〇101号室 日比木静

「おはようございます、静さん」

「おはよう、笹井くん」


朝7:00ちょっと過ぎ。

私はいつも通り身支度を済ませると、

アパートの入口の掃除を始める。


大体この時間になると、このハイツ響に住んでいるみなさんが

ゴミ捨てに出てくる。

中にはそのまま学校や職場に向かう人もいるけど、

今日はなんだかのんびりした日だ。


季節はやっと3月。

まだ朝はとても寒いけれど、私の気分は上々だった。


「今日は燃えるゴミですよね?」

「ええ。もう、笹井くんたら! いいかげん覚えてね?」

「はは、捨ててきます」


103号室の笹井くんは、私の弟と同じくらい。

声が出るようになったのは、きっと彼のおかげなんだと思う。


去年のクリスマス――。

弟の星弥を亡くしてから、ずっと出なかった声。

笹井くんが刺されたショックで声が戻って、

今はみんなにきちんと挨拶できるようになった。


声が出なかったときは苦しかったんじゃないかって

よく言われるけど、

私はそんなことよりも弟の死のショックの方が大きかった。

話せなくても、メモ帳やスマホで意思疎通はできた。

だからかもしれない。


でも、やっぱりみんなと直接話した方が

断然楽しい。

それに、星弥は死んでしまったけど、

笹井くんは生きている。

こうして今もうちのアパートに住んで、

バンド活動を続けている。


きっと星弥がクリスマスに届けてくれたプレゼントなのかもしれない。

笹井くんは私にとって大事な弟と同じ。

彼は死んでしまった弟ができなかったことを

している。

私のそばで、今もギターを弾いている。

それだけでとても心が安らぐのだ。


「……ずかさん? 静さん!」

「あ、ごめんなさい! どうしたの?」

「いや、ゴミ収集所のところに回収できない大きさの座椅子があったんで

持ってきました」

「ありがとう。私じゃ持ってくるの大変だったから助かったわ。

業者に連絡して、運んでもらうようにするわね」

「……はい。じゃ、僕、今日もちょっと早出なので」

「新体制のバンドの練習だっけ?」

「はいっ! 今までとは全然違って、みんなやる気に満ち溢れてるんですよ!

だからこの勢いで、ドカンとアルバムを! ……って、すみません。

僕の話ばっかりで」

「いいのよ。笹井くんが頑張ってるのを見て、私も励まされるもの」


座椅子を受け取ると、つい笑顔になる。

笹井くん、きらきら光ってる。

やる気に満ち溢れている人って、そういうオーラが見えるのかもしれない。


「応援してるわ」

「あ、ありがとうございますっ! じゃ、行ってきますっ!!」


笹井くんが前を向いた瞬間……

ガンッ! と大きな音がした。


「いったぁ……」

「あら、大丈夫? 柱に激突なんて、まだ目が覚めてないの?

