星の行く先

うりぼう

星の行く先

両親を失い、二人で生きてきた兄妹。ある時妹ありさは、自分はもうすぐ殺されると言い始める。兄風音(かざね)は妹の予言通り妹の死体を発見するが、何者かに殴られ気絶してしまう。次に気がついた時、妹の死体は消えており……



「あたし、多分もうすぐ殺されるんだと思う」

 薄暗い部屋で妹のありさはそう言った。風音は笑おうとして、上手く出来ない自分に気付いた。

「だから、あたしが死んでもお兄ちゃんは元気でね」

 ありさはそう言って笑った。どこか痛々しい笑いだった。

「運命は変えられないんだから。仕方ないよね」

 それは両親が死んでからありさが良く言うようになった言葉だった。

 ありさは言葉をそれきりを切って膝を抱えて、後は何も言わなかった。

 風音はなにか慰めとか励ましを言った気がする。混乱していて良く覚えていない。

 妹の部屋を出た時には動悸が酷く激しかった。


 妹が死ぬはずない。

 両親が死んだのはただの偶然だ。

 妹の言葉のせいじゃない。

 

 なのに。


 次の日大学から帰ると庭で妹が倒れていた。仰向けの腹部からナイフの柄が生えていて、大量に流れ出した血が土に染み込んでいた。真冬なのに薄い部屋着のままで、靴も履いていなかった。

 妹は目をうつろに開いたまま身じろぎもせず、完全に死んでいた。


 風音は側に跪いたまま名前も呼べずに呆然としていた。


 死んでしまった。

 また、死んでしまった。

 僕のせいだ。

 僕が、信じなかったから。


 その時頸の後ろにガツリと鈍い衝撃が走って目の前が真っ暗になった。


  *


 両親が死ぬ日の朝、揃って出かけようとする両親を、ありさは泣いて止めた。死んじゃうから行かないで、と玄関で泣きわめいた。

 死ぬはずがないから、と妹を宥めて両親を送り出したのは当時高校生だった自分だった。妹は昔から勘の良いところがあったが、まさか本当に死ぬとは思わなかった。


 それから、妹はあまり口を利かなくなった。部屋に閉じこもりがちになり学校にも行かなくなった。

 行き場のなくなった風音たち兄妹は叔母の家に引き取られた。

 叔母の家は田舎の僻地にあり、叔母達はどこかよそよそしく冷たかった。


 *


 ふと、風音は闇の中で目を開いた。

 頭がずきずきする。どうやら自分はベッドの上に寝ているようだ。身体を起こすとずきんとまた頭が痛んだ。

 暗がりの中で手探りで灯りを点けた。自分の部屋だ。蛍光灯の青白い光が目にしみた。

 自分が何か酷く大切なことを忘れているような気がしてふらふらと部屋を出た。

 居間の方からぼそぼそと叔母と叔父の話す声がして、痛みで何も考えられないままそちらに向かった。

「あら、風音くん」

 風音が居間に入ると叔母は驚いたような顔でこちらを見た。叔父はいつものように新聞を読んでいる。

「急に庭で倒れてたから心配したのよ。もう大丈夫なの?」

 叔母の様子は何かがおかしかった。いつになくなれなれしく、いつも以上によそよそしい。

 庭で倒れていた?

