〇メゾンドール国立304 狛江修

「あいつ……! 同じ大学だったのかよ」


今すれ違った、ヘッドフォンの女。

こいつも二ツ橋大学に入学するとは……!

でも、すれ違った女は俺なんかに目もくれなかった。

というか、周りなんてどうでもいい。

そう表情が語っていた。

そんなところは高校時代と変わってないのな。


しかしムカつく。

俺はずっと意識してたのに、あいつは俺に

気づきもしなかった。


「ここであったが100年目。絶対に……絶対に……!」


――落としてやる。


高校3年の時だった。

かわいげもないし、今と同じく周りに興味もない。

無表情だし、何事にも無関心。

ただ模試やテストはクラス1位。

常にってわけではないが、それは俺が1位を取ったときだけだ。

それでもあいつは悔しそうな顔をしなかった。

そういった態度が、また腹が立つ。


「またかよ……」


今日も壁に張り出されたクラスの成績表を見る。


今回のテストもこの女に負けたか。

なんだよ、しばらくは俺がずっと一番だったのに!

こんないかにもサブカル好きそうな女に負けるなんて……。

今日もテストの順位を気にせず、自分の席で

でかいヘッドフォンをつけている。

シャカシャカとする音漏れが余計に俺を苛立たせる。


この女の名前は松本ノゾミ。

俺、狛江修とはここの予備校の1位争いを毎回続けている。

少なくても俺はこいつを意識していた。

だけど松本はいつも平然と音楽を聴いている。

順位にも無頓着。そんな感じで。

くそっ、こんなにも意識してるのは俺だけなのか?


松本とは結果、高校3年間の模試で、

15勝16敗1引き分けだった。


こうして俺たちの戦いは終わった。

……はずだった。


だけど、この二ツ橋大学の同じ学部に入学するとはな。

ま、よく考えてみれば当然か。

同じ進学クラスだったし、同じ教科の模試を受けてたんだから。


初日の入学式はすれ違っただけだったが、

2日目のオリエンテーションで俺は、松本に声をかけた。


「よ、お前、山下予備校の松本ノゾミだろ?」


ヘッドフォンの片耳を外すと、松本は怪訝な顔で俺をにらんだ。


「……アンタ、誰?」

「狛江修。同じ予備校にいたんだけど」

「ああっ! あの狛江か!」


なんだ、こいつも俺のこと、覚えてたのか?

てっきり興味なんてないと思ってたのに。

俺は意外な出来事に、少しだけ胸がドキリとした。


「いつもトップ争いしてたから、記憶に残ってるよ。

まさか同じ大学の同じ学部にいるとは思わなかったけどね」

「これからもライバルとしてよろしくな?」

「まぁ……よろしく」


俺たちはこうして挨拶をしたが、

俺の目的はそんなものじゃない。


目的は、松本ノゾミを落とすことだ。


なんでそんなことを目的にしてるかだって?


俺でもわからない。

こんな大きいヘッドフォンをつけた、赤毛チビの

どこがいいんだ?

自分でも不思議だ。

でも、恋っていうのは何がきっかけかわからない。


松本は特段かわいいってわけでもない

あいつのことを、俺は意識しすぎてしまったんだ。


松本はいつも気怠げに授業を受けていた。

何をするにも楽しそうじゃない。

友達もいない。

あいつの笑った顔を見たことがない。


ただ、鮮明に覚えている表情がある。

……あいつの泣き顔だ。


普段は仏頂面してる松本だが、

ちょうど2年の冬、インフルエンザで2週間予備校を休んだ。

そのときのテストも重なって、順位は19位とかなり落ちていた。

それでも20位以内に収まってたのはすごいと思ったのだが、

あいつ……誰もいない階段で、ひとり目を赤く腫らして泣いてたんだ。


「マジかよ……」


こんな表情できるんだ。

驚いたのと、いつもとのギャップで

俺はしばらく動けなかった。



あのときからずっと、忘れていない。

それがきっかけなのかもしれない。


何事にも冷静沈着そうなあいつから、

感情を引き出してみたいんだ。

嬉しさや悲しさ、怒りの表情を見てみたい。

照れたり、恥ずかしがらせたり……。

そういう顔を見てみたいんだ。


「俺も一緒にオリエンテーション受けていいか?」


松本にたずねると、あいつは少し嫌そうな顔をした。


「……狛江はあたしなんかとより他の人と受けたほうがいいよ」

「なんで?」


松本は周りにいる生徒をちらりと見やる。

何だっていうんだ?