コーヒーでも入れようか? 時間があったら飲んでいって……」

「いや、いいっ! いいです! そこまでされちゃうと僕……出かけたくなくなりそうだから」

「あ、そうよね。あったかいコーヒーを飲んだら、余計に外、出られなくなっちゃうものね」

「い、いや、そういう意味じゃ……はぁ」

「ん?」

「いえ、やっぱり行ってきます!」


大丈夫かな? あんな調子で。

笹井くん、睡眠不足だったりするのかしら。

あんまりたなごさんの私生活に踏み入ってしまうのは

よくないとは思うけど、やっぱり弟と重なってしまうところがあって

心配になってしまう。


でも、年上のおばさんに心配されたら、迷惑よね。

お母さんじゃあるまいし。

だけどやっぱり心配だし、明日は栄養ドリンクでも用意しておこうかな。


「はぁ……ダメね。近所のおばちゃんが若い子に余計なお世話を

焼いちゃ」

「笹井、そうは思ってないと思うけどなぁ~?」

「俺も同意だ」

「ノゾミちゃんに井ノ寺さん!」


202号室の大学生・松本ノゾミちゃん。

この子も最初はとても不愛想だったけど、

いつの間にか懐いてくれたのよね。

それはとても嬉しいこと。

だって彼女は2番目に入居した古株さんだもの。

最初は挨拶もしてくれなかったんだけど、

何回も声をかけたりご飯を持って行ったりしたら

少しずつ話してくれるようになった。

まるで猫ちゃんみたいな子。

そんな彼女も今は、私よりケンさんと仲がいいみたい。


203号室の井ノ寺明日人さんは

ここのアパートの警備もしてくれている、

ちょっとだけ変わった方。

でも、とても住民思いの人でもある。

それに彼は元SODのキーボーディスト。

私が立てなかった彼のステージで演奏していた人だ。


たなごさん同士が仲良しなのは嬉しい。

うちのハイツの自慢は、きっと住民同士が仲良しなところだと思う。

昔から付き合いのあるケンさんだけじゃなく、全員が優しい。

私はそんな幸せな場所で、管理人を務めている。

きちんとした職場で仕事をしているわけじゃないから、

そこはちょっと引け目を感じてしまうけれど……。

もう少し心のケアができたら、小さなピアノ教室を開きたいと考えている。

私には音楽しかないもの。

もともと音大の声楽科だったし、他にこれといった特技もない。

それに子どもに音楽の素晴らしさを伝えられたらいいなというのが

私の気持ちだから。


「笹井のやつ、キモいキモいと思ってたけど、前髪切ったら案外顔整ってるよね」

「ふふっ、そうね。かわいいわよね」

「……はぁ~……」

「ん?」


ノゾミちゃんは首にかけたヘッドフォンを揺らして、頭を抱えた。


「さすがにちょ~っとだけど、笹井に同情するわ」

「笹井くん、どうかしたの?」

「ってか、静さんがニブすぎ! あいつの肩持つつもりは1ミリもないけど、

あれだけアピールしてきてたらわかるっしょ?」

「え?」

「琉成は、日比木さんが好きである。これはかなりかくじ……」

「っと! 変人は余計な事言わないっ!」

「むっ」


急いでノゾミちゃんが井ノ寺さんの口を塞いだけども、

しっかり聞いてしまった。


「笹井くんが私のことを? それはないわよ! だって私、年上だし、美人でもなんでもない管理人のおばさんよ?」

「あ~……自覚ゼロ。いや、むしろマイナスだわ、これ。じゃ、あたしも学校行くから。

ちょっとは笹井のこと、考えてあげてよ?」

「その通りだな。あまりにも報われない」


ノゾミちゃんはため息をつくと、いつものようにヘッドフォンを頭につけて

大学へと行ってしまった。

井ノ寺さんも眉間にしわを寄せる。


「若い子は恋の話が好きなんですね~」

「俺から見たら日比木さんも若く見えますが」

「お上手なんですから」


だけど、笹井くんが私に……なんて、絶対ないわ。


あるわけないわよ。

だって私、笹井くんのこと、弟としか見られないもの……。


自分のことが情けなくなる。

なんでいまだにこんな昔のことを引きずっているのだろう。


「やっべ! 遅刻だ~!」

「吉田くん、おはよ……」

「静さん、行ってきまーす!!」

「………」


急いで鍵を閉めると、ダッシュで私のそばを駆け抜けていく103号室の吉田翔太くん。

マンガみたいに食パンをくわえて出て行くなんて、

初めてみた。


「ふふっ、面白い子」

「まったく! 翔太は見ていてハラハラする! 

しかし……彼はかわいらしい顔をしているのに、彼女らしき子はまだいないようだな。

今時の高校生にしては珍しい」


そう言えば……。

吉田くんも彼女、いないみたいよね。


笹井くんだって、あんなにかっこいいんだから

素敵な彼女さんがいるかもしれない。

私が見ていないみんなの本当の顔は、いくらでもあるんだから。

そう、奏多くんみたいに。



私と奏多くん――瀬戸奏多は従兄妹同士で幼馴染だった。

私の父は大手レコード会社の取締役で、奏多くんのお父さんもうちの会社で働いていた。

その関係で、よく彼は小さい頃私の家に遊びに来ていた。

弟の星弥も奏多くんにはよく懐いていて、面倒をみてくれていたっけ。


お互い忙しく立場のある両親を持っていたから、

あまり同年代の友達もできなかった。

というか、実際のところ私と奏多くんには遊ぶ暇なんてなかったのだ。


家に帰ると大きな部屋に2台のグランドピアノ。

私たちは親から紹介された事務所所属の名ピアニストから

毎日レッスンを受けていた。


遊ぶことと言ったら、ピアノを連弾することくらい。

ふたりで習ったばかりの曲をアレンジしてみたり、

アップテンポにしてみたり。

たま星弥がレッスンをのぞきに来たときは、それに合わせて踊って……。

3人で笑い合って。

それ以外の遊びなんてなくて、

ただ閉鎖された世界の中でピアノを弾き続けていた。

そんな日が、ずっと続くと思ってた。

ふたりの夢は一緒。

『いつか一緒に舞台に上がろう』。

そのために、今は一生懸命練習するんだって。

そう思ってたのに……。


「え? 奏多くんが家出!?」


高校1年の時、突然かかってきた電話。

奏多くんの家のお手伝いさんたちは大騒動。

親や会社のことがあったから、誘拐の可能性もあった。

警察に連絡して数時間後。

奏多くんは高校の音楽室に立てこもって、ひたすらギターを弾いていたらしい。

それが開始の合図だったのかもしれない。


今までお坊ちゃんという感じで、きちっと着ていた制服も

だらしなくなって、耳にはピアスがいくつか。

家に帰らない日もあった。

星弥もときを同じくして、登校拒否になった。

私の大切だったみんなが、壊れていく。

そんなときでも私は、閉じ込められた部屋で

ピアノを弾くことしかできないでいた。


ふたりで弾いていたピアノも、ふたを開けるのは私だけ。

一緒に連弾していたあの頃を思い出し、

鍵盤を涙で濡らした。


ずっと一緒だと思っていた男の子は、

私を置いていった。

大事にしていたものを奪われた気分だった。


誰に?

