ミュージック・ステージ

浅野エミイ

〇103号室 笹井

「おい、この洗濯機入らねーよ!」

「面倒だからそのまんまでいいぞ。すんませーん、洗濯機入らないんで!」

「えっ……こ、困りますよ」

「いやいや、入らないもんはしょーがないでしょ」

「はぁ……」


「大体こんなでかい洗濯機、この狭い洗面所に入れるの無理ですよ」


僕は失礼な態度の引っ越し業者を前に、つい頭を抱えた。


確かに洗濯機はでかい。

乾燥機能と除菌機能もついた、最新のドラム式のものだ。


男ひとり暮らしなのにこんなでかい洗濯機を使うということで、

引っ越し業者は内心で笑っているのだろう。


どうせ同棲していた彼女にフラれて、

この狭いアパートに越してきたんだ、と。


そりゃそうだ。

僕みたいに前髪が長くて全体的に根暗そうなやつは、まさにフラれたばっかりの

情けない男像そのものなのかもしれない。


いや、それ以前に彼女もいないように見えるんじゃないか?


もしかしたらフラれた男、というよりも、親に家事道具を持たされて

ひとり暮らしをするように言われた

引きこもりニートかと思われてるのかもしれない。


洗濯機を移動するのをあきらめた業者は、

先ほど僕が差し入れたペットボトルのお茶を

ごくごく飲んでいる。

……しかも、その洗濯機の上に腕を置いて。


だけどこの洗濯機がないと、僕の仕事に影響するんだ。

大事に扱ってくれないと困る。


ごほんと咳をすると、じろりとアルバイトと思われる引っ越し屋をにらむ。

それでも平然とお茶を飲み続けて、空になるとやっと腕をどかした。

完全になめられてる。最悪だ。


「それじゃ、失礼しまーっす!」



引っ越し業者は入らない洗濯機を置いて、さっさと撤退していく。


「困ったなぁ……どうしよ、これ」


でかい洗濯機をキッチンに置かれた僕は、途方に暮れていた。


こんな場所にあっても使えない。

邪魔でしょうがない。


「とりあえず大家さんに挨拶して、ちょっと相談に乗ってもらおう。

もしかしたら業者へクレームを入れてくれるかもしれない」


僕は挨拶に持っていくために用意した菓子折りを用意すると、

大家さんが住んでいるという101号室へと向かった。


この『ハイツ響』は2階建てでワンフロア3部屋ずつある

わりと新築のアパートだ。

101号室には大家である『日比木さん』という方が住んでいると、

不動産会社から聞いている。


大家さんが同じアパートに住んでいるので、管理もバッチリらしい。


まぁ、警備に関しては前のマンションのほうがよかったけど……。

でもしょうがない。

僕はこの小さなアパートに逃げてきたようなものなのだ。


ちょっと緊張しながらインターフォンを押す。


大家さんか……。


ご年輩の怖そうなおじいさんか

ふくよかでおしゃべりが大好きなおばさんってイメージだ。


ドキドキしながらジャージの袖を引っ張る。

ガチャリとドアが開いて出てきたのは……。


「………」


「えっ!? えっと……」


僕はひょっこりと顔を出したロングヘアの女性にたじろぐ。


彼女が大家さん!?


整った顔立ちの彼女は、僕よりもちょっと年上に見える。

だけど……年齢なんて関係なく、きれいだ……。


「あ、あのっ! 103号室の引っ越してきた笹井です! 日比木さん……ですか?」


女性ははっとすると、首を縦に振る。


「今日からよろしくお願いします! それで、洗濯機のことで相談が……」


僕が洗濯機の相談をしようとすると、日比木さんは手で「ちょっと待って」と

制する。


そしてポケットから何やら取り出した。


メモ帳とペン?


僕の相談を書き留めておくのか?