「狛江はさ、あたしと住む世界が違うんだよ。

なんつーか、あたしはひとりでいいけど、

狛江は大勢の人間の中心にいるようなタイプだと思う。

予備校でもそうだったしね。

ほら、向こうの女子とか、アンタのことずっと見てるよ?

リア充は近寄らないでくださ~い」


「そんなことはどうでもいいよ。

俺はお前と……」


「ともかくアンタと同じ予備校だったけど、

つるむ気はないから」


ああそうかよ、だったら俺は向こうに行くさ!


松本ノゾミは本当にひねくれている。

あいつは結局必修クラスに馴染もうともせず、

いつもひとりで講義を受けていた。

松本もやろうと思えば友達だってできるだろうに……。


とりあえず俺は、あいつを見つけたらひとことふたこと

声をかけるようにしていた。

俺はお前の近くにいるって、存在を忘れてほしくなかった。

他のどうでもいいモブになんて、なりたくなかったんだ。


「なあ、松本。ひとりか?」

「狛江? そうだけど。っていうか、その質問は愚問だよ。

アンタも懲りないよね。あたしに話しかけて何が楽しいのか」

「はは、まあな。今日、偶然昼ひとりなんだよ。

メシ一緒にどう?」


本当はひとりってわけじゃなかったけど、

やっぱり松本が気になる。

そう思って声をかけると、

松本はぴくっと身体を震わせた。


「ひとりなの?

……それなら別にいいけど」


ひとりを好むわりに、

たまに見せる寂しそうな顔が気になっていた。

なんだろうな。

……こいつ、猫かよって感じ。

近づいて構おうとすると嫌がる。

そのくせ寂しがりやとか。

困ったような顔を見せられると、俺はあいつの頭をくしゃりと

なでたくなる。

本当にそうしたら、絶対殴られるんだろうな。

それか、もしかしたら顔を真っ赤にさせて恥ずかしがるかも?

想像するだけで面白い。


入学して2年経って、俺にはたくさんの友達ができたけど、

こいつには誰も寄ってこなかった。

でも、それは俺にとってはラッキーなことだ。

俺以外の人間に気を許してないって意味だって

受け取っていたから。

そう考えると、やっぱちょっとかわいいと思ってしまう。


「卒論のテーマ、決まった?」


俺は学食のラーメンを食べながら、

何気なく松本に聞いた。


俺たちはまだ2年だけど、卒論の準備というか

指導は、すでに始まっている。

テーマも早めに決めておくようにと教授から言われていた。


「まあね。っていうか、

卒論のためにあたしは友達を作らなかったんだから」


「は? どういう意味だ?」


「な、なんでもない!」


そう言ってカレーを頬張る松本。


「そこまで言って内緒っていうのはずるいぞ。

言えよ」


「………」


松本は少し考えたのち、上目づかいで俺を見た。


「誰にも言わない?」


うっ……なんだ、そのかわいい表情は!

普通の男子だったらこいつのこんな表情にもドキッとしないだろうが、

俺は別だった。

だって……松本のこんな顔見ること自体、初めてだったんだから。


いつも不愛想でむすっとしてるのに、

俺だけに心を開いてくれてるって感じがして嬉しいと

不謹慎にも思ってしまう。


「言わないよ」

「じゃ、教えてあげる」


こいつが友達を作らない理由と、卒論……どうつながってるんだ?


「あたしの卒論のタイトルは

『ネット上で人気のある楽曲のファン層とそれを取り巻く環境、

情報拡散の違いによる知名度の変化』。

簡単に言うと、DTMやってる人って結構多いじゃん?

その中のひとりに焦点を当てて、調べてみるつもり」


「それと友達を作らないっていうのは、どういう関連なんだ?」


「それは……その、DTMをやってる人の守秘義務っていうか。

1年の時からこのテーマを卒論でやっていきたいと思ってたんだけど、

大事な人だからさ。その人の迷惑になりたくなくてね」


……なんだって?

松本に大事な人って……。

しかもそいつのことを卒論にするとか、そいつに迷惑をかけたくないとか。

なんだよ、それ……。

俺だって松本のことをずっと見てたのに!

そんなやつ、いつ作ったんだよ!!


「……それなら俺も……」

「え?」

「俺もそのテーマで調べてみたい! 

