

女性の手を握っても、アイツだったら余裕のよっちゃんだろう。

だけど俺は……今まで『女性』というものを意識したことがなかった。

でも、ほたるさんは……。


ほたるさんは男勝りな性格だ。

これは何回か会合に出て、わかったこと。

だけどふと親父さんにからかわれたときとか……俺の想像のつかない表情を

していることがある。

真っ赤になって、顔を伏せる。

昔SODのファンの子にも、そういう態度を取る女性はいた。

でも、それは『SODのアスト』のファン。

そう言った子は、大抵俺なんかには興味がなかった。

上っ面だけの、『キーボーディスト・アスト』のファンだってだけだ。

彼女たちはただ、アストに手を握られたり、笑顔を見せられただけで

ブログやつぶやきに感想を書きこむ子たちだけ。

俺から見たら、誰が誰だかわからないのに。


だけど、彼女は違うんだ。

俺が手を握ると真っ赤になる。

『キーボードのアスト』じゃない。

井ノ寺明日人にだ。


翌日の夜。

俺とほたるさんは機材を持って神社へと集まっていた。


「大荷物ですね、井ノ寺さん」

「そういうほたるさんこそ」


俺たちは各自機材を設置する。

しかし驚いたのは、ほたるさんの持ってきた機材だ。

小さいものではあるが、ライブハウスで使うようなもの。

こんな町内会の夏祭りで使用するようなものじゃない。

これを使ったらどうなるか……。

派手な光でじいちゃんたちぶっ倒れるんじゃないか?

怪訝な顔をしていると、ほたるさんもステージ上の機材を見回して

唖然とした。


「あの、井ノ寺さん、このシンセの数は……?」

「普段通りだが」

「『普段通り』って! これ、ひとりで弾きこなすんですか?」

「何か?」

「何かって……」


俺たちはお互いが何者かわからない。

だが……夏休みのステージは俺たちの双肩にかかっている。

どんなことになるかはわからないが、

やるしかない。


「でも……このセット、私の好きだったバンドを思い出します」

「ば、バンド……ですか?」


ま、まさかな。

俺たちのバンドは解散してもう何年も経っている。

いまさらすぎるが、なぜか期待してしまう俺がいるのも情けないが……。


「……なんてバンドだったんですか?」

「『SOD』っていうの。めちゃくちゃかっこよかったんですよ!

特にキーボードのアストさんって方が」


そうだったのか。

彼女、『SOD』のファン……。

なんだか複雑な気持ちがわいてくる。

当たり前か。

『SOD』のアストは有名だ。いや、有名だった。

その『彼』には興味があって、今のただの井ノ寺明日人になんか

興味なんてないんだよな

何を俺は期待なんか……。


「それに私……1回だけ、ライブご一緒したことがあるんです」

「え? ライブを一緒に?」


……どういう意味だ?

ほたるさんみたいな女性と会ったことはない。

記憶力に自信はないから言い切れないが……。


「どのライブで一緒だったんですか?」

「『SOD』武道館ライブですよ。

ほら、1アーティストは1回しか

武道館ライブのタイトルでバンド名を使えないって言う」


『SOD』武道館ライブは当然覚えている。

記憶力が悪くても、さすがに一生で一度のことだからな。

でも、それだったらなおさらわからない。

俺は彼女にいつ会った?

不思議そうな顔をしていたのに、ほたるさんは気づいたらしい。

けらけらと笑って、首を振る。


「あ、私はもちろんステージに立ってませんよ! 音響と演出で手伝いをしていたんです。

まだアシスタントだったんですけどね。

大好きなバンドのライブに携われて、本当に嬉しかったんですよ」

「そういうことだったのか……」


演出とかはカナタたちがやっていたし、

俺はというと自分の機材のチェックだとか衣装の確認だとかで

てんてこ舞いだったからな。

彼女がいたこと自体、知らなかった。

なのに、彼女は俺のファンでいてくれてたのか……。


「機材はステージにもステージ下にもテントがあるので

その中へ。あとは井ノ寺さんの曲に合わせます。

あとでリストをください。それでも平気ですか?」


「ええ。演出はほたるさんのセンスでお願いします」


こうして俺たちは本番に向けて、着々と準備を進めて行った。



「……で? お前は珍しく何をへこんでるんだ?」

「ケン、俺がへこんでいるとわかるのか?」

「そりゃ……今日の朝メシが洋食だったら、何か起こったのかって聞きたくなるわな」


いつも俺が、朝ケンに出すのはほぼ和食だ。

白米のほかに五穀米、麦も用意してあるし、

味噌や漬物も自分で作っている。

しかし、今日はオムライスにビシソワーズ。

いつもより早く起きてしまったから、

普段は作らないようなデミグラスソースやスープを作ってしまった。

それがケンの朝食になった、というわけだ。


俺は食事をするケンに、ほたるさんのことを相談してみた。

別になんてことはない。

ただ、ちょっと気になるだけだ。

それは『SOD』のファンだったほたるさんの前で、キーボードを弾くのだから。


「その……ほたるさんは大変いい人だ。仕事も一生懸命やっている。

だが、なんというか……彼女をだましているような気にもなってしまって」

「は? だったら言えばいいだろ。自分が『SODのアストだ』って」

「言いにくい……。ケンも知っているのだろう?