やっぱり大家としては、住人の苦情にも真剣に向き合うんだな。


日比木さんはさらさらとメモ帳に文字を書きはじめる。

ペンを止めると、紙を僕に見せた。


『ごめんなさい。私声が出ないんです』


「えっ」


突然のことで僕は目を丸くする。日比木さんはまたメモ帳のペンを走らせた。


『だけど何かあったらなんでも言ってください。よろしくお願いしますね』


「はぁ」


にこにこと笑う日比木さん。

声が出ないことなんか関係ない。

僕はその笑顔につい惹かれて、顔が赤くなっていくのがわかった。



日比木さんに洗濯機のことを伝えると、業者側に連絡を入れてくれるとのことだ。

話せないのにどうするのかと聞くと、メールを送ってくれるという。


「きれいだったな、あの人」


がらんとした部屋には本当に必要なものしか置いていない。


小さなテーブルに近くの自販機で買ってきた缶ジュースに口をつけると、

今日出会った若くて美しい大家さんに、僕はすっかり心を奪われてしまっていた。


ほう、とため息をつくと、携帯が鳴った。


「はい。え? 今から? ……わかりました」


仕事先からだった。

電話の相手は同僚というか、仲間というか。

ともかく今すぐ来いとのことだ。


僕はバッグの中に必要なものをつっこむと、

大事な仕事道具を持って家を出た。



僕の仕事は一度始まると数日帰れないこともある、不規則なものだ。


3日間缶詰になってやっと解放され、ふらふらと新しい部屋へと戻る途中だった。

昨日からずっと徹夜で、頭が痛い。

それに朝日が差してきているとはいえ、寒い。息が白い。


身体を縮こませながらアパートの前まで歩くと、人影が見えた。


誰だろう?

結局挨拶に回ったけど、ほとんどの部屋の住人は留守。

というか、出てくれなかった。

目を凝らしてみると、そこにいたのは日比木さんだった。


「お、おはようございます!」


日比木さんは長い髪をひとまとめにし、ほうきでアパートの前を掃いていた。


僕が声をかけると手を止め、メモ帳を取り出そうとする。

前に挨拶に行った時のようにペンを走らせようとしところ、

一瞬止まった。


「どうかしましたか?」

「………」


メモ帳はちょうど紙が切れており、もう文字が書けない。


「それなら」


僕は自分の携帯を取り出すと、

『おはようございます』とメール画面に文字を打ち込んだ。


日比木さんはそれを見ると、自分も携帯を取り出し文字を打った。


『ごめんなさい、紙がなくなっちゃうなんて。お仕事だったんですか?』

「ええ、まぁ」

『どんなお仕事なんですか?』

「えっと……」


僕は言葉に詰まった。

一応、日比木さんは大家だから、僕の仕事先については知っているはずなんだけど。

すると彼女は急いで両手の親指を使って、文字を打った。


『細かいことは親が仕切っているので知らないの。私、話せないから。

だから今は家事手伝いみたいな形で大家をやってるんです。

ごめんなさい、迷惑でしたよね?』


「いえ、そんなことはないですけど」


仕事のことは別に秘密にしているわけじゃないが、

話さないほうがいい。

それこそ本当に迷惑がかかるかもしれないから。


『ところで私のメッセのIDって、お教えしましたっけ?』

「し、知らないです」

『今日、笹井さんのお部屋に引っ越し業者が来たんですけど、お留守だったので』

「あっ」


そうか、洗濯機のことか。

苦情を言っておきつつ、仕事が入って忘れていた。

まだキッチンに置いたままだ。


『何かあった時のために、IDを登録しておいていただけますか?』

「は、はいっ!」


番号を教えてもらえるとのことで、僕の声は裏返る。

この日はお互いのIDを交換して、部屋に戻った。



「静さん、か」


アプリに表示された名前を見て、ついニヤニヤしてしまう。

でも、用事がなければメッセージを送信なんてできないよな。

これがつぶやきみたいなのだったら簡単に繋がれるんだけど……。


やばいな、僕。

いくら職場にいる女性がひどいからって、日比木さんのことを気にしすぎてる。


携帯をいじってると、そのままつぶやきやアプリを見てしまいそうで怖い。

普段は自分の害にしかならないのに、こんなときだけ利用したいと

思ってしまう。


僕はカップラーメンを食べ終えると、ベッドに横へなった。



携帯が鳴った。また仕事だ。

のっそりと起き上がり、いつものジャージに着替えると

また荷物を持って部屋を出る。

時間の感覚はないが、夕方ぐらいだろうか。

時計を見る習慣はあまりない。

ただ、呼び出されたら行く。そんな惰性で動いてたらダメなのに。


昔はこんなじゃなかったんだけどな。

ここ数年だ。自分の仕事が好きになれなくなったのは。

本気でやろうと思って仕事にした。

だけど今は違う。

自分はなんでこんなことをしているのだろう。


ぼさぼさ頭で部屋を出ると、鍵を閉める。

そこでショートカットの女の子と鉢合わせた。


「………」


無言で僕の顔をにらむ。

年の頃10代後半から20代前半といったところか。


このアパートの住人なのか?

