朝陽

井上 カヲル

前編

 一樹(かずき)は学校の授業で「50年ほど前のカンボジアで4人に1人が虐殺された」と教えられたことを覚えている。彼はその時なぜカンボジア人が同じ国の人々を、そんなにも多く手にかけたのか理解できなかった。教科書にはこう続けて書かれていた、「ポル・ポトを指導者とするクメール・ルージュは原始共産主義を掲げ国内の知識人やそれに疑わしい人々、外国人やスパイの容疑をかけられた人々を虐殺した。その後クメール・ル―ジュはベトナム軍の侵攻を受け、1978年に政権の座を追われた」と。


 3年後、一樹は大学2年生の夏休みに、カンボジアへ旅に出ることにした。カンボジアへ旅立つ2ヶ月前に彼に別れを告げた女の人は、見送りには来なかった。そもそも彼がカンボジアに行く事自体知らなかっただろう。彼女は一樹に直接別れ話をしなかった。別れ話は「あなたとはもう会いたくありません。私たちの関係は、あなたにとっても私にとっても、必要のないものでした」と彼が彼女からの返信を待っていた午前2時に、スマートフォンが伝えただけだった。一樹は彼女のことだから多分、考え抜いた結果なのだろうと思った。そしてその決意が覆らないことを分かっていた。

 彼には間違いなく彼女が必要だった。しかしなぜか悲しくはなかった。悲しみよりももっと渇いたものが彼の心を支配した。彼は3日間、彼は本も読まず、音楽も聴かずにいた。夜に眠らずに深夜テレビに映る砂嵐を眺めていた。そして朝日が昇る時に気絶するように眠った。

 3日目の夜、彼は女性に電話をかけた。しかし彼女は電話には出なかった。呼び出し音が延々と続いた。その時、彼は「カンボジアに行こう」と、ふと思った。理由は彼自身にも分からないながらも、しかし彼にはどうしてもカンボジアに行かなくてはならない気がしていた。それはまるでずっと昔から決められていた運命のように、確信に近い衝動だった。

 日本からカンボジアへの直行便は往復10万円ほどで、彼にはとても払えなかった。彼が現実的に飛行機でカンボジアの首都プノンペンに行くには、北京や深圳でトランジットをして、10時間かかるロングフライトしかなかった。そしてその割には、直行便と大差ない値段だった。この方法が本当に最良なのか、彼にはどうしても納得がいかなかった。彼は大学のつてを頼って、以前バックパッカーをしていたという先輩にこの問題を相談した。なにか良いアイディアを期待して。

 先輩は「いやいや、その行き方じゃ高すぎるよ。それならベトナムのホーチミンまで飛んで、陸路でプノンペンに入るのが一番安い。時間はかかるけれどね」と言った。

 幸い、一樹には時間が余るほどあった。

 一樹は先輩に相談した夜、本当にその方法で行けるのか気になり、インターネットで調べることにした。すると、全く同じ方法でカンボジアに行った人のブログを見つけた。先輩の知識はインターネットの受け売りだったのかもしれない。

 調べながら一樹は「もしかするとカンボジアに行ったことのある人は案外少ないのかもしれない。僕は本当に遠いところに行こうとしているのかもしれない」と思った。しかしそれは、彼が心のどこかで望んでいたことであり、誰も見たことのない景色、誰も行ったことのない場所、彼のことを誰も知らない人々を、ずっと待ち侘びていたのだった。


 一樹は成田から午後2時発ホーチミン行きの飛行機に乗り込んだ。

 飛行機が雲の上から空港にめがけて降下していった。分厚い雲の中の雨が飛行機の窓を叩き、雷がチカチカと光っている。真っ暗になった機内は驚くほど静かで、一樹は孤独と共に不安を覚え始めた。一樹が窓の外を見るだけでは、果たして上昇しているのか降下しているのか分からない。ただ重力だけが行く道を示していた。しばらくすると街の光が見えてきた。ちょうどスコールの時に着陸したようだ。

 彼がホーチミンに着いたのは、午後7時だった。飛行機から降りた瞬間に、湿った熱気が肌にまとわり着いた。

 入国審査に時間がかかり、空港の近くのドミトリーに着いた時には、もう9時になっていた。計画ではベトナムで一泊してからカンボジアへのバスに乗り、翌日の夕方にはカンボジアへ着く予定だった。


 ベトナムのドミトリーのシャワールームは想像以上の狭さだった。いや、正確に言えば、ユニットバスと言えばいいのか。わずか一畳ほどの大きさの中にトイレとシャワーが併設されていた。それは日本の感覚ではあまりに窮屈だった。そして、シャワーからは水しか出なかった。一樹は「これが普通なのかもしれない」と、思い込んで水圧の弱いシャワーを浴びた。

 ベッドは綺麗だった。十分の広さがあり、枕元にはコンセントもある。しかし一樹は不安だった。カンボジアはどんな所なのだろう。彼は学校の授業で先生が言っていた「カンボジアにはベトナム軍との戦争やその後の内戦に使われた地雷が多数埋まったままだ」と言う言葉を思い出した。そして時たまテレビCMで流れてくるような紛争地の、戦争によって荒廃した土地を想像した。

 不安を胸に抱きながら、彼は目を閉じた。

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朝陽 井上 カヲル @sodashi_mask

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