共同執筆ってことで、一緒にやらせてくれないか!?」


「はぁ!? ちょっと、冗談じゃないよ。

あたしがずっと眠らせてきたテーマだってのに!」


文句のひとつやふたつは想定内だ。

それでもここで引き下がっちゃいけない。


「お、俺も興味があるんだよ。そのDTMのこととかさ。

焦点を当てる人間って言うのは、どんなやつなんだ?」


さらに踏み込んだ質問をすると、松本はつぶやいた。


「まだ動画はアップしてないから、なんとも言えない。

けど、その人のバックアップは色々していくつもり。

つぶやきとかSNSとかを駆使して、どれだけ認知されるか調べるんだ。

まだ曲しかできてない状態だけど……」


「曲しかできてないって、動画にもなってないのか?」


「うん。イラストレーターさんとか、動画編集してくれる人が見つからなくて」


そういうことなら好都合だ。

俺はどちらもできる人間を知っている。


「松本、やっぱり俺にも一枚かませろ。イラストレーターと動画編集者を

見つけてやるからさ」


「マジ!?」

「おう、大マジだよ」

「そういうことなら……共同執筆者になってもらってもいいかな」


おおっ! 松本がデレた。

頬を赤らめて俺から視線を逸らす。

この表情も初めて見るな。


「やべ、かなり重症かも……」

「は? 何がだよ」

「こっちの話」


「あっ、狛江く~ん! こんなところにいた!」

「ほら、彼女が呼んでるよ。行けよ」


ちっ、なんて間の悪さだよ。

あの女はただ最近よく声をかけてくるってだけで、

彼女でもなんでもないっつーのに。

松本に完全に誤解されてるよな……。


「ともかく! 卒論は俺と共同執筆だからな!」

「はいはい。ほら、行った行った」


本当はもっと松本と話したかったんだけどな……。

仕方ないが、チャンスは手に入れた。

それだけでOKってことにしておくか。


俺はとりあえず食堂をあとにすることにした。



その日のうちに、松本からパソコンにメールが届いた。


『卒論の内容について』


相変らずかわいげも何もないシンプルなタイトルだ。

添付ファイルには、DTMとバーチャルアイドルの歌声の入った曲。

それと今回の卒論についての詳細がまとめられたテキストファイル。


『ルール32P』……こいつが松本の卒論のテーマであり、

大切な人。


添付してあったファイルの隅々を見ても、

ルール32Pについての人物像は書かれていなかった。

ここが一番大事なところじゃないのか!?

それとも俺にも教えられないほどのトップシークレットなのか?


メールの最後には、近日中に曲をアップしたいから

イラストレーターと動画職人を早めに紹介してほしいと書かれていた。


松本の大事な人にイラストレーターと職人を提供する。

約束はしたけど、あいつはルール32Pについて何も教えてくれない。

だったらこっちだって。


俺はスマホアプリで松本にメッセージを送った。


『イラストと動画は頼んでみるけど、ルール32Pと一緒で

こっちも誰かは言えない。

教えてくれるならこっちも紹介する』


『じゃ、いい。お互い内緒で進めよう。

ネットは顔が見えないから、どんな人間でも問題ないし、

匿名・正体がわからない相手に対してファンがつくのかも

いい研究内容になると思うから』


ちっ。

松本のやつ、本当に卒論のことしか考えてないんだな。


何のために大学に入ったんだよ……。

確かに研究をするためっていうのが花丸よくできました、な

答えだ。

でも違うだろう?

それだけじゃないはずだ。

友達や同士を作ったり、バイトを頑張ったり……。

遊んだりすることだって、必要だと思うんだけどな。


『松本、今度飲みに行こうぜ』


『断る』


即答。

俺の送ったメッセージは、一瞬で返された。


「本当にお前、それでいいのか?

っていうか、同じ予備校だった俺ですら

こんな扱いなのかよ……。

だったらお前の大事な人間は、どういう扱いを

してもらえるんだ?

わっかんねぇ……」


わかんねぇと同時に、そいつがうらやましくて仕方ない。


そいつは松本に笑いかけてもらえるのか?

本当の表情を見せてもらえるんだろうか?