だったら挨拶しないと。


「あっ、あの」

「キモ」


女の子はそう言い捨てると、2階へと上がっていった。


キモって……。

やっぱり僕ってもさくてキモいんだよな。


罵られたのに、僕はくすっと笑ってしまった。

そうだ、僕は決してカッコイイ部類の人間じゃない。

スポットライトが当たる生活なんて、似合わない。


そんな僕だけど、日比木さんは笑顔を見せてくれる。

まだ会ったばかりだし、ほとんど話もしていない。

だけど、それほどあの人の笑顔はきれいで……。


あの人ともっと近づきたい。

何か方法はないのだろうか。


「考え方までキモいな、僕」


自嘲しながら、今日も大きな荷物を抱え改札を抜けた。



結局その日も泊まり。

仕事から解放されたのは、なんと4日後。

その間の食事は弁当。

まずくはないはずなのに、味はしなかった。

僕にとっての食事は、ただの栄養補給と空腹を紛らわすものでしかない。


ぼーっとしながら歩いていると、

またアパートの前に日比木さんがいる。

今日は主婦らしき女性と一緒だ。


「静~! 近くまで来たから寄ってみたけどさ、明後日本当に来ないの?」


何やら盛り上がっているようだが、相変わらず日比木さんは筆談だ。

会話の内容まではわからないが、

女性が日比木さんをどこかへ誘っているのは見て取れる。


軽く会釈して自分の部屋へ入ろうとすると、女性を遮って

日比木さんが僕の肩をたたいた。


『笹井さん、洗濯機の件なんですが……あとでお話できますか?』

「は、はいっ! すみません、ご迷惑をおかけして」

「あ、これがこの間静がつぶやいてた新しいたなごさん?」


女性の言葉に、日比木さんは焦る。

つぶやきって……僕のことを何か言ってたのかな。


日比木さんは真っ赤になると、しばらくして携帯の画面を僕に見せた。


『静 @shizuka_h

今日は新しいたなごさんがアパートに来ました!』


『静 @shizuka_h

お話はできないけど、仲良くできたらいいな』


「………」


こんな風に考えていてくれたんだ。

恥ずかしいのか頬を染める日比木さんを見て、僕まで照れくさくなる。


「へぇ。お邪魔しちゃ悪いかな。静! ともかくあとで連絡して」


女性は子どもが乗れるようになっている大きい自転車にまたがると、

手を振ってその場を去った。


「すみません。お話してらしたのに」

『いいえ、私こそこんな風につぶやいててごめんなさい』

「それは……気にしていないというか」


むしろ気にかけてもらえて嬉しかったというのが本音だ。


日比木さんに洗濯機についての連絡を受けると

そのまま別れて、部屋に入った。



洗濯機は翌日の昼間、ようやく洗面所のスペースに配置された。

引っ越し業者は『入らない』なんて言ってたけど、

結局本社の正社員の人ふたりが余裕で入れてくれた。


「何が入らねぇだよ」

「あいつらやっぱダメだな」


ふたりの社員は迷惑をかけたことを謝罪すると、

さっさと帰って行った。

様子からすると、こういうことはかなり多くあるみたいだ。


冬の夕日が部屋へ差し込む。

洗濯機を回すとベッドにごろんとなりながら、携帯を眺める。


「『@shizuka_h』だったよな……」


昨日、つぶやきは見せてもらった。

フォローしても悪くはないよな?