 風音は記憶を辿って、ようやくその事に思い至った。頭が酷く痛い。

「あ、ありさは。妹はどうなったんですか?」

 叔父と叔母は顔を見合わせた。

「その事なんだけどねぇ、居ないのよ」

「居ないって」

「昼間どこかに出て行ったっきり、帰って来てないみたい。風音くん知らない?」

 風音は混乱した。妹は確かに庭で死んでいた筈だ。自分が庭で倒れていたと言うなら、妹も発見されていなければならない。

「……妹は……見つかってないんですか……?」

 呆然と呟く風音に叔母は変ににこにことして頷いた。

「早く帰って来るといいんだけどねぇ」

 風音は弾かれるように居間から飛び出すと玄関から庭に走り出た。急に走ったせいか頭が割れそうに痛んだ。

 妹は、居なくなっていた。

 倒れて居た場所の土に血のしみもなかった。

 妹が消えた。

 自分が、おかしいのだろうか。

 この、酷い頭痛のせいでおかしくなっているのだろうか。

 しかし、もし自分がおかしいのだとして、妹はどこに言ったのだろうか。


 ずきり。頭が割れるような頭痛がして風音は再び目の前が暗くなるのを感じた。


 *


 夢を見た。

「ごめんねお兄ちゃん」

 ありさがいた。空は満点の青い星空だった。その下で妹が、仰向けに寝ている自分の横に跪いていた。妹は悲しそうな顔をしていた。

「これは、置いていかなきゃいけないんだって」

 ありさの小さな柔らかい手が風音の視界を塞ぐように目の上に置かれた。

「ごめんね」

 

 ありさ。

 呼んだつもりなのに声にならなかった。

 ありさの手からなにか仄暖かいものが頭に流れ込んで来た。


 刹那。

 ぐるりと世界が変わった。

 暗闇が見えた。さっきありさが居た清浄な闇ではなくどこか汚れて荒れていた。その闇の中ぼんやりとドアのノブが映った。自分はそれを引いた。扉は開いたが自分はなかなか出て行こうとしなかった。荒い呼吸が聞こえた。やがて自分はひっそりと足音を殺して階段を降りると、階下の部屋の前で立ち止まった。

 殺してやる。こいつを殺してやる。

 そこで気付いた。夢の中の自分は自分ではなかった。

 こいつは……誰だ?

 その途端部屋の中でどたり、と音がしてそいつは飛び上がるように二階へと逃げ戻った。

 

 *


 瞬間、視界が白んで身体の感覚が戻ってきた。

「……ったぁ……」

 床に横たわったまま上を見上げて、ベッドから落ちたのだと分かった。

 また頭がずきずきと傷んだ。

「……なんなんだよ……」

 部屋はまだ真っ暗だった。目元に手をやって、夢の中の妹の柔らかい手を思い出した。

 ごめんねってなんだろう。

 置いていかなきゃってなんなんだろう。

 妹は、どこに行ってしまったのだろう。

 風音は、両手で顔を覆って声も立てずに、泣いた。


 *


 それからの日々は地獄だった。

 風音は間断のない頭痛に悩まされ床に伏せ、夜になると自分になった誰かが自分を殺しに来る夢ばかり見た。

 叔母達は仮面を被ったように不自然に陽気に振る舞い、部屋に閉じこもった風音の部屋の前に盆に載った食事を届け続けた。

 食事に手をつける気にはならなかったがどうにも喉が渇いてある日の夜半過ぎにこっそりと部屋を出た。この時間なら誰も居まいと思ったからだが、部屋を出るなり二階から物音が聞こえて思わず部屋の中に姿を隠した。今は誰とも顔を合わせたくなかった。

 二階から降りて来た叔母が盆を持って台所の方へ行くのが扉の隙間から見えた。


 いつもの風習だ。

 風音は忌々しく思った。

 この家の二階の突き当たりには神棚があるらしく、そこに三食、盆に載せた食事を捧げに行くのがこの家の習わしだった。食事は家人がとるものと同じものだ。

 田舎の風習って良くわからないよね、といつだったかありさが顔を顰めて言った事がある。簡単な菓子ならともかく三食生者と同じものだ。一体何が祀られているのか。

 ひそひそとそんなことを話しあったこともあった。


 ありさ。  

 どこに行ってしまったのか。生きているのか、死んでいるのか。

 風音の部屋の前に捧げられた食事の盆は、神棚に供えられた盆と同じ盆に見えた。

 自分こそ、生きているのか死んでいるのか分からない。

 そんなことを思うと酷く無気力になってしまった。


 *


 そのメールは突然届いた。

「何か困ったことになってないか?もしそうなら一日の夜迎えに行くから来るなら荷物纏めて待ってろ。庭でクラクションを三回鳴らしたら家から出てこい 夏生」

 一瞬変種のスパムかと思ったのだが、夏生という名前に覚えがあった。

 幼い頃、盆や正月になると決まって母親の実家に家族で帰っていたのだが、大人ばかりの中で退屈している風音たち兄妹といつも遊んでくれた、年の離れた従兄弟の名前が夏生だった。

