人を殺した男

維々てんき

人を殺した男

俺は、人を殺した。

それは、交差点での出来事が原因であった。


一週間前に遡る。

六時半。いつもより一時間半早い起床。師走の空はまだ明るみ始めたばかりで、部屋が蒲団から出るのに適した温度になるまでにあと二時間は必要であろう。手が届く場所に乱雑に置かれているエアコンのリモコンを握る。鮮やかな赤色から手垢で茶色っぽい紅色に変色した電源ボタンを強めに押し込み、息苦しい温風が部屋を満たすのを待つ。

いつもであれば、そのままYouTube-Shortsをぼんやりと上下して時間を無駄に流すところだが、その日の俺はどうやら活力に満ち溢れていたらしい。温度計はまだ十二度を示しているというのに、人体とほぼ同じ温度で身体を包み込んでいた蒲団を抜け出し、厚手の衣服をすべて脱ぎ捨てた。進化の過程で体毛を失った人肌は極端な低温に抵抗する術を持たず、「はいはい、防寒対策、やってますよ」と言わんばかりに剛毛であった時代の名残である鳥肌を立てる。全裸でシャワールームに飛び込み、冷水と熱湯が交互に噴射されるシャワーを浴びる。こいつはシャワー界では気狂いの部類であろう。もし俺がシャワーに生まれ変わったら、人間の裸体に性的興奮を覚えるのだろうか。裸体で飛び込んでくるのが平常だから、反対に衣服を着た人間に興奮するのだろうか。衣服を着た人間に熱湯をぶっかけるというのはシャワーにとって異常事態であるし、やはりそっちの方が興奮するのだろうか。そもそもシャワーにおける性的興奮とは……

そんなことを考えているといつの間にか泡を流し終えていて、全身からラベンダーの匂いの湯気が立ち昇っている。身体の湿りを拭っているのか、タオルに染みついた湿りを身体に付着させているのか、何度洗っても黴の匂いが取れない大きな布で身体をふき取る。こんな汚い布で身体を拭いていたら、おそらく風呂に入る意味はあまりないのであろう。あらかじめ用意していた有名スポーツブランドのジャージに袖を通す。ポリエステル生地は化学物質をよく包含し、普段は気づかない柔軟剤の匂いに気付かせてくれる。M字に後退してきた生え際を、死にそうな猫に最後の施しを与えるように撫でて乾かす。髪を乾かし終わると、底がすり減ったランニングシューズを履いて、玄関を出る。


走りに行こうと思ったのだ。


タッ、タッ、タッ、とスピードを上げる。六時間ほど横になりながら重力に甘んじていた身体が、徐々にスピーディに走ることにシフトチェンジしてゆく。ジョギングは、仕事の中で目的を与えられ、解決するだけの錆びついた日常において、唯一の自由思考時間であった。無意識に様々な思考が思い浮かび、大した答えも出ないまま消えてゆく。シャボン玉のように思考を浮かべたり消したりしながら走る。さらにスピードを上げると思考の粒は小さく、薄くなってゆき、身体が酸素を取り入れようと肺や足や頭の苦しさで警告をするようになる。ここまで到達するとジョギングは拷問というものに名前を変えてしまうため、股関節の回転をゆるやかにする。そうすることで思考の粒は艶やかさを取り戻し、再び大きく、ぷかぷかと浮かび始める。

ちょうど、両性具有のミミズはどうやって恋を始めるのだろう、という他愛もないことを考えていたとき、車通りの多い交差点で登校中の小学生が信号待ちしているのが見えた。男児三人組。反対側の歩行者信号が点滅を始め、信号が赤から青に変わる。俺がちょうど走り始めようとしたとき、男児の一人が


「人殺し~、逃げんな(笑)」


そう言った。

一瞬足が止まる。走りだしたのと同時に再度浮かび始めた思考の粒がぷちん、と音を立ててはじける。人殺し?ひとごろし?ヒトゴロシ?この俺が?ちらっと振り返る。ニタニタした男児三人組が俺のことを見て、わーっと逃げてゆく。アスファルトに描かれた真白のボーダーで立ち尽くす。人殺し?っていうのは?俺のことか?今のは?


左折車の「パ!」というクラクションで現世に戻ってくる。遠く、海王星からでも聞こえたであろう、耳をつんざくような音。人殺し。その言葉をあの男児に投げかけられてから俺の世界はたしかに止まった。もう、脳内には「人殺し」の三文字しか浮かばない。再び走りだしたが、両の足が地面に着地する衝撃と共に「人殺し」がばいん、ばいんと上下に振動するだけだった。もうダメだ。

そのまま家に戻ってきてしまった。なにかどうしようもない不安に駆られて、すっかり冷たくなった布団に潜り込む。頭皮はわずかに汗ばんでいて、二日前に洗った枕が汚されてゆく。俺は、泣いていた。初対面の小学生に人殺しと言われた衝撃からではない。もし、本当に、本当に人を殺していたとしたら?その不安からだった。例えばあなたは、今この文章を読んでいるあなたは、四日前に何をしていたかはっきり、即座に思い出すことができるだろうか。あなたが四日前、人を殺して、それでランチを食べて、午後を過ごして、寝ていたら。あるいはもっと前かもしれない。五年前に人を殺して、五年間普通に過ごして今日を迎えていたら。人を殺していないことは証明できない。年末に酔っぱらって気が付いたら家で寝ていたときも、記憶を持ち合わせていない俺ではない俺が浮浪者に喧嘩を吹っ掛けられて、ぶん殴って川に投げ飛ばしたかもしれない。電気会社の営業を断ったあと、その社員は契約が取れずにパワハラで命を絶ったかもしれない。祖母は俺がなかなか会いに来てくれないさびしさで死んだのかもしれない。考えれば考えるほど、「俺が人殺しである可能性」が増してゆく。無限の可能性へと枝分かれしてゆく。本当に人殺しなんだ。そう考えると涙が止まらなくなる。会社にはどう説明しよう。家族には何と言おう。不安がもっと大きな不安を呼んで、汗、涙、鼻水。枕がどんどんびしょびしょになる。俺は、俺は人殺しなんだ。


そこから一週間、俺は人殺しだった。駅の会社側出口に交番があるので、違う出口を利用するようになった。全部が警察からの電話のように思えて、電話に出られなくなった。ロッカーに死体が入っているんじゃないかと思って開けられなくなり、同僚にロッカーを開けてもらった。しばらく連絡を取っていない友人を俺が殺したんじゃないかと思って、片っ端から連絡した。占い師に今後を相談して「あまりよくないですね」と言われて冷汗が止まらなくなった。酒を飲んで気絶するように寝るようになった。

俺が人殺しになってから一週間が経過し、頭の中で一つ一つ俺が殺した人間の顔を思い浮かべていたときだった。あの小学生が、下校していた。俺の人殺しを、頭の中にとどめていた犯行を、見事に見破った名探偵が。もう、聞くしかなかった。教えて欲しかった。


「なあ、なあ、おじさんは、誰を殺したんだ、いつ、どうやって。」


男児は、一瞬びくりと固まったが、慣れた手つきでブザーのピンを抜いた。

大人が、集まってきた。

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