日比木さんの書き込みを見つけ、フォローボタンを押す。

メール画面を立ち上げるよりもここからダイレクトに連絡したほうが早い。


『洗濯機の件、ありがとうございました。

あと、こちらこそ仲良くさせてください』


これで送信っと。


「仲良く……か」


本当はもっと気楽に会話できるような間柄になれたら

楽しいんだろうけど……。


彼女は話すことができない。

だからメモ帳だとか携帯だとかがないと会話自体が成り立たない。


日比木さんのつぶやきをたどってみる。


『今日はお向かいさんからゆずをいただきました』


『きれいな朝焼け。冬は空が澄んでいます』


『小学生がみんな元気に挨拶してくれるのが嬉しいです』


光景が目に浮かぶ。

彼女の笑顔。

空を見つめる瞳。

手を振り返す姿。


……彼女の声を聞いてみたい。


声が出ないのが先天的なものなのかどうかはわからない。

それでも聞いてみたいと思ってしまうのは僕のエゴだ。


画面をスクロールさせて、さらに彼女のつぶやきを

眺める。

するとそこには昨日の女性に対しての書き込みがあった。


『飲み会、誘ってくれたのに本当にごめん。

でも私が行っても空気が悪くなるだけだから』


『音大退学しても、声楽科No.1の歌姫ってことは

変わらないんだからね! 明後日の夜、待ってるよ!』


「……は?」


ちょっと待て。

『音大』? 『声楽科』? 『歌姫』?

日比木さんは声が出ないんじゃないのか!?


まさか、本当は声が出て、僕だけだまされてるとか……?


でもだましてるのに『仲良くしたい』はおかしいよな。

それに音大は『退学した』と書かれている。


もしかして、何か理由があって音大をやめたとか?

それが声が出ないことと関係あるんじゃ……。


「……よくないよな、こんなの」


詮索しようとしている自分に気づき、携帯を投げた。

日比木さんは彼女でもなんでもない。

友人かと問われても、まだそんな関係でもない。

ただの大家とたなごだ。


気にならないと言い切ることは無理だけど、

自分がもしこうやってつぶやきからいろんな詮索をされたら、

やっぱり嫌だし不快だ。

だから自分はできる限りこの機能を使わないようにしてるんだ。


もし明日まで気になっていたら、本人に直接聞こう。

僕は日が沈むとともに、眠りについた。



翌日早朝。

また携帯でたたき起こされる。

乾燥まで終わっている服を取り出し、

バッグに詰め込むとまた荷物を持って家を出る。


……いつからこの仕事が『当たり前』になったんだろう。

僕にとっての当たり前は、きっと当たり前なんかじゃない。

日比木さんの声が出ないことだって、普通じゃない。

でも彼女はそれが当たり前のように暮らしている。


真っ暗な街。道に車はない。

歩道橋なんか使わないで、そのまま突っ切っても構わない。

だけど僕はできるだけ夜空に近いところから、大声で叫びたい気分だった。



「……さん、お客さんですよ」

「僕に?」


職場に来る客なんて、ろくなもんじゃない。

僕はボーっとしたまま廊下に出る。

そこにはパーカー姿の爽やかな男の子がいた。

年の頃、15、16くらいだろうか。


「あ、あのっ! オレ……」


僕はその高校生をじっと見つめる。

しばらく声を詰まらせると、勢いよくお辞儀して去って行った。


いつものことか。

僕は気にしないことにして仕事に戻ることにした。



数日後。

この夜もカップ麺をコンビニで買うと、その袋をぶら下げて

深夜の道を歩く。

月明かりはきれいだが

今日は仕事も早く終わったことだし、さっさと食事して眠りたい。


だが、前方には足取りの怪しい影。

あれは……。


「日比木さん!?」


「………」


声をかけると彼女は振り向いた。

真っ赤な目と、ほんのりピンクに染まった頬。

どうしたのかと近づくと、いつものようにメモ帳をめくる。


だけどうまく線が引けず、紙にはミミズ文字が躍る。


「もしかして、酔ってます?」


その問いかけにこくりとうなずく。


ああ。

そういえばおととい、アパートの前で女性に誘われてたっけ。


「……音大の……飲み会でしたっけ」


僕がたずねるともう一度首を縦に振る。

その勢いで身体がぐらつき、僕は思わず支えた。


「日比木さん、部屋の鍵は? ともかくそこまで送りますから」


「………」


僕に鍵を渡すと、日比木さんはそのまま身を預ける。

困ったな。

こんな無防備な顔を見せられると、僕だって……。


いや、いけない。

彼女にこんな思いを持ってはダメだ。


自分の荷物と彼女を抱えながら、101号室の鍵を開ける。

真っ暗な廊下に部屋が2つ。

キッチンとリビングだ。それに洗面所やバスルームがつく。

僕の部屋とほとんど造りは同じ。

ただ、配置が微妙に違うだけだ。


「日比木さん、着きましたよ」


彼女はくったりしたままだ。

どうしよう。

このまま廊下に寝かせて放っておけば

風邪を引いてしまう。

だからと言って、部屋に入るのも悪い。

日比木さんは女性のひとり暮らしのはず。


「日比木さんっ!」


もう一度声をかけるが、口をぱくぱくと動かすだけ。

声は出ていない。

仕方ない、よな。

僕は彼女の靴を脱がせると、部屋へお邪魔することにした。


花柄の布団と白いシーツが敷かれたベッドまで日比木さんを運ぶ。

電気はつけていないが、ここまで何も足にぶつかるものがなかったところを

見ると、きれいに部屋は片付いているようだ。

彼女らしいといえば、らしい。


そこへ寝かせると僕は早々に部屋を出ようとした。

でも。


「………」


「嘘だろ……」


手首をつかまれて動くことができない。

日比木さんは夢の中だ。

こんなことってあるか。

僕の理性を試すような真似はやめてくれ。


しばらく手を振り払おうと動かしてみたが、

なかなか離してくれない。

参った。


僕はうす暗闇の中ぼんやりと映る室内を見渡す。

木目のチェストの上に合ったのは日比木さんの写真。

一緒に写っているのは、僕と同い年くらいの男性。


……彼氏なのかな。

冷静に考えてみれば、こんなきれいな人に彼氏がいないわけがない。

話せなくても、コミュニケーションの取り方なんて

いくらでもある。

それこそこうやって近くにいるだけで、彼女を感じることはできるんだから。


「せいや……」


「えっ?」


ふとしたときだった。

今、話したよな!?


「日比木さん、話せるんですか?」


「………」


もう一度確かめようとしたが、

日比木さんはすやすやと寝息を立てている。


『せいや』って。


『せいや』……。

もしかしてこの写真の彼氏、かな。


彼女の寝顔を見て、僕は悲しくなった。

安らかな笑みが月明りに照らされる。


やっぱり僕みたいなダメな人間は、彼女に釣り合わない。

写真の男性は日比木さんにお似合いだ。

スポーツマンなのか、少し筋肉ののった身体。

笑顔にも影がない。


それに比べて僕は髪もぼさぼさだし、

笑顔なんてここ数年浮かべていない。

もう、こんなに楽しそうに笑うことなんてできない。

それが許されないんだ。


人がやりたいという仕事に就いた。

だけどそんなものは幻想だった。

本当に好きなことは仕事にしちゃいけない。

でも、僕はこの仕事に就くことが夢だったんだ。

こんなことしか僕にはできないから。


ゆっくりと日比木さんの手が離れる。

僕はその隙に、そっと彼女の部屋を離れた。



扉を閉めると、ドアの前に男が座っている。

目をこするが、どうやらお化けの類ではないらしい。

黒縁メガネで長いぼさぼさな髪。

なんなんだ、こいつは。


そっと様子を見るとどうやら酔っぱらっているようだ。


「あ、あの」


あんまり関わりたくはないが、ひとりで暮らしている女性の部屋の前に

こうして居られるのも不気味だ。

びくびくしながら声をかけてみると、酔っぱらいは僕の肩をつかんだ。


「おい、お前っ!」


「ひいっ!」


酔っぱらいは僕の顔に酒くさい息を吹きかけると、けらけら笑った。


「あ~、なんだ。弟かよ」


男はゆっくりと僕を放すと、ふらつきながら階段を上がって行った。

ひょっとして、今のは上の階の住人?


心配だから念のため、明日の朝挨拶しに行こう。

日比木さんには報告する必要はない。


……今日はそっとしておこう。

僕は自分の心にふたをした。



あの後、結局胸がもやもやしたままで、

眠りにつくことなんてできなかった。


洗ってない頭をぼりぼりとかくと、

ボーッと洗面台の前に立つ。

寒い中、顔を洗うのも億劫だ。


まぁいいか。

むしろそれでいい。

もし、日比木さんが二日酔いせずにアパートの前で

掃除していても、

いつも以上にダメな自分を見せれば

きっと少しはひきつった笑みを浮かべてくれるだろう。


僕は彼女に幻想を抱いた。

その幻想を打ち破ってくれ。

あなたも僕をあざ笑う人間のひとりだと

僕に教えてほしいんだ。


とりあえずいつものジャージを羽織ると

昨日の男が上の階の住人かどうか

調べに行くことにした。


2階に上がったのはわかるが、部屋番号まではわからない。

とりあえず201号室から回ってみることに決める。


とはいえ、引っ越しの挨拶のときにも

誰も出てきてはくれなかった。

インターフォンを鳴らしても、意味はないかもしれない。


いろいろ考えながら2階へ上がると、

それは無駄な労力だったと気づかされた。


昨日の男は、通路で眠っていた。


……死んでたりしないよな?


関東とはいえ、季節は冬。

飲んだあとだったら心臓発作とか起こるかもしれない。

現に男の顔は真っ青だ。


「あ、あの、大丈夫ですか?」


恐る恐る声をかけてみると、男は小さく震えた。


「寒ぃ……」

「そりゃそうですよ。昨日酔っぱらってましたから」

「あん? お前誰だよ」


僕ははぁ、とため息をつくと

今更ながら自己紹介をすることにした。


「103号室に引っ越してきた笹井です」

「新入りか。挨拶、遅ぇんじゃねぇの?」

「……ちゃんと初日にお邪魔したんですけど」


僕が不満げに言っても、男は意に介さない。


「あー、それじゃ飲んでたか寝てたか留守だわ」


まだ息は酒のにおいがする。

どれだけ飲んだんだ。


「静さんともしばらく顔合わせてねぇしな。

会ってたら、お前の話は聞いてるはずだから。じゃーな」


言いたいことだけ言うと、男はゆっくりと立ちあがり

201号室の鍵を開けて入って行った。


……名乗ってももらえなかったな。

201号室に、表札は入っていない。

というか、日比木さんの部屋以外の表札は基本ない。


僕は酒をあまり飲まないからわからないけど……

正直に言う。

あの男は僕よりダメ人間っぽい感じがぷんぷんする。


『静さん』と呼んでいたところを見ると、

日比木さんはこんな男にも声をかけてることがわかる。

この酒くさいおっさんにも声をかけるんなら、

顔や頭を洗わないで会ったところで、

嫌な顔しないんじゃ……。


脱力感が僕を襲う。

階段を降りるといつもと変わらず

日比木さんが表で掃除をしていた。


僕は自分の身なりを恥じた。

どうでもいいなんてやけっぱちになってたけど、

多分彼女は顔に出さないだろう。


こっそり部屋へ入ろうとしたら、

日比木さんが笑顔で会釈してきた。

こうなったら挨拶しないわけにはいかない。


「お、おはようございます……」


小さい声なのは、身なりがちゃんとしていないことも

もちろんだけど

昨日、彼女の部屋へ入った罪悪感もあったからだ。


でも、日比木さんは昨晩のことなんて何もなかったかのように

振る舞う。

いつもと変わらない、天使のような笑顔。


もしかして、何も覚えてない?


……ま、それならそれでいい。

部屋に戻ろうとしたら、肩をつかまれた。


「な、なんですか?」


日比木さんは紙を1枚渡して

にっこりとほほ笑む。


その紙に目を落とすときれいな文字で

こう書かれていた。


『昨日はありがとうございました。

よかったらうちで朝ごはん、どうですか?』


「えっ……」


答えに窮した。

だって日比木さんにはあの写真の彼がいるじゃないか。

僕なんかを朝ごはんに招くなんて、いけないことだ。

彼を裏切ることになるんじゃ……。


僕があたふたしているのにも関わらず、

日比木さんは昨日みたいに手首をぎゅっとつかむと

多少強引に101号室へと連れて行く。


こ、この人、こんなに力強かったのか!?


日比木さんは機嫌よく僕を引きずる。

なすすべもなく、彼女に部屋へと押し込められてしまった。


仕方なくサンダルを脱いで部屋へとお邪魔する。

白いレースのカーテンが、朝日を反射して室内が輝いて見える。

昨日の夜にそっと彼女をベッドへ乗せた。

そんな日比木さんは今、キッチンに立っている。


僕はただ座っているだけでそわそわしてしまう。

手伝えるようなことはないし、包丁が刻むリズムを

感じることしかできずにいる。


トントンという音が軽快に聴こえるのは

彼女のうしろ姿が楽しそうに見えるからだろうか。

それとも僕が、無意識的に何かを期待しているから?


でも、なんでこんな日に限って

顔も髪も洗ってないんだ。

最低だ。

朝食に呼ばれるような服装でもない。

いつもと同じ黄土色のジャージ。


イスの上でもぞもぞしていると、

パンの焼けるいい香りがした。


料理が並べられると、日比木さんはにっこりと笑い、

『どうぞ』と手を差し出した。


「はぁ……いただきます」


もそもそと出された目玉焼きとサラダを

口に運ぶ。

こんな風に女性に朝食を作ってもらったのは

何年振りだろう。


食べる姿をしばらく見ていた日比木さんは、

そっとメモを差し出した。


『なんだか弟が生き返ったみたい』

「……え? 弟さん?」

『ええ、2年前に死んじゃいましたけどね』


日比木さんは携帯を取り出すと、

画像フォルダを開き、僕に向ける。


「これって……!」


ベッドの部屋にあった写真。

あの爽やかな彼じゃないか。

あれ、弟だったのか……。


だけど。


「僕とは全然似てないと思いますけど」


写真の彼と僕は、格好も髪型も顔立ちも

似ていない。

それに体つきだって。

彼とは違い、僕はひょろひょろで不健康な体型だ。

共通点といったら……年齢くらいだろうか。


携帯の画像の彼は日比木さんと肩を組んでいる。

どこかのステージか?

ライトが後ろからふたりを照らしていて

きらきらと光っていた。


『弟は、ホントは人前が苦手だったんだけど

ギターがすごく上手で。

私が無理やりステージに立たせたの』


一番古い画像。日付は5年前。

その頃の彼を見て、僕は驚いた。


今の僕がいる――。


髪の毛は天然パーマでもじゃもじゃ。

服装も。

僕は量販店で買ったジャージだけど、

彼は高校のものらしく『日比木』と名前が入っていた。


「なんでステージに立たせたんですが?」


日比木さんはしばらく考えて、

紙をめくる。


『弟の才能をみんなに教えたかった』


「才能……?」


僕が繰り返すと、少し慌てて書き足す。


『もちろん、努力も込めてよ?

ただ……昔から内気だったのと、

そのせいでいじめられちゃって。

登校拒否だったの』


次々と弟さんの画像をスライドさせていく。

もじゃもじゃ頭でジャージ姿だった彼。

2枚目の写真で髪がばっさりと切られていた。

それでも弟さんはうつむいている。


きれいな指先を画面に滑らしていくうち、

服装が変わり、体型が変わる。


表情は笑顔。

それも心からのだ。


やっぱり僕とは違う。


帽子をかぶったベーシストに、

腕を振り上げるドラマー。

ボーカルは写っていないが、

バスドラム部分には『halllelujah』とシールが

貼られている。

その最後の一枚には、バンドに溶け込み

汗まみれで演奏する姿があった。


『ごめんなさい。勝手に星弥と重ねちゃって』

「いえ……でも、なんで亡くなったんですか?」

「………」


『ジュース、おかわりいる?』


日比木さんは笑顔を崩さず

僕のグラスを取った。



日比木星弥。

昨日の晩、あの人が呼んだのは弟さんの

名前だった。

そのことはわかったけど、なぜ亡くなったのかは

教えてもらえなかった。

それに、あのときだけだ。

日比木さんの声が聴けたのは。


僕が彼に似ている?

そんなのは間違いだ。

確かに最初のジャージ姿の写真は

雰囲気が一緒だったかもしれない。


しかし、彼は変われた。

きっと、日比木さんのおかげで。

彼女がステージに立たせたから。


でもなんで彼は亡くなったんだ?

日比木さんは教えてくれなかった。

『死んだ』とは言った。

それでも彼女の中にはまだ、弟さんが生き続けてる。

携帯にも、寝室にも、彼の写真があった。


『大家さんのご家族のこと』。

僕にとって、生活していくために必要な情報ではない。

なのに気にしてしまうのは、

今日に限って仕事の電話がかかってこないからだろう。


それに……。


「まだ憧れててもいいんだ」


日比木さんがいたおかげで彼が変われたなら。

今の僕を変えてはくれないだろうか。

一瞬だけ耳にした鈴のような声で、

僕の名前をささやいてくれないだろうか。


ベッドへ横たわっていたが、

むくりと起き上がり、

めったに起動しないパソコンの電源をつける。


ネットにつなぐと、僕はおぼつかないタッチで

検索サイトに『日比木星弥』と名前を打ち込む。


いくつかのサイトがヒットしたが、

トップに出てきたのがある新聞の電子版だった。


『バンドギタリスト殺害――』


「殺害……?」


画面をスクロールさせていくと、詳細が出てくる。


『12月24日晩、東京都国立市で日比木星弥さん(20)が殺害。

星弥さんは生前ライブ活動をしており、

ファンとみられる女性にライブ終了後包丁で腹部を刺された模様。

現場を星弥さんの姉が発見。救急車で搬送されたが命を落とした』


「弟さん、殺されたんだ……。

しかも、ファンに。

それを見つけたのが日比木さん……」


こんなことってない。

自分が弟さんをステージへ連れだした。

そこで彼は変われたのに、そのせいで星弥さんは殺されたんだ。


「悔しかっただろうな。

星弥さんもだけど、彼女……」


僕はさらにページの下のほうへと

視線を移動させていく。


「動画サイト……?」


迷わずにクリックすると、

あるライブハウスの映像が入っていた。


タイトルは『ハレルヤ クリスマスLIVE』。


細かいホコリがライトで見える。

しばらくすると楽器を持った男たちが出てくる。

その中のひとりが星弥くんだ。


ギターのチューニングが終わると、

拍手が巻き起こる。

いよいよボーカルの登場か。


ゆっくりと人影がマイクスタンドに近づく。


「……そんな、まさか」


星弥くんが優しい眼差しで見つめる。

そこに立ったのは、まぎれもない彼女。

日比木――静さんだった。



「ねぇ、静さん」


徹夜明け。

今日はボーッとしていない。

僕はいつもと変わらず掃除をしていた

彼女に声をかける。

気づくと笑みを浮かべる。


僕はジャージのポケットに手を入れると、

白い息を吐いた。


「静さんの歌声、聴いたんです」


その言葉に一瞬、彼女の表情が変わった。

でもすぐに笑顔を取り戻す。


『ありがとうございます』


「音大の声楽科だったんですよね。

しかも『ハレルヤ』ってバンドのボーカル……。

星弥くんがギターで、あなたが歌ってた。

なのに……なんで声を失ったんですか」


ほうきをわきに置くと、

静さんはいつも通りポケットからメモを取り出す。


ゆっくりと文字を書き連ねる。

今は笑顔ではない。

引っ越してから見たことのない、悲しげな顔だ。


『どこまでご存じなんですか』


「……弟さんが殺害されて、

現場をあなたが見たということまでです」


「………」


じっと彼女が僕を見つめる。

ああ、やっぱりそういうことなんだな。


まだこの人は傷ついているんだ。

その瞳が、雄弁に語る。


「静さん、あなたは弟さんをあんな笑顔にできたんだ。

それに僕だって……」


言いかけて下を向く。

静さんは不安な顔のままだ。


だから、もう一度顔を上げて

僕は彼女の手を握る。


「僕が取り返します。あなたの声を」


方法はわからない。

約束なんてしたって、無意味かもしれない。

だけど……僕が始めなきゃ。


『卑屈でしょうがない僕を、あなたのヒーローにさせてください』。


声に出さない告白。

伝わらない思いも、いつかは伝えて見せるから――。


静さんはこくんとうなずいて、メモ帳をしまった。

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