逆月麻白という女の子







 逆月麻白は何者をも凌駕する優れた頭脳を持った天才である。2歳のころには九九を理解し、5歳の時点ですでに中学相当の学習を終えていた。彼女の頭の良さは生まれついてのものであり、生まれた時点から今に至るまでのあらゆることを記憶している。


 逆月麻白は一人を好む女の子である。彼女は独りを好む女の子ではなかった。


 彼女の頭の良さは当時准教授であった麻白の父がいち早くそれに気づいた。彼女が幼いうちから高度な勉強に受けることができたのは、彼のおかげであった。しかし彼は、その知性に気づいていながら娘を普通の幼稚園に通わせることにした。


 彼の伝手があれば、幼児期から高度な教育機関あるいは優秀な家庭教師などをつけることはできた。しかし、初めから特別扱いをし、周りから離れて歩ませるのはどうなのか。麻白が自分から申し出ない限りは、年相応の経験を積ませようと、父なりの配慮だった。それはある一面で正しかった。



 彼女は年相応に友達を欲しがった。孤独に慣れるには圧倒的に時間が足りなかった。友だちという、対等な他者に言いようのない憧れを彼女は感じていた。まだ見ぬ世界に希望を持ち合わせ、その扉を開いた。



 しかし、考えてみて欲しい。どんな大人であれば、赤ちゃん相手に真剣にものが言えるだろうか? 対等に会話をする話し相手となろうか? 彼女にとって、同い年の彼らは猿も同然だった。



 初めのうちは彼女の方から歩み寄っていた。しかし、彼女の話に着いて来れる者などいるはずもなく、彼女自身もまた、彼らを理解できなかった。次第に子どもたちは彼女から遠ざかっていった。そこに悪意は一切存在しなかった。ただ、どうしようもない隔たりがそこにあっただけだった。



 彼女は思ってしまった。ああ、自分は他とは違うのだと。彼らを理解することも、彼らに理解されることもないのだと。あるいは諦めずに歩み寄ればあったかもしれない未来に、彼女は自分自身の手で蓋をしてしまった。絶望に似た何かが彼女を包んだ。



 彼女は籠るようになる。自分の殻に。クラスの隅で難しい本を開き、驚異的なスピードでそれを読破していく。知識だけが蓄えられていった。


 心は未熟なままで、独りでいながら、自分で選んでおきながら、他者との関わりへの強い憧れを捨てきれていなかった。だからこそ、それを忘れるように、目にしないように、そして何よりも自分自身を守るために、彼女は勉強を続けた。



 彼女が友だちを作ることなど叶うはずがなかった。彼女の考える彼女と対等な相手などどこにも存在しないのだから。いつしか彼女は自分よりも愚かなものを下に見るようになった。彼女はますます独りになっていった。



 もはや彼女に幼稚園に行く必要はなかったが、それでも彼女はそこにいた。彼女はどこまでも賢かった。自分の父親がどうして自分を幼稚園に入れてくれたかを悟ってしまうほどに。ゆえに彼女はそこにいた。




 いつものように独りで本を読んでいたある日、何を読んでいるの? と麻白に話しかけてくるものがいた。先日、園に転入してきた女の子、真宵あかねだった。


 彼女のことを麻白はよく知っていた。瞬く間にクラスの中心に入っていき、すでに多くの友達に囲まれていた。目を向けないようにしても入ってきた、無視しようとしてもできなかった。無意識の憧れを、麻白は封じ込めきれなかった。


 あかねが話しかけてきたことで、少しの動揺が麻白に生まれた。久しぶりにする家族以外との会話だった。緊張しながら話し始めると、彼女はにこにこと笑いながらそれを聞いてくれた。



 初めての反応であった。いつもであれば、つまらないだとか言われ、すぐにどっか行かれてしまうというのに。麻白は初めて理解者を得たと思った。彼女は自分と対等の存在なのだと、友だちになり得る存在なのだと。高揚した麻白はどんどん話を進めたが、それでも彼女は笑顔を崩さず、うんうんと頷いてくれた。