「夏生兄ちゃん……?」

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、風音の脳裏に次々に子供の頃の思い出が蘇った。

 田舎での盆休み。歳の離れた従兄弟と一緒に行った川遊び。日差しにきらめく水面と青々とした木々。夜、古い家をこっそり抜け出して近くのお墓に肝試しに行ったこと。

 夏生兄ちゃん。

 みるみるうちに胸がいっぱいになった。あの頃は両親が、ありさがいた。自分はまだ子供で何も知らず幸福だった。

 またメールの名前に目を落とす。夏生。そこにはそう書いてある。

 しかしあり得ないことだった。その歳の離れた従兄弟とは子供の頃、まだ祖母が健在だった頃に会ったきりであり、大人になってからは一切連絡をとっていなかった。もちろんこのメールアドレスも知らない筈だ。

 たまたまスパムがそんな名前だっただけなのだろう。風音はまた酷く憂鬱な気分になってベッドに入って頭から布団を被った。

 一日の夜に迎えに行く。

 その文言だけが頭に残った。その日は十一月三十日だった。


 *


 その日の夜、また夢を見た。夢の中で自分はナイフを構えた殺人鬼になって「自分を探していた」。その夢は二階から降りて行く所から始まって、自分の部屋の前で終わる。

 酷い頭痛と共に目を覚ました。風音は夢の中の殺人鬼がまだナイフを構えて自分の部屋の前にいるような気がして恐ろしくて堪らなかった。

 布団の中で長いこと頭痛を堪えながらじっとしていた。

『あたし多分もうすぐ殺されるんだと思う』

 ありさの声が脳裏に蘇る。お兄ちゃんもそんな気がするよ。風音は胸の中の妹にそう呼びかけた。

 ここにいたら殺される。

 ここ暫く毎夜同じ夢を見るせいで風音の予感は確信に変わっていたが、ここを出ていく気力も金もなかった。両親が残してくれた僅かな貯金は生活費と学費で殆ど残っていない。この体調では働く事もままならない。

 八方塞がりだった。

 ドアの前にはしばらく凶悪な気配が居座っていたが、夜明けが近づくと去っていった。夜通し気を張って疲れ切った風音は気絶するように眠った。


 *


 一日の日、風音は部屋に引きこもって過ごした。

 叔母達は一日三食、きちんと盆に載せた食事を部屋の前に置いて行くが、声は一言もかけて来なかった。そういえば居間で夫婦が会話をする声も最近では聞こえない。

 自分のせいだろうかとぼんやりと思うがどうでも良かった。

 風音は叔母達と顔を合わせないように気をつけながら、トイレと、台所に水を飲みに行く以外は部屋から出なかった。

 なぜだか叔母達が怖かった。たまに顔を合わせてしまったときの能面のような笑顔が、まるで別人になってしまったように風音には感じるのだった。

 夜になるとまたあの夢を見る。それが分かっていても弱っている身体はいつも九時には眠ってしまう。どろどろとした睡魔と戦いながらもメールの一文が頭にこびりついていた。


 一日の夜に迎えにいく。


 最後に頭をよぎったのは幼い頃遊んだ従兄弟の夏生の面差しだった。風音よりずっと背が高く精悍な顔立ちでよく笑い、よく風音たち兄妹の面倒を見てくれた。風音は夏生が好きだった。


 夏生兄ちゃん。

 風音は幼い頃の思い出を胸に浮かべながら眠りに落ちた。


 また、夢を見た。

 夢の中の自分はナイフを構えて息を殺して二階の階段を降りてくる。ああ、またこの夢だ、と思った刹那、


 パ、パ、パ――――


 突如家の外から響いた非常識な音量に夢の中の自分は飛び上がるように降りてきた階段を駆け上がって行った。そこで夢の風景が途切れて、

 目が覚めた。ベッドの上でのろのろと身を起こす。音は続いていた。


 パ、パ、パ――――


 クラクションを三回鳴らしたら。


 風音の胸にメールの文面が蘇る。


 パ、パ、パ――――


 迎えに行くから家から出てこい。


 夏生兄ちゃん。


 風音は頭痛も忘れてベッドを飛び出すと玄関に向かって駆けた。玄関に風音の靴はなかった。探そうとした時後ろの、玄関に通じる廊下に面した部屋の戸ががらりと開く音がした。叔母の部屋だった。