俺には見せないような、松本のすべてを……。



「眠れないことなんてあるもんだな」


受験が終わって、大学生活にも慣れた。

松本のこと以外は特に悩みも今はない。

だけど、この日はなぜか眠れなかった。


「少し散歩でもするか」


俺は家の鍵だけ持つと、ふらりと外へ出た。


朝の4:00。

さすがに車の量も少ない。

が、空の色のグラデーションがきれいで、

俺は滅多に使わない歩道橋にのぼることにした。


夜明け前。

星がいくつかまだ輝いている。

下を見ると、大きな道路。

昼間はビュンビュンと車が走っているというのに、

時間帯が違うだけでこんなにも差が出るのか。


タイヤのこすれたゴムのにおいがない分、

空気もきれいな気がする。

大きく深呼吸をしていると、男女の声が聴こえた。


「ちょっと飲み過ぎだぞ? ノゾミ」

「ここまで飲ませたケンが悪い~!!」


『ノゾミ』……?

まさか。


下をのぞくと見覚えのある赤毛のショートヘア。

それを抱えるロンゲの男。


松本!?

あんなにべろべろに酔っぱらうなんて……。

しかも相手は誰だよ。

見たことないし、あいつは学生じゃなさそうだ。

背中に何か楽器を背負っている。


「これもR32Pの新曲完成のお祝いなんだからっ!」

「ったく、いいバーがあるからって誘ったら

この様だ……。いいか、ノゾミ! もうあそこは二度と連れて行かねぇからな!」

「え~! なんで!? 酒超おいしかったんですけど!」

「その分飲み代が高くつくんだっ! 俺のおごりだと思って、

ガバガバ飲みやがって……ともかくもうすぐ家だからな。

もうちょい頑張って歩け!」


「あ~い」


家……この近くなのか。

俺はあいつの家を知らないのに、

あのおっさんは松本の家を知ってる。

しかも、あいつがべろべろになるまで飲んでるってことは、

それなりに心を許してるってことだ。


『R32Pの新曲完成のお祝いなんだから!』


R32P……大事な人……。

もしかしてあのおっさんが?


「あんなの、松本には釣り合わねえよ」


吐き捨てるように言うと、家に帰って布団にもぐる。

二度寝しようと思ってたけど、その日は丸一日講義をサボってしまった。


それだけあの光景は、俺にとってショックだったらしい。

メシを食うのも憂鬱で、ただずっと横になっていた。



数日後、複雑な気持ちを抱えたまま、

俺は松本にイラストレーターと動画編集者を紹介した。

約束は約束だからな。


話はうまく進み、その1週間後には動画サイトで曲がアップされ、

1日で10万再生という当初の予想以上の結果に俺たちは度肝を抜かれた。

しかし、あのおっさんが作った曲が10万再生……。

人は見た目だけじゃ本当にわからないんだな。


「でも、ここからが本題なんだよな」

「うん。動画アップはスタートに過ぎない。

ここからどんなファンがいるのかとか、

つぶやきでどのぐらい拡散されるのかとかを調べないと」


「お前ひとりで調べるの、大変だろ?

俺も手伝うよ」


「じゃ、狛江はイラストレーターの方の認知度を調べてよ。

あの人も動画とかアップしたの、初めてだよね?

イラストサイトを検索したけど、そんなに知名度なかったし

イラストも枚数なかったし……」


「あ、ああ、そうだな。

こういう仕事は初めてだったみたいだから。

イラストレーターについては任せろ」


俺は胸をドンと叩いた。

やっと松本が俺を頼ってくれた。

松本の気持ちが、あのおっさんにあるとしても

やっぱり男として頼ってもらえるのは嬉しい。


卒論は俺と松本の共同作業。

お互い協力しないとできあがらない。

この作業をきっかけに、

こいつの心も俺に揺らいでくれないかな。

あんなガリガリなおっさんなんて捨ててさ。


自分で言うのもなんだが、

学内でモテないわけじゃないし、

女子に告白されたこともある。

松本を忘れようと彼女を作ったこともあるが、

それも意味がなかった。

どうしても目が松本の方へ行ってしまうんだ。

松本も俺に彼女ができても興味ないようだったしな。


「くそ、俺、ダメだな……」


松本との卒論の打ち合わせは、

基本的にメールとメッセージだった。

大学内での俺たちは変わらず。

俺が話しかけると、松本は『アンタとは世界が違うから』と

近づけてくれない。


……俺と松本の関係は、本当にリアルなのか?


繋がっているようで、繋がってない。

顔見知りから脱却できないのは、

松本が俺のことに興味がないから……?


