メビウスの輪

維七

第1話

「あら?どうして貴方がいるのかしら?」


  湯気の立つコーヒーカップを片手に彼女は僕にそう尋ねる。いつもの余裕をたっぷりと感じさせる、そしてどこか挑戦的な笑顔を見せる彼女に僕は寝癖のついた頭を掻きながら


「どうしてって僕も住んでいるから」


と答えて彼ダイニングテーブルの彼女の対面に僕は座る。彼女は唇をへの字に曲げて


「私の家よ」


といつもの笑顔を浮かべながら。


「僕たちの家だ」


 そう言うと彼女はほんの少しだけ困惑の色を滲ませる。なんとも可愛らしい。


 彼女はとても負けず嫌いだ。誰にも何にも振り回されてたくない、と言っていつもどんな時も余裕の笑みを絶やさない。だから動揺させられたり怒らせられたりするとしてやられた、と思ってしまうらしい。特に僕に対しては。


 きっと今も本当は、何を言っているの?とか一体どう言うことなの?何て言って僕を問いただしたいはずだ。


「落ち着いて聞いて欲しいんだけど…」


 そう言って僕はタブレットに写真を表示して彼女に見せる。


「僕たちは結婚したんだ。3年前に」


 流石の彼女もこれには驚きを隠せない。目を丸くして写真を見つめる。僕は続いて幾つかの写真も彼女に見せる。


「これは結婚式の別の写真、これは二人で住む部屋に引っ越した時の写真、これは新婚旅行の時のだ」


 彼女は僕の手からタブレットを取って1枚1枚写真をじっくりと見ていく。そして彼女はいつも決まってこう言う。勿論、余裕を見せるいつも笑顔も忘れずに。


「おかしいわ。私はどれも覚えていないもの」


 だからいつも僕は真剣な表情を作って切り出す。


「驚かないで、落ち着いて聞いて欲しいんだけど…」


 僕はさらに1枚の写真をタブレットに表示させて彼女に見せる。


「君は事故に遭ったんだ。とても大きな交通事故に巻き込まれたんだ」


 写真の中の彼女は病室で全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、身体には何本も管が取り付けられている。


「奇跡的に回復はしたんだ。でも、後遺症が残ってしまった。君の記憶は途中から消えてしまった。そして君の新しい記憶は1日しか持たない。眠れば今日の出来事は全て忘れてしまうんだ」


 彼女は変わらず余裕を見せる笑顔を浮かべている。でもそれはあまりの出来事に笑顔のまま固まってしまっているだけだ。


 しばらく僕は彼女の顔を見つめる。きっと乾いてしまったであろう唇を舐めて湿らせたのを見て僕は話を再開する。


「君と僕は付き合っている。それは覚えているよね?」


「そうね。貴方の熱烈なアプローチに根負けした私が付き合うことにしてあげたのよ。先週の話だわ」


 その通りだ。彼女の不思議で魅惑的な笑顔に一目惚れした僕は彼女がどれほど魅力的か、僕がどれだけ彼女を好きかを会う度に力説した。それを余裕を見せるいつもの笑顔で受け流していた彼女がある日、顔を真っ赤にしたのだ。そして


『わかった!そこまで言うなら付き合ってあげるわ!』


と彼女が折れて僕は勝利した。一つだけ違うのは…


「もう5年以上前のことなんだ」


 彼女はじっと僕の顔を見つめる。それから部屋を見渡す。朝起きた彼女が驚かないようにと当時の彼女の部屋を再現したこの部屋を。


 彼女の表情が寂しげなものに変わる。目の前の記憶より老けた僕、再現しても仕切れない部屋の違和感に気づいたのだろう。この後彼女は決まっているかのようにこう言う。


「少し一人になりたい…」


 僕は何も言わずに寝室へと向かう後ろ姿を見送って、ふぅ、と息を吐く。毎朝の日課が今日も終わったと。


 彼女はとても変わっていると思う。彼女にとっては突拍子もなく、衝撃的なことを告げられたにも関わらず取り乱すことも僕を問い詰めることもせずああやって一人受け入れようとする。


 彼女の心境、毎日想像しても少しもわからない。きっと彼女以外の誰にもわからない。


 彼女が消えた寝室の扉をしばらく見つめてから僕は自分のコーヒーを淹れるためにキッチンに立つ。マシンに紙フィルターをセットしてそこに粉を入れる。それからタンクに水を汲んで電源を入れる。


 コーヒーのドリップが終わるまで椅子に座って待つ。


(それにしても…)


 再び寝室の扉を見つめて僕は思う。自分は何て幸せ者なんだと。


 人は変わっていく。良い方へも悪い方へも。しかし彼女は僕と付き合い始めた頃のまま変わらない。それが僕には堪らなく嬉しいのだ。あの頃と変わらない彼女はあの頃の僕の激情を思い出させる。毎朝の日課の度に僕は君に惚れ直す。


 それに楽しみだってある。毎日同じ話をする僕にいつも同じ反応を返す彼女。でも全く同じと言うわけではない。毎日、ほんの少しだけ新しい一面を見せてくれる。その一瞬が何よりも愛おしい。


(そろそろかな?)


 僕がコーヒーメイカーの方を見るとピーっと完成を知らせる音が鳴る。僕はカップを持って熱々のできたてコーヒーを注ぐ。すると、キィ、と寝室の扉が開く音がする。


(今日は少し早かったかな?)


 僕は近づいてくる彼女の足音に耳を傾ける。


「ねえ、お願いがあるの」


 何かな?と訊きながら彼女の方へ視線を向ける。


「今日までどんな思い出があったか教えて欲しいの」


 僕は耳が熱くなるのを感じながら少し視線を逸らして


「勿論だよ。たくさん聴いてほしい思い出があるんだ」


と伝えると彼女も少し顔を赤らめていつもとは違う笑顔を見せてくれる。


 僕は椅子を隣まで引いてそこに彼女を呼ぶ。椅子に座った彼女は照れくさそうにしながらもう一つのお願いを口にしてくれる。


「ねえ、もう一つお願いしてもいい?」


「勿論!」


「明日からも毎日聴かせて欲しいの」


 僕は彼女を抱き寄せて何百回目かの約束をする。


 誰よりも強い彼女。明日になれば忘れてしまうとわかって僕と一緒に前に進もうとしてくれる彼女。


 この時、僕は世界一の幸せ者になれるんだ。

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