 彼女は無理に麻白を遊びへ誘おうとはしなかった。一度麻白がきっぱり断れば、二度と誘ってくることはなかったが、何日かおきに麻白のもとへ話を聞きに来た。本当は、毎日来てほしいと思ったが、それは贅沢と言うもの。自分の話を笑顔で聞いてくれる。それだけで良かったのだ。彼女が来ない日は、彼女と話す話題を作ろうと、また本を読んでいた。



 ある日、麻白は自分が一方的に話していることに気付いた。ようやく、対等な相手を見つけたせいで、気が急いていた。麻白は反省しつつ、あかねの言葉を聞こうと思った。何を話しても笑顔で聞いてくれる彼女ならば、きっと自分でも思いつかないような、それでいて素晴らしい答えが返ってくるはずだと。


 しかし、返ってきた答えは残酷なものだった。えーっとね、分かんない。彼女のその一言で今までの全てが壊れた気がした。彼女も、彼らと何も変わらなかった。期待してしまっただけに、深い絶望が麻白を襲った。



 じゃあ、どうして今まで笑って聞いてたの! と大声を上げて、麻白はあかねに食い掛った。麻白は人生で初めて、人に怒鳴った。ここまで感情を発露させたのも初めてだった。手にしたと思っていたのはただの幻想で、結局自分は独りだった。その嘆きが人生初の怒りに変わった。



 だけど、怒りを向けられた彼女は冷静だった。あかねはいつもと変わらない笑顔で言い放った。



 シロちゃんが嬉しそうにしてたから



 麻白は言葉を失った。



 だから、シロちゃん、いつもみたいに教えてよ。私もねえ、なんとなく分かってきた気がするんだ



 そう前置いて彼女が話した推測は全くの見当はずれで、何も分かっていなかった。それでも彼女は麻白のそばにいた。何も、何も分かっていないのに、自分よりもはるかに愚かで、どうしようもないはずなのに。


 大丈夫? どこか痛いの?


 気付けば涙を流していた。言葉を話せるようになってから初めての涙だった。思えば、麻白の周りには2種類の存在しかいなかった。麻白の頭の良さを気味悪がるもの、あるいはそれを称えるもの。才能という強すぎる輝きは、麻白という女の子を覆いつくしていた。


 それでも、彼女は真っすぐに麻白を見ていた。眩しがることなく、ただ真っすぐと。それは無知ゆえにできた愚行なのかもしれない。それでも、麻白という小さな女の子を照らすには十分な光だった。



 彼女以外は麻白の才能を見た。彼女だけは麻白を見た。麻白の心はそこで決まった。一生、彼女のそばにいようと。あかねの考えていることは分からない。ならば、分かろうとすればいい。麻白は生まれて初めて自分の脳に感謝した。



 これから、自分と対等に話のできる人間は現れるだろう。それでも、彼女には敵わない。話が分からなくとも、そばにいてくれた。自分のために、そうしてくれたことが、何よりも嬉しかった。




 その内に、才色ハルという邪魔者が現れ、あまつさえそいつと仲良くしろと言われたのは参ったが、あかねの言うことなら、と渋々従った。そうすれば、またあかねは笑顔を見せてくれるから。




 あかねの方から、結婚しようと言われたのは驚きだったが、嫌ではなかった。むしろあかねが自分との未来を考えてくれていることがたまらなく幸せに思えた。



 麻白は更に勉強を重ねた。あかねが困ったときに助けてあげられるように。あかねに分かってもらえるように。そして、今度はあかねを分かってあげられるように。



 飛び級しようと思えばいくらでもできた。海外の大学へ行けば、早いうちから研究を始めたり、さらに高度な学問に打ち込むことはできた。しかし、だからなんだと言うのだ。麻白にとって何より大事なことは、真宵あかねのそばにいることなのだから。




 彼女の名前は逆月麻白。何者をも凌駕する優れた頭脳を持った天才である。そして、真宵あかねを心から愛する女の子である。





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