 風音は思わず裸足で庭に走り出た。庭には派手な白い車が停まっていた。風音は一瞬怯んだ。そろそろと車に近づくと助手席のドアが開いた。

 もうどうにでもなれ。ここにいるよりはましだ。

 そう思いながら助手席に身を押し込んだ。

「よお風音だな?久しぶり」

 なんでもないような口調で言った運転席の男はサングラスをしていた。黒のトレンチコートを着て長い手足を窮屈そうに運転席に収めている。

「夏生兄ちゃん……?」

 呼びかけると男の口元がにやりと笑った。

「お、出てきたぞ」

 やけに陽気な口調が指した玄関前を見ると、小太りな影が走り出して来るところだった。叔母だ。

「逃げるぞ。捕まってろ」

 言うなり男は車を勢いよくバックさせた。途端視界が回転して風音は車のなかでもみくちゃになった。ようやく前を向いたときは車は家を出て街の方へ向かう道を走っていた。それでさっきのは車をターンさせたのだと分かった。

 なんて荒っぽい。しかしそのお陰で助かったのも確かだ。

 後ろを見ると、庭から道に出てきた叔母と叔父の姿が影になってじっとこちらを見ていた。


 *


 家のある田舎の集落を出て周囲を田畑と森に囲まれた狭く長い道に入ると、後ろから車が追って来ないことを確かめて男は少し速度を落とした。冴え冴えとした冬の夜を白い車が渡って行く。


 その中の助手席で風音は身体を縮こめて男の方を見ていた。せめてサングラスがなければ分かるのかも知れないが、目の前の男が夏生だという確信が持てない。

 男はそんな風音をみて、なんだか可笑しそうに少し笑った。

「身一つで出てきたのか」

 風音はこっくりと頷いた。

「大変だったな。うちまでちょっとかかるからよ、寝とけ」

 この状況で寝とけと言われて眠れるものではない。

 尋ねたいことは山ほどあったがありすぎて何を言ったら良いのか分からない。おまけに風音は酷く疲れていた。何か言わなければ、言わなければと思いながら車に揺られるうちに眠気が襲って来た。この状況で眠るわけには、と思ったところまでは覚えている。


 *


「おい、着いたぞ。起きな」

 優しい手で揺り起こされて、気付けば後部座席で眠り込んでいた。そういえば途中コンビニのような所で助手席から後部座席に移ったような気がする。寝ぼけていてよく覚えていない。

 顔を上げた時には男はもう前の方に顔を向けていて、運転席から外に出る所だった。その肩幅の広い、細長い身体はすぐ後部座席側に回って音もなく後部座席のドアが開いた。

「着きましたよ、お坊ちゃん」

 ひょいと覗いた浅黒い顔はサングラスを外していた。ぱっちりとした二重の目と彫りの深い顔立ちに、確かに面影があった。

「夏生……にいちゃん?」

 呼びかけると面影のある顔は人なつっこい顔でにやりと笑った。

「俺だよ。風音。不思議か?」

「ふしぎ……ふしぎだよ」

 夏生だ。確かに、兄ちゃんだ。

「なんでこんなとこにいるの」

 まるで知らない、薄暗い街で迷子になった時に急に知った顔を見つけたような。知らぬ間に子供のような口調になっていた。

「まぁこっちも色々あってな。取りあえずうち上がれや。お前ひでぇ顔してんぞ」

 そういうと助手席から降りる所にスリッパを並べて置いてくれた。

「コンビニでサンダルでもと思ったんだけど、この寒さだからな。スリッパしかなかった。ないより良いだろ」

 そう言えば素足で出てきたのだった。あの家に居るのに比べたら素足で歩くくらいなんともないが、スリッパを用意してくれた心遣いが嬉しかった。

 スリッパを履くと、風音に合わせてゆっくり歩いてくれる夏生の後に着いて歩いた。

「あれだよ。ちょっとぼろいけど、中は綺麗だから」

 駐車場から道を挟んだ所にその建物はあった。

 五階建ての白い瀟洒なマンションで、とてもぼろいとは思えなかった。木造の平屋で育った風音には少し気後れするほどだ。

 エレベーターで上に上がりながらふと思い出した。


 夏生の母ちゃんは良い玉の輿にのったねぇ。

 風音や夏生の一族はみな田舎の出身で裕福ではなかったが、盆や正月で親族が集まると決まって夏生にそう言う親族の女性がいた。その人がどういう繋がりの人なのかもう忘れたがそれを言われた時の夏生のむっとしたような顔と、夏生の母親の困ったような笑い顔を思い出す。その時は意味が分からなかったが、今になってその意味が分かったような気がした。