「俺には興味を持たないくせに、

あんなおっさんには心を開くなんて……」


今まで勉強してきたことには、

ほとんど答えがあった。

大学に入ってから、俺に出されたのは答えのない問題。


「不愛想、かわいくない、口が悪い、ぼっち……。

あいつの悪いところはいくらだって出てくる。

なのにそういうところが俺にとっては

気になっちまうんだよ」


本当に悔しい。

大体あいつ、俺のことどう思ってるんだろう?

予備校では一応ライバル視してたって言ってたけど、

そんな素振りはまったく見えなかった。


……俺、あいつの考えてることがわかんねぇ。

わかんねぇから気になって、ずーっと考えちまう。

結局俺は松本に振り回されてるんだ。


翌朝。

ひとり暮らしのベッドの上で爆睡していたら、

メッセージが届いた。

同じゼミのやつらだ。


『今夜空いてるか? ゼミのやつらで飲もうって話になってるんだけど』


ここでうじうじしててもしょうがないよな。

俺は『行く』と連絡すると、大学へ向かう準備を始めた。



大学へ行くと、ちょうどゼミ室から松本が出てきたところだった。


「よ、松本。まーたなんか怒られるようなこと、

したのか?」


ふざけた調子で声をかけてみる。

少し顔色が悪いな。

それに目の下のクマ……。

もしかしてこいつ、寝てないのか?


心配していたが、松本も松本で

つっけんどんに返答した。


「なんであたしがゼミ室から出てくるイコール怒られるなんだよ。

レポート提出してきただけ」


「レポート? 順調か?

例の調査は」


「まあね。でも、もっとデータが欲しいと思ってる」


「よくやるよな、お前も。

昨日の夜の打ち合わせから、まとめたんだろ?

徹夜じゃねーか」


俺はぎょっとしていた。

なんでそこまで卒論に入れ込むんだ?

確かに研究材料としては大きな案件だし、

調べることは多いかもしれない。

だけど、俺たちはまだ大学2年次だぞ?

あと2年、余裕があるっていうのに……。


本当にこいつ、大丈夫か?

もしかして、この卒論もすべて

あの『R32P』というおっさんの気を引くためのものなんじゃ……。


心配な眼差しで松本を見つめるが、

彼女は目をこすると眉間にしわを寄せた。


「アンタも協力してよね。

例の件」


「ああ、R32Pの新曲の動画だよな。

手配してるから心配すんな」


本当は不本意だ。

恋敵に塩をおくる真似をするなんて。

でも、松本との論文は完成させたい。

ふたりでひとつのものを作り上げる。

アイツと一緒に何かをやり遂げたいんだ。


「次のアップはできれば一週間後ね」


「わかった」


「………」


必要事項を話すと、松本は黙った。

『早く行け』と言わんばかりだ。

俺はその空気を察して、松本から離れようとした。


「じゃ、R32Pにもよろしく言っといてよ。

いずれ会いたいって」


「うん」


本音は会いたくない。

会ったら殴りかかってしまうかもしれない。

お前はこんな何も知らない若い女を捕まえて、

楽しいのかって。


どす黒い気持ちを隠すため、

俺は気分を変えるつもりで笑顔を見せた。


「それと今日、ゼミ飲みがあるけど当然……」

「行かない」

「だよな」


そうだよな。

こいつは俺とのサシ飲みにも来てくれないんだ。

ゼミ飲みなんて来るわけがない。

あのおっさんとはサシで飲んでたみたいだけど……。


「はぁ……片思い以下だよな、こんなの。

ちくしょう、悔しい」


俺は大きくため息をついて、松本の背中を見送った。



それから数日。変化は訪れた。

松本の様子がおかしい。

いや、おかしいというか、機嫌がいい。

予備校時代から5年間ずっと見てきたんだ。

あいつの微妙な表情の変化くらいわかる。


何かあったのか?

あったとしたら、『R32P』のことだ。

曲を動画サイトにアップしてから、短期間でかなりのファンがついた。

もちろんイラストの方にもファンがついたようだが、

それよりも松本の機嫌の方が俺にとっては重要だ。


『R32P』にファンがついて、そんなに嬉しいのか?

あのおっさんなんかに、俺は負けてるのか。

最悪だ。


でも、そろそろR32Pの正体……あのおっさんの正体を聞いてもおかしくないよな。

俺だって共同執筆者になるんだから。


俺はいつもと同じ、窓際の一番後ろの席で

ヘッドフォンをつけている松本に声をかけた。


「松本。『R32P』のこと……」

「うわああっ!」

「!?」


珍しく大声を出し、周囲を見渡す松本。


「ちょっと! 卒論のことは超内密なんだから、

注意してよっ!」


「卒論のことで話があるんだけど」

「家に帰ってからでいい? メールかチャットで……」

「いや、サシで話がしたい。夜メシでも食いながら」

「……夜メシ?」


あ。

そういや初めてだな。

ディナーってほどじゃないけど、夜メシに誘ったのって。

こいつのことだから、絶対断るだろうって

ハナから諦めてたんだ。

今回だってきっとダメだって……。


「……しょうがないな」

「え?」

「駅前の居酒屋でいい? あそこの玉子焼き、好きなんだよね」

「いいけど……」


こいつ、駅前の居酒屋なんて行ったことあったのか。

あそこはうちの大学のやつらの溜まり場になっている。

もしかしたら俺以外の誰かと一緒に行ったとか?

あのおっさんかよ。

俺は心の中で舌打ちする。


でも、初めて夜メシに誘えたんだし、

色んな話をしたい。

松本の本性が知りたい。

R32Pとどう出会ったのかとか。

……俺のつけいる隙はあるのか、とか。


いつも何を考えてるのか。

ヘッドフォンをつけてるけど、どんな曲が好きなのか。

――俺のこと、どう思ってるのか。

ライバル? 友達? 

それとも男として意識してくれてる?


松本の顔をじーっと見ていたら、

嫌そうににらまれた。


「なによ」

「い、いや、なんでもない」

「じゃ、詳細はメッセ送る」


それだけ言うと、またヘッドフォンをつけて

小説に目を通す。


5年も見つめてるのに、俺は松本のこと

何も知らないな。

得意教科も苦手教科もまんべんなく点を取るし、

かといって自分自身のことは話したがらない。

読んでる小説だって、ブックカバーがしてあるから

何かわからない。

聞いたところで「別になんだっていいでしょ」と

言われるだけだろう。

そのあと「向こうでみんな待ってるよ」とか言って、

追い返されそうだ。


あいつは『俺と自分は住む世界が違う』って言っていた。

本当はそんなことはないんだ。

ただ、あいつ自身が勝手にそう思ってるだけで、

いつでも俺たちは一緒の世界で楽しめるはずなのに。

なんであいつはいつも、他人との間に壁を作るんだ?


R32Pは、あいつが思っている同じ世界にいるのだろうか。

だとしたら俺はうらやましいと同時に、

憎しみを感じる。

松本はR32Pと同じ世界にいるせいで、

俺たちの世界に飛び込んでくれない。

あいつを独り占めしないでくれ。

あいつの本当の姿は、きっと今俺が見ているものとは違う。

多分、あいつは変わる。

世界が変われば、蝶が羽化するようにきれいになる。

それが俺の妄想だと言われても、俺はあいつのことをずっと待ってるんだ。


講義中、メッセージが届いた。


『17:00-駅前の華の笑い入口集合。

ゼミの人間がいないかチェックよろしく』


俺にやっと時間が与えられた。

この貴重な時間、俺は何を話そうか?

今からドキドキして、講義なんて耳に入ってこなかった。


16:40。

少し……いや、かなり前に着いてしまった。

講義が終わったあと、待っていられなくてすぐに向かったんだ。

だが、松本も早めに着いたので

ちょうどよかった。


「お互い早めに着くとはね」

「それより早く入ろうぜ!」


完全に浮かれていた。

あの松本と一緒にサシ飲みだ。

こいつ、酔ったらどうなるんだろう。

普段は無表情だったり、見せたとしても悪そうな笑みだったり

するが……。

甘えてこられたらちょっと……いや、かなり嬉しいかも。

ギャップ萌えっていうのか?

松本の背中を押して、店へと入ろうとしたところ……。


「あ? ノゾミじゃねーか」

「ケン!? なんでこんなところに!」


ケン……いや、こいつはあの日見たR32Pだ。

しかし、松本が男の名前を……しかも呼び捨てで?

