「私」が推しの為に頑張る「物語」

黒井蜜柑

序幕 語り部の言葉


誰しも一度は、社会から逃げ出したい、消えたいとは思ったことはないだろうか。明日、仕事に行くために、起きるのは辛い。けど、やめる勇気もない。そのような、鬱々とした気持ちを抱いたことはないだろうか。


もしくは、別に辛くはないけど、夢のような、不思議な世界に行ってみたい。何処かの『主人公』のように、超常的な能力が使えたら、いろんな人に愛されたなら。そのような、淡い期待を抱いたことはないだろうか。


そういった、滑稽無稽な思いを抱いたことはないだろうか。誰かが聞けば、笑ってしまいそうな、現実を見ろ、と冷たい言葉を浴びせられそうな、そんな思いだ。いや、なにも恥ずべきことではない。人間として、夢を見る、現実から目を背けるというのは、当たり前の権利であり、熾烈化する生き残り戦争のような社会情勢では当たり前のことだろう。そのような思いは、どんなことがあろうとも、どういった結果になろうとも、どういう行動を取ろうとも、抗おうとした成果だ。いわば、努力した証なのだ。私はそれを尊重しようとも。


だから、堂々としているといい。座り給え、少し、話そうではないか。



──2055年、人々は異次元へと渡航する技術を開発した。その科学技術は、『空想世界』と呼ばれる、異次元の向こう側の世界への渡航することができる、という誰もが、一度は夢見た産物であった。その技術は、あっという間に話題となり、多くの国で研究、実用化されたが、それをいち早く、思わぬ形で導入したのは、開発国たる、『日本』であった。


『空想世界』とは何か。『空想』、所謂、『実在しない』世界。だが、こちらから、『観測できる』世界のことを指す。『世界』と呼ぶには、あまりにもかけ離れていて、だが、宇宙の星々のように『観測』することができる。つまるところ、フィクションの中の世界に自由に行けることができるということだ。漫画大国とも呼ぶべき日本は、それを、娯楽として制度化した。


『異世界転移』というのは、そのジャンル名が定着する以前よりも、古い神話の時代から始まり、多くの作品が取り扱ってきた話題である。誰しもが一度は焦がれる物語体系だ。とりわけ、近年では、そのジャンルは、多くの若者たち、いや、青年期を過ぎ、中年期に差し掛かった者たちまでも、自身の理想や夢を抱き、熱を上げているものだ。


そう、それは、もう。社会が破綻してしまうほどに。年々と過酷化する社会の荒波は、そんな幻想を膨らませ、乗り越えられなかった者たちに影を落とした。そうして、人々は、現実から背を背け、幻想へと身を落とした。その上、もしかして、を抱いて、その一生を終わらせた者たちを増やした。


日本では特に、その影響が色濃く出た。変わりゆく世界に変容できず、だが、変容を強いられた日本は歪みに歪んだ。結果、人々の心は荒む一方だった。


それでは、前途ある者たちを、将来を壊してしまう。ならば、せめて、生涯ではなく、一度くらいは、そういう 機会、つまるところ、現実逃避の時間を与えてみればよいのではないだろうか?と、苦肉の策を考えたのだ。


こうして、荒廃する現実に耐えきれない者たちを手助けしようと、その制度は制定され、またたく間に話題となった。この制度を受けたいがために、世界から日本へと来る者たちですらいる。今では、最初の救済というよりは、エンターテイメントの一つだ。観測できる世界は多くなり、それでいて、枝分かれするその世界の道筋も多くなっていた。


それが、異世界留学制度、通称、『トリップ制度』である。ぶっちゃけて言うのであれば、国絡みで現実逃避をさせてやろう、ということである。おかげか、日本は経済的に潤い、世界でも有数な経済大国へと返り咲いた。現実逃避のおかげか、自殺者数も少しずつ減少しているという。もちろん、弊害もあるが、少ないものだと、政治家は笑う。


制度施行から、早、五年。空想世界に足を踏み入れるのは、年に五万人を優に超えている。辛い現実から目を閉じ、優しい夢の中で微睡む。それが、この、歪な世界で呼吸する為の、人間が選んだ選択であった。


それが、良いか、悪か、もう、「人間」には決めきれない。だが、それで社会は現に、回っている。娯楽は、お金を生む。『空想世界』で生み出されたものは、『現実』にも利益をもたらすからだ。


さて、前置きはここまでとして置いておこう。ここからは、彼女の話。そして、君たちの話だ。


──楽しんできたまえ、思う存分に、現実から逃げて、憧れの世界で。この旅が、君たちの、良き人生の礎になれることを、私は切に願っている。

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