第41話 狂犬と呼ばれた男
祈るような気持ちで言ったクラウスの名前。
けれどもルーチェの目の前の男は、意に介した様子もない。
(……クラウス)
ルーチェはぎゅっと自身の手を握りしめた、その時だった。
「……クラウスだって? いやまさか。な、なあ、あんたの名前、まさかとは思うが、ルーチェとか言わないよな?」
壁際にいた一番厳つい男が、眉を寄せて尋ねてきた。ルーチェの記憶にない顔なので、知り合いではないはずだけれども。クラウスのこともある。
無視することはせず、ルーチェは素直にそうだと言った。
「私の名前はルーチェで間違いないわ」
「ひっ? えっ、まさ、まさか、まさかとは思うが、あんた、オルローブ家の次女か!?」
「……ええ、そうだけど」
こんな裏通りの住人にまで、ルーチェの悪評が広まっているのだろうか。いやでも、なんでこの目の前の男は怯えているのかわからない。
(私の名前を聞いた途端、ガタガタと震え出したわ!? そんな噂って、あったかしら!?)
男は嘘だろと頭を抱えている。他の仲間がそのただならぬ様子に困惑しつつも、どうしたのかと声をかけていた。それから、一体なんだという視線がルーチェにも向けられる。理由はルーチェも知りたかった。
「ば、馬鹿野郎!! どうして、どこの誰を攫ってくるか、確かめなかったんだ!!??」
厳つい男は、ルーチェと向かい合って立っていた男へ殴りかかる勢いで詰め寄った。
「いきなりどうした!?」
「どうしたもこうしたもあるか!? ルーチェ・オルローブには手を出すな! それが絶対の掟だったってのに、なんてこった。あいつが怖くて王都から出てきたのに、どうして、どうして……」
「お、おい、あいつって誰だ?」
「スラムの狂犬だよ! 仲間を傷付けられたら、地の果てまで追ってきて半殺しにする執念深さをもつ、とんでもねえ凶暴な奴だ。人を傷付けるのに、罪悪感なんて抱いちゃいねえ。頭がおかしい狂犬が、唯一懐いてた女だぞ、こいつは!!」
厳つい男はルーチェを指さして半泣きで叫んだ。
(そ、そんな、怖い人と、知り合いにはなってないと思うけど)
「あの狂犬が、人を殴って奪ったりもせず、日雇いの金で花を買ってプレゼントまでしたのを見て、……俺は神の奇跡だと思ったぜ。この女にちょっかいを出そうとしてた奴らは、全員ボコボコにされて全裸で川に浮かんでたがな」
ルーチェの人生で、花をもらったことなんて一度きりだけど。
「川に浮くくらいなら、まだ良い方だぞ。俺の元仲間なんざ、……思い出すのも恐ろしい」
「おいおい、話を盛ってるんじゃねえか?」
「馬鹿野郎! 俺は降りるぜ。こ、ここに、奴が来たら、俺たちはもう……」
震えて話す男の声を遮るかのように、扉の向こうでバキバキバキッと、明らかに尋常じゃない音がする。それとともに、悲鳴と殴打音も。
それを聞いていた厳つい男は、青い顔をさらに青くして、ルーチェに向かって跪き、縋り付くように謝罪した。
「ひいぃぃぃっ、俺は、俺はまだ死にたくないっ! 頼む、あんたからこれが、間違いだったって言ってくれ!!」
「ま、間違いって」
「不幸な手違いだったって。……いや、ダメだ。そんなんじゃ許してもらえるわけがねえ。ど、ど、どうしたら」
地面に頭を擦り付けながら、厳つい男が嘆いていると、ついにルーチェのいる部屋の扉が、勢いよく開いた。と同時に、外にいたであろう男の体が室内へ吹き飛んでくる。
「…………っ!」
その場にいる全員が、息を呑んで動きを止めた。
開いた扉の向こうから、高く掲げた靴底が見えた。
足がゆっくりと下されると、靴音とともに、ルーチェの見知った顔が姿を現した。
「私の妻を、どうするつもりだ?」
「クラウス!」
「ああ、ルーチェ! 無事でよかった! 少し外で待っていてくれないか。ちょっとこの汚物を片付けておくから」
いつものルーチェにだけ見せてくれる、とろけるような笑顔をクラウスは浮かべた。片手には、ボコボコに殴られて伸びている、先ほど老婆の店で見かけた店員が引き摺られていた。
「さあおいで、ルーチェ」
周囲にいる男たちは、あまりのことに動きが止まっている。今のうちに逃げてしまった方が良いのかもと、ルーチェはクラウスの方へと駆け寄った。
途中、なかったことにしてくれと懇願していた一番厳つい男が、半泣きでルーチェを見つめていたけれど。
クラウスのもとへと駆け寄ると、扉の外で待っててねと言われ、部屋から出された。部屋の外には、ノーラがいた。今回の旅行に、ルーチェの身の回りの世話をするために同行していたのだ。
ひと足さきにホテルへ向かい、部屋を整えたり雑事をこなしていたはずだけれども。
「奥様、お怪我はありませんか!?」
「大丈夫よ」
「さあこちらへ。旦那様を待ちましょう」
閉められた扉からは、殴打音と悲鳴と、それから色々なものが割れる音。
中で何が起こっているのか、想像するには容易い。
ルーチェは呆気に取られつつも、クラウスが助けに来てくれた事実に、安堵したのだった。
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