『SOD』だったときの俺は、青髪を立ててた。メガネもしてない。

今みたいにサラリーマンみたいな容貌でもない」


俺が頭を抱えていると、ケンは小さく笑った。


「なんだ? なぜ笑う」

「だってよ……お前、その『ほたるさん』にホレてるんだろ?」

「な!? ほ、ほ、ホレてる!?」

「30過ぎの童貞が、何言ってんだよ……。今の話を聞いて、どう考えてもお前、

ほたるさんにホレてるようにしか思えねぇぞ」

「し、し、しかし、俺は今まで異性を好きになったことがなくて……」

「それが不自然だっつーんだよ。普通恋のひとつやふたつは経験してんだろ。

お前、芸能人やってたのになんで童貞なんだよ……マジで七不思議にでもなりそうだな」

「そんなにおかしなことだろうか」

「ああ、おかしい」


ケンは即答した。

そうなのか。30で恋のひとつやふたつ経験していないということは

異常……。


「だったら! 今からでもできるか!? 恋!!」


俺は思い切りテーブルを叩いた。

テーブルの上に乗っていた皿が跳ねる。

しかし、ケンも負けていない。


「おう! できるに決まってるんだろ! 

よし、お前正体をバラして、ほたるさんに告白しろ」

「告白……どうすれば!?」

「それは自分で考えろっ! じゃーなっ!!」


ケンは食事を食べ終えると、何も俺にヒントをくれることもなく

帰って行ってしまった。



「どうですか? ここは桜の曲ですから、ピンクのライトにスモークをたいて……」

「え! あ、ああ、とてもいいと思います」


夏祭り前日。

俺とほたるさんは最終確認で夜の神社に残っていた。

もう車庫に入っていた神輿も準備万端。

あとはステージだ。


俺が弾く曲は、お年寄りが好きな人気演歌と動揺……のテクノリミックスだ。

原曲ブレイクしているかもしれないが、それはやってみないとわからない。

ほたるさんの演出も見事だ。

明日の夜は、暗闇の御神木に桜が咲く予定だ。


「これで完璧……ですね」

「そうですか? 私は井ノ寺さんが心配ですよ。

だって、練習してるところとか、曲を弾いているところ、

まだ見てないんですもん」

「……練習姿は見せない主義なんで」

「へぇ、本当に井ノ寺さんってアストみたいなんですねぇ」

「え!?」

「あの人も現役時代、練習姿を見せないって有名だったんですよ」


そう言えばそうだったな……。

ライブ前は音響チェックだけだった。

それは何よりも自分の腕に自信があったからだ。

俺は頭がよくない。

できることと言えば、シンセを叩くことくらいだ。

だからせめてその『できること』を『完璧にやろうと』思っただけだ。


「……俺は……アストとは……」

「ともかく! 明日のステージはふたりで盛り上げましょうね!」


ほたるさんは俺の手をぎゅっと握って笑顔を見せる。

そのとき、胸がドキッとした。

……どうしたんだ? 俺の心臓は。

もしかして動悸とか? なんだ、顔も熱い……。

ほたるさんの笑顔も目に焼きついて忘れられない……。

こんな状態で俺は、明日のステージに立てるのか!?


――当日、16:00。

神輿はすでに町内を回って神社に帰ってきている。

担いでいた子どもやじいちゃんたちは、お菓子を食べたり酒をあおったりしている。


「……いよいよですね」

「ええ。でも、今日は少しほたるさんを驚かしてしまうかも」

「なにかしら?」

「……何をするかはお楽しみということで」

「はぁ……でも、楽しみにしてますよ!」


ほたるさんと俺は別れて、さっそく準備に取りかかろうとする。

その前に……。


「おーい、アスト!」

「ケン。それにみんなも」


ケンが連れてきたのは、帽子で変装した翔太と琉成、

それにりんごあめを食べてるノゾミ、うちわを持った日比木さんだった。


「おっさんがステージねぇ。平気なの?」

「何言ってるんですか、松本さんっ! 

