からんころんでカッカッカッ!

鈴ノ木 鈴ノ子

第1話


 その知らせは私が五歳になった年の秋のことだった。


 保育園からの帰り道、迎えに来てくれた母と共に行きつけのスーパーで買い物を済ませ、右手で母の手を握りながら父には内緒で買って貰うお菓子を左手に落とさぬように抱えながら駐車場階にエレベーターが着き扉が開くのをまだかまだかと焦る気持ちで母を見上げて、何気ない普段通りのやり取りをしていた。


 突然、母の携帯電話がいつもの着信メロディーではない音を奏でた。


 不安を抱かせるような甲高い金属のような電子音が連打されたのだ。

 酷く不気味なものだったのでよく覚えている。

 折り畳み式の携帯電話を開いて画面を見つめながら戸惑っていた母は鳴り続ける電話にやがて恐る恐る通話ボタンを押して耳へと当てた。


 母が自らの名前を名乗りながら短い会話を交わしていたと思う。


 そしてにこやかだった母の顔が見る見る曇っていくのが分かった。

 眉間に皺が寄ってゆき、目は潤んでゆく、そして唇をキュッと窄めるようになるまで眺めて、やがて奥歯を噛み締めた形相へと変化してゆくと、私は幼いながらに震えあがった。


 まるで別人のような母の顔がそこにあったのだ。


 会話はしばらく続き、瞬き一つせずにその場で話を続ける母の手を私はしっかりと握り続け、途中から握り返されるとその痛みで喚くことを我慢した。

痛いなどと口にしてはいけないことぐらい幼子にだってわかるほどなのだから。

通話を終えて携帯電話を閉じた母は、その場から動かなかった。いや、あれは立ち尽くしてしまっていたのだと思う。

 私はしばらく痛みに耐えて母の先ほどまで私を見てくれていたはずの目を見つめる。冷たい光を放つ真っ黒いビー玉が二つ並んでいるようで、私は恐れ戦いて息が詰まりそうになる。

 時間的にはほんの少しのことだったと思うが、意を決して私が手を揺すって母の名を何度も呼び、最後は叫びのように声を荒げると、黒いビー玉が目へ戻った。

ようやく動いた母は私に気を払うこともなく、近くの長椅子に両足の力が失せてしまったかのように腰からドスンと音を上げ、そうまるで崩れ落ちるかのようにして座り込む、手触りがよく私のお気に入りでもあった長い黒髪が項垂れたせいで表情を覆う。

 まるでカーテンを引いたように表情を隠してしまったのだ。

 握られた手には変わらない力が宿ったまま、痛みと手汗によって気持ちが悪いほどに湿っていた。


「ママ?」


 再び不安に耐えきれなくなった私は母へと声をかける。

 だが、返事は愚か髪の毛が揺れることすらない。

 怒られることを覚悟で母の髪の毛を掻き分けて覗き込んで後悔した。

 表情に背筋が震えるほどに恐怖して心と体が固まってしまう。「ママ」とふたたび呼びたかったはずなのに、その言葉を口にすることができない。


 やがて顔を上げた母は大粒の涙をぽろぽろと溢しながら悲しみに打ち震えていた。


 目の焦点は散逸していて定まっていない。眼球は黒いビー玉から、ただのくすんだガラス玉になった。それは輝きを失った瞳を見たことがあるかと尋ねられたとしたら、しっかりと頷くことができるほどであった。

 一体どれくらいの時間を見つめ合ったのだろう、握っていた手を解かれると母は私を引き寄せてからしっかりと抱きしめる。

 母は私の身を自分の胸元までしっかりと引き寄せ、息ができなくなるかと思うほどに、きつく、きつく、そう、まるで私がそこに存在していることを確かめるかのように抱きしめていたのだと思う。

 あまりの苦しさから身を捩るとその力は緩んだが、決して離されることなく、やがて、柔らかい抱擁へと変化し、母は父と喧嘩をした際に物陰で涙を溢しながら声を漏らすまいと我慢して泣いていた時のように、くぐもった声を漏らして私の右肩から右胸にしっかりとしっかりと顔を押し付け、温かさがあるはずなのに、ひどく冷たい涙をひたすらに溢していた。


「あずさ……じーじとばーばが殺されちゃった……」


 暫くしてから、母はそれだけを小声で漏らした。


「じーじ?ばーば?なに……」


 そこまでしか言葉を紡ぐことができなかった。

 子供にでも理解できるほどに母の言葉は冷たかった。

 母は抱きしめたままで泣き、それは保育園制服の肩から胸がびしょびしょになるまで続いた。幼かったがゆえに伝えられた死の意味を理解することができぬまま、私が今できることとして、小さな両手を精一杯に伸ばし母の背中を摩り続けてゆく。

私が泣くたびに優しく癒してくれたのを真似ながらに、小さな我が手で母が落ち着きを取り戻すまで必死に摩り続けた。

 母は落ち着くまで顔を上げることは無く、さめざめと泣き続けたのだった。


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