俺は声がした方へ顔を向ける。

R32Pは相変らず黒縁メガネで髪の長いひょろっとしている。

背中にはギターかベースか楽器を背負っていた。

この間と同じだ。


「珍しいなぁ。ノゾミがひとり飲みじゃないなんて。しかも同年代の男とか!」

「ちょ、ちょっと、からかわないでよ! 狛江はそういうんじゃないから!」


『ノゾミ』……。

R32P……ケンという男は、松本の下の名前で呼んでいる。

こいつ、松本とどういう関係なんだ?

年齢は俺たちよりも上……30代くらいか?


「おいおい、にらむなよ。ボウズ。ノゾミ~、お前も案外隅に置けないな!」

「だから違うって! こいつは予備校時代からの腐れ縁!

今日も卒論について話す予定だったの」

「卒論?」

「R32Pの楽曲について、だよ」


「……お前、そんなこと卒論の内容にしようとしてたのか?」

「ごめん、ケン。あたしは純粋に音楽を楽しんでなかったんだ」

「嘘つけよ。お前の曲は全部、弾き手も楽しませてくれる。そう言っただろ?

お前の本当の気持ちは、曲に全部詰まってる。

俺はわかってるつもりだけどな!」


ケンは松本の頭にポンと手を置くと、そのまま髪がぐしゃぐしゃになるまで

かき混ぜる。


「うっ~……」

「松本……」


松本は真っ赤になりながらも、その手を振り払おうと必死だ。


「ボウズ、R32Pはしばらく俺のもんだ。

だけど今夜だけ貸してやろう。

酒、買ってきたけど、今夜はひとり飲みか~」


ケンはニコニコしながら、その場を去って行った。

なんだったんだ、一体。


「くそっ、ケンのやつ~っ!

何が『俺のもんだ』だよっ!

腹が立つっ!!」


顔を赤く染めたまま、髪の乱れを直す松本。

……こんな松本、初めて見た。

そっか。

松本はあのケンっておっさんのこと……。


っていうか、ちょっと待て。

R32Pは、あのケンとかいうおっさんじゃなくて、

もしかして……!?


「こんなカッコで正体バラされるなんてね。

……驚いた? あたしがR32Pだって」

「い、いや……ってか、ケンっておっさんがR32Pだと思ってたから」

「なんでそうなるの。それにケンのこと、知ってたんだ」

「まあな。偶然ふたりで歩いてたの、見たんだよ。

松本、お前めっちゃ酔ってただろ?」

「嘘、あんなところ見られたとは……最悪」


松本は今までに見せたことのない表情を浮かべる。

まるでそれは、好きな人のことを話してるときの

女の子の顔だ。

……やっぱり松本は、ケンのこと……。


「はぁ~……マジかよ。失恋とか!」

「え? 失恋?」

「お前はもう黙っとけ!」

「わっ!?」


俺もケンと同じように、

松本の髪をごちゃごちゃにする。


「何すんだよ! もう!」

「なぁ、松本。お前にとって、俺ってどんな存在なわけ?

予備校からの腐れ縁ってだけか?」

「はぁ? まぁ……世界は違うけど、友達……かな」

「ん? 聞こえねぇ~」

「も、もういいっ! 自分から聞いたくせに……。

ほら、卒論の打ち合わせ、するよ!」


友達……ね。

俺にしたら上々かもな。

本当の友達なら、もうこいつに気兼ねすることはない。

5年間も想い続けてきたきたけど、

俺が勝手に妄想してただけだったんだ。

こいつは俺と住む世界が違うという。

俺はそうとは思わない。

やっぱり俺たちは同じ世界の住人だ。

松本が持っている心の垣根は、俺が簡単に飛び越えてやるよ。


失恋したのは一瞬だった。

だけど、ようやくこいつと同じ舞台に立てた感じがする。

松本も普通の女の子だった、ってことだ。

だから今から。

俺の本気で絶対落としてみせる。

まだ出会って5年。

話すようになって2年。

ケンとはどうやって知り合ったのか知らないけど、

俺の方がチャンスはあるだろう。

同じ大学にいるんだし。

それに、なによりケンなんておっさんよりも、若い俺の方がいいに決まってる。


「負けねぇぞ?」

「何が?」

「ともかく! 今後の卒論について、ゆっくり話をしようじゃん。

な? 『R32P』先生?」

「なんかムカつく……」

「『知人』とか嘘ついてたお前が悪い! しかしお前がDTMとはなぁ~……」

「ふんだっ! いいでしょ、別に」


松本はツンとして店に入る。

あいつがオーダーした玉子焼きは、確かにうまかった――。

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