 夏生の家は金持ちで、要は親類からやっかまれていたのだ。

  

 マンションの部屋は綺麗で広々としていた。もちろん部屋の広さでは田舎の叔母の家の方が広いのだが清潔感と、なんというか明るさが違うのだ。

「ここ座ってな。今、風呂沸かして飯作ってやるから」

 なんだか高そうなソファに座らされて、風音は急に自分が恥ずかしくなった。思えばもう何日も風呂に入っていない。

「すい、ません……なんか」

 またソファの上に縮こまってしまった風音を見て、夏生はなんだか顔を顰めて笑った。

「まぁ、そう縮こまるな。とりあえず腹は?減ってるな?うどんくらいなら食えそうか?」

 言われてこくこくと頷いた。正直自分でも食欲があるのかないのか分からないがうどんなら食べられるだろう。

 風音が座らされた場所はダイニングのような場所で、うどんを作っている夏生の背中がすぐ見えた。手際よく鍋を沸かして具を刻んで行く。

 その背中に、ふと亡くした母親の背中が重なった。風音が体調を崩すと、母親がいつも作ってくれたのがうどんだった。母親が亡くなってからは、ありさが作ってくれた。

 ありさ。

 目を閉じて思い出す。元気だった頃を思い出したいのに、いつも思い出すのはあの夢だ。

『ごめんねお兄ちゃん』

『これは、置いていかなきゃいけないんだって』

 置いて行く?置いて行くって何を。行くって、どこに――

「おい寝ちまったか?」

 室内履きのスリッパの先を突かれて風音は自分がついうとうととしていたことに気付いた。

「よっぽど疲れてんなぁ……明日医者行くか。眠いんなら布団敷くけど、食ってからの方がいいぞ」

 顔色を覗き込むように言った夏生に風音は首を振った。

「だい……だいじょうぶです。たべます」

 小さい頃は肩を組んで笑った従兄弟相手に敬語になってしまう自分がなんだか悲しかった。自分の中で人を信じる心が死んでしまったのを今更知ったような気がした。

 夏生はそんな風音を見て何か複雑そうな顔をしたが、やおらまたにっと人なつこい笑顔を浮かべると、台所から風音の前にうどんの入った器を持って来た。湯気とともに良い匂いがして風音は思わず覗き込んだ。

 溶き卵の入った卵とじうどんだった。

「ま、無理せずに、食えるだけ食え。足りなかったら言えよ」

 こくんと頷いて、箸を取った口の中で頂きますを行って食べ始める。

 母の味がした。

 思わず驚いて夏生の顔を見る。夏生は表情で察したようだった。

「母ちゃんの味だろ」

 風音は頷いた。夏生はソファの肘掛けに腰をかけて続けた。

「小さい頃にな、お前の母ちゃんに教えて貰ったんだよ。俺が正月に本家の実家でおせち飽きたーっていったらさ、おうどんなら煮てあげるけど、って。それが俺好きでさ、作り方教えて貰って家でも作って同じ味出せるようになったんだぜ」

 そんな事があったのか。

 風音は無言でもう一口啜った。甘辛い味がする。実家の味だ。

 田舎の叔母の味は、正直甘すぎて好みではなかった。三度三度作って貰えるだけ有り難いとわかってはいたけれどよそよそしさは拭えなかった。言わばここは自分の住処ではないと食事の度に思い知らされるようだった。

 気付けばうどんを食べながら風音はぼろぼろと泣いていた。泣きながらうどんを食べた。うどんは温かく、食べ終わると身体がぽかぽかとした。そうすると風呂に入っていない身体の汚れが気になった。丁度その頃、風呂の湯が溜まった。好きに使っていいぞという夏生の声に、風音は甘えた。