井ノ寺さんは元SODのキーボーディストなんですよ!」

「だってあたし、SOD知らないもん」


翔太とノゾミはそんなやり取りをしている。

そうか。

ノゾミは俺のことを知らないんだな。

翔太は親御さんが好きだったと聞いたが。


「練習は……?」

「まあ」

「そうでしたね、井ノ寺さんは練習姿をみせないんだった」

「大丈夫なんですか? それでも」


笹井の言葉を聞いた日比木さんが、心配そうに俺を見つめる。

俺の代わりに答えたのが、ケンだった。


「ヘーキ、ヘーキ! 天下のアストだ。心配することはねぇよ。

それよりも、これから起こるだろう『面白そうなこと』に期待しようぜ!」


そういうと、みんな屋台の方へと向かって行ってしまった。

……『面白そうなこと』?

一体なんだ?  別に俺は特には……。

いや、ひとつだけあるか。

ステージで演奏する、ラストの曲。

あの曲を聴いて、ほたるさんは気づいてくれるだろうか?


ポケットに入っていた携帯が鳴る。

ほたるさんからだ。

そろそろスタンバイしてくれとのこと。


「……よし」


俺はメガネを取ると、ケースに入れる。

譜面は当然いらない。曲構成もすべて頭に入ってる。

キーボードの前に立つと、小型のパソコンを立ち上げて

データを呼び出す。

1、2、3、オールグリーン。

いける。


向かいに設置されているテントにいるほたるさんに

マイクで伝える。


「チェック、1、2。スタンバイOK」

「了解。暗転します」


パッと、神社の提灯が全部消え、真っ暗になる。

月と屋台の屋根だけが光っている。


俺の手元には鍵盤。

さっそく音量を調節しながら、前奏に入る。

俺のバックにある神社に、数字。カウントダウンが始まる。

祭りの参加者たちの声。


「5、4、3、2……1!!」


パンッ!! と大きな音が響き、ステージから銀テープが飛ぶ。

それと同時に俺は東京音頭のテクノリミックスを演奏する。


「なんじゃ……? この曲は」

「あ、東京音頭だぞ、ほら、踊らんと!!」


曲に気づいたじいちゃんばあちゃんたちは、

テクノリミックスだろうがなんだろうが、盆踊りの曲だからと

さっそく踊り出す。


次は人気の演歌だ。


「なにこれ、カッコよくない? なんて曲!?」


女子高生たちもはしゃぎだす。

演出のほたるさんも、レーザービームを発射。

みんなは好きなように踊る。

まるでクラブだ。


今日の桜咲神社は、クラブ・桜咲。

俺の曲とほたるさんの演出で、大盛り上がりさせる。

それが俺たちの仕事だ。


21:00。予定通り。終了時間だ。

全20曲。ノンストップで流した曲。

でも、これ以降は騒音の苦情がくるので、曲の演奏はできない。

だけど……最後の1曲だけは。


「井ノ寺さん、お疲れ様でした。そろそろしめてください」


イヤフォンからほたるさんの声が聞こえる。


「……すみません、最後、1曲だけ」

「え?」


俺がずっと練習していた最後の曲。

この曲は武道館ライブで一度だけ、弾いた曲だ。

作曲は俺。

作詞はカナタがしたけど……結局この曲はCD未収録曲に

なった。

メンバーだけの『武道館の思い出』ということで。

タイトルは『FIRE FLOWER』。……花火だ。


「井ノ寺さん……この曲……」

「ほたるさん、演出お願いします。あなたも……武道館メンバーの

ひとりですから」

「……あとでどういうことか、問い詰めさせてもらいますよ?」


消えたはずのライトがピッーっとラインを描く。

ライトは神社の縁をなぞり、動き出す。

これは……。


「あー! プロジェクションマッピングだ!」


……ほたるさん、あなたのセンス、最高じゃないですか。

こんなキラキラしたステージに、もう一度立てたなんてな。

この『FIRE FLOWER』は一回しか弾いたことのない曲だ。

なのに……俺の背には色とりどりの花火。

最後に大きくドンッ! とバスドラムが響いて、ライトダウン。

俺はステージを降りた。


「……井ノ寺さん。あなた一体何者なんですか?」


演奏が終わって汗だくの俺に、日本酒を渡すほたるさん。

それをぐいっと飲むと、一気に酔いが回りそうになる。


「……幻滅したでしょう」

「何がですか?」

「あなたがファンだった『SOD』のアストは……アストは……」

「……アストが誰だって、私には関係ありません!」


え?

それは、ほたるさんに片思いすることすら許されないということなのか……?

がっくりと肩を落とすと、俺は機材の片付けへ向かおうとする。

その腕を取られて振り向くと、ほたるさんは真剣な顔で見つめる。


「私は……井ノ寺さんをもっと知りたい。あなたの名字しか知らないのに……。

だから、教えてくれませんか?」


にっこりと笑みを浮かべられると、

また胸がドキドキと鼓動を打ち始める。

そうか、これが恋ってやつなのか。


「……井ノ寺明日人です」

「真田ほたるです。これからよろしくお願いしますね? アストさん」


俺はそっと、ほたるさんの手を取る。

彼女はほんの少し恥じらったあと、俺の手を強く握り返してくれた。

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