親に?

わからない。


そして高校を卒業する前、彼は家を出て行った。

ギターの専門学校に行くと言って。

もちろん叔父たちは反対したけど、聞く耳を持たなかった。

もう決意していたのだろう。


私は絶望した。

一緒にピアノを弾くことはない。

ふたりで舞台に立つことも……?

いえ、舞台に立つ夢までは絶たれたわけじゃない。


音大に進学するように言われていた私の、小さな反抗。

それは、ピアノ科ではなくて声楽科に進学すること。


そのとき奏多くんはすでにバンドを結成していた。

ボーカルは年下の女の子。

同じ専門学校の生徒だって言ってたっけ。

こっそり彼のライブに通っていた私は、ステージ上で微笑みあう彼女を見て

胸を痛ませた。

彼女が奏多くんを愛しているのは、誰もが気づいていたから。

奏多くんもそれは一緒だったと思う。

だから……私は醜い嫉妬心から、歌を歌うことに決めたのだ。

あの年下の女の子から、奏多くんを取り戻したい。

一緒にピアノを弾いていたあの頃……

夢を語り合った小さい頃のように、

今度は私が鳥かごの中に彼を閉じ込めてしまいたい。


苦労して入学した声楽科。

でも、もっと認められなきゃ。

親にじゃなくて、奏多くんに認められたい。


自分で作った歌もあった。

たくさんの、愛する人への歌。

聴いてもらえないとわかっていても、自然と声に出ていた。

『行かないで』と。


引きこもった星弥にギターを覚えさせたのは私。

星弥も最初はピアノを習わされていたけど、

奏多くんの一件があったのと、登校拒否になり引きこもったことから

それほどきつい指導はされなかった。

卑怯な私はそこに目をつけて、有名なギタリストだったケンさんに

ギターを教えてもらった。

そうして奏多くんがいない寂しさを紛らわせていたのだ。

……私、最低ね。

弟にまで私情を押しつけるなんて。

でも、なりふり構わなかった。

奏多くんを失った私の世界には、色がなかったからだ。


私が奪われた色は、キラキラ輝くステージで

年下の女の子がひとり占めしている。

何度もライブハウスに向かい、途中で出てきては泣いていた。

胸の中にはモノクロの古い記憶。

手放せるならどんなに楽になるのだろう。

それができないのは私の弱さ。

いつかきっと戻ってきてくれるなんて、甘い考え。

ギターがどんどんうまくなっていく星弥を、

私はいつの間にか奏多くんと重ねていた。


私が声を取り戻したのは偶然。

だけど、その偶然は前にもあった。

私の色が戻ったこと……それもきっと偶然だったのだと今なら思える。

運命的なできごとが、人生の中で何回もあるなんて

信じられないけれどね。


お父様からお願いを受けたあの夜。

満月がきれいな日で、星も輝いていた。

私はというと、発表会用のドレスを着て、

ステージのわきに立っていた。


「舞台に立ってくれないか?」


そんな言葉だったと思う。

会社の株主総会の舞台で、私に1曲披露してほしいとのことだった。

少し悩んでから、私はうなずいた。

普通の発表会は何回も出ているし、

コンクールにも出場している。

今更怖いものなど何もない。

ただ……ステージに立つと、今でも探してしまうのだ。

奏多くんの姿を。


だけど、もう彼はいない。

ピアノを演奏するのは私ひとり。

でも、私には彼への思いがある。


ステージで挨拶をして、ピアノの前に立つ。

持っていた楽譜は、伏せたまま。

ずっと私がイスに座らないことで、会場はざわついていた。

スポットライトは私ひとりを映し出している。


大きく息を吸い込むと、私は即興で歌った。

奏多くんへのすべての思いを。

足りないところはピアノの演奏で。

あの頃の気持ちは変わっていない。

今でも待っている。

……ううん、待っていた。


歌い終えると、会場のお客さんたちが

立ち上がって拍手をくれた。

中には泣いてくれている方もいた。

奏多くんがボーカルの女の子が好きになった理由。

歌は人の心を伝えてくれる。

私の思いも、すべて。

私が感じていたのは寂しさだけじゃなかった。

あの頃の幸せも、お客さんに伝わった。

ピアノも大好き。歌うことも。

ああ、私、音楽がこんなに好きだったんだ。

奏多くんと同じくらいに。


奏多くんも音楽が好きだったんだ。

ピアノはやめてしまったけど、その代わりにギターを続けている。