「お前の着替えがなぁ、どうにもねぇんだよ。用意しとけば良かったなー」

 従兄弟が首を振り振り大きすぎる長袖のTシャツとハーフパンツを貸してくれた。どちらもだぼだぼだったが眠るには楽だった。なにより来る時に着てきた服にはもう着替えたくなかった。

 さっぱりとした気分で、満腹のお腹を抱えて、暖かな部屋で清潔な寝具に包まれて風音は眠りについた。なんだか久々に幸せな気分だった。こんなに幸せな気持ちで眠れるのなら、もう明日など来なくても良いと思う程に。頭痛は、知らぬ間に去っていた。悪夢もここまでは追ってはこないようだった。


 *


 たっぷりと寝て、覚めると世界は昼になっていた。

 頭はすっきりとして、体調の不良もなかった。ふわふわの布団を抜け出て暗くしてある寝室を出ると昼の光が一杯に差し込んでいるリビングに出た。リビングには広いローテーブルの下に清潔なラグが敷いてあり、大きなテレビや調度品が壁に飾られてあった。

 まるでテレビで見る部屋みたいだ。

 だぼだぼのTシャツを着たままそんなことを思っていると、ぐうとお腹が鳴った。

 お腹減ったな。

 まだ寝起きのぼやぼやの頭でそんなことを考えるとダイニングの方に向かった。

 昨日うどんを食べたダイニングテーブルの上に、ハムエッグとサラダの載った皿と、ご飯の入ったお椀がラップして置いてあった。そこには置き手紙が置いてあって、

『ご飯はチンして、おかずはそのまま食べて。お前の着替え買ってくるから」

 手紙を読んで、夏生が居ない訳が分かった。しかし着替えを買ってくる、とは。自分は暫くここにいてもいいのだろうか。考えかけて、心に固いゴムのようなものがぶつかった。

 今は考えたくない。これ以上は何も。

 ここは安全だ。それ以上はなにも知りたくない。

 風音はぼんやりとした頭のまま、目についた電子レンジでご飯を温めると朝食をとった。食卓にあった醤油を半熟の卵にたっぷりとかけてご飯に載せて丼にした。しつけに厳しい叔母の家では消して許されない事だった。出来上がった目玉焼き丼をみて風音は一人微笑んだ。今は自由だ。他に何も考えたくなかった。


 *


 束の間の自由が壊れたのは夏生が帰って来た時だった。

 夏生の顔を見た瞬間に思い出した。

 両親が死んだ事、ありさも恐らくは死んでしまったこと、叔母の家から逃げたこと、夢の中の殺人鬼が恐らく今も自分を探していること。

「大丈夫、大丈夫だから」

 我に返ったようにソファの上で身を縮こめて泣く風音の身体を抱いて夏生は言った。

「大丈夫。俺がちゃんと面倒みてやるから心配すんな。俺がちゃんと守ってやるから」

 ――俺はずっとお前の味方だから。


 *


「なんでここまでしてくれるの?」

 やがて泣き疲れた風音はぽかんと夏生に尋ねた。

「え、なんでって」

 夏生は少し考えるような顔をした。

「従兄弟だろ?俺ら。それよりお前なんで電話でねえんだよ」

 少し怒ったように夏生は言いながら風音の鼻先をつまんだ。

「え」

 その手を払いながら、風音は少し困った。

「知らない番号からの着信は基本出ない……から……」

 そう言えば最近妙に覚えのない着信が多かった気がする。体調が悪かったせいもあって気に留めていなかった。

「まったく、メールは見て貰えて助かった」

「ごめん……」

 それより、やはり気になる。従兄弟と行っても子供の頃会ったきりだ。そんな仲でここまでしてくれるだろうか。

 そう風音が夏生に問うと、夏生は少し遠い目をした。

「まだ言ってなかったかな」

 思い出すように言う。

「俺前にありさに助けられた事あるんだよ」

 風音は首を傾げた。そんなことあっただろうか。

「友達と旅行に行く前の晩にいきなりお前んちから電話掛かってきてさ、夏生くん明日どこか行く予定ある