今でもステージに立っているのが証拠。

ピアノでも演奏者の気持ちを伝えてくれる。

だけど、歌……言葉はもっと明確にぶつかってくる。

聴衆を笑顔にすることも、感動させることもできることを知ったあの晩、

私はやっと奏多くんに別れを告げた。



今、うちに住んでいる井ノ寺さんは、

奏多くんの依頼でこのアパートを警備してくれている。

それは笹井くんや吉田くんを守るため。

もう私は守られる存在じゃない。

それに、ひとりで大丈夫。

あなたがいなくても、私はもう……。


真っ暗な部屋。

声が戻ってから部屋に置いた

ピアノのふたを開ける。

軽く鍵盤に触れて、今度はちゃんとイスに座る。


「結局たった1回しか歌わなかったのよね」


あの星降る夜に歌った、奏多くんへのラブソング。

どんな歌でも1回しか歌わないなんて、ちょっとかわいそう。


うろ覚えな歌詞に、ピアノで伴奏をつける。

今では懐かしい思い出。

大好きだった人からやっと卒業した私に、

また恋はできる?

新たな一歩を踏み出すのが怖い。

何度でも何度でも弾きなおす。

昔の恋の歌から、次の恋の歌へ。

当時よりも思いを込めた新しい歌。

納得できるまで弾くと、時刻はすでに朝の5:00だった。


「やだ、もうこんな時間?

昔から集中すると周りが見えなくなっちゃう。

悪いくせね」


ここのアパートは一応防音だけど、

みんなに迷惑かけてないかしら?


心配になった私は、外の扉を開けてみる。

するとそこにいたのは……。


「笹井くん?」

「し、静さんっ! す、すみません。

かすかにピアノの音が聞こえたような気がして、

気になって……」

「迷惑だったわよね。ごめんなさい」

「いえ! 違うんです。僕が聴いていたいと勝手に思っただけで。

キモいことしてすみませんでした!」

「キモいだなんてとんでもないわ。それより……どうだった? 曲」

「その……かすかに聴いただけですが、人を幸せにする曲、ですね」

「ありがとう」

「でも、静さん。あなた自身の幸せは?」

「え?」


笹井くんは真っ直ぐに私を見つめる。

どういうこと?

私自身の幸せって……。


「歌や楽器には感情がこもる。僕もギターボーカルだからわかります。

静さんの歌は、人に幸せをくれる。

なのに、あなた自身は幸せなんですか?」


すぐに答えを出せずに口ごもると、

笹井くんは私の手をつかんだ。

ずっと外にいたから、私の手と違って冷たい。

それに大きい。

指は長くてきれいだけど、ギターをやっているせいかタコもある。


「歌っている人が幸せだったら、もっといい曲になると

思うんです。

だから静さんも、ちゃんと自分の幸せを考えてください。

あなたはいつもひとりで抱え込むから……

僕をもっと頼ってください。

少なくてもあなたのことをひとりにはしませんから」


「笹井くん……」


「あ、いや、アパートのみんなのこともですよ?

みんな静さんのこと好きですから!

す、好きって、変な意味じゃないですよ!?」


照れて慌てる笹井くんを見て、私もくすっと小さく笑みをこぼす。


「……笹井くんは、私を連れ出してくれる?

ステージに」


「どうかしましたか? 静さん」


つい、つぶやいてしまった言葉は

聴こえてなかったみたい。


「ううん、なんでもない」


笹井くんは奏多くんでも、星弥でもない。

あのときの言葉の意味、ようやくわかった気がする。


「ちょっといいかな? あなたと一緒に行きたい場所があるの」


私は笹井くんを、アパートの近くに設置されている

歩道橋に連れてきた。

ここからの景色はとてもきれい。

特に、朝焼けが。

独り占めしていた景色だけど、笹井くんとも共有したい

気持ちだった。

まだ早朝だけど、車の量は増えてきている。

でも空はきれいなまま。


「ここからの風景、お気に入りなのよ」

「……僕も好きです。ハイツ響に引っ越してきてから、何度もこの空を見ました」


そうだったんだ。

笹井くんも知ってたのね。この空を。


「今からでも遅くないかな……」


横にいた笹井くんは、歩道橋に手をかける。

最後まで空に残っていた星が、そっと瞬く。

私の新しい世界の扉が、今開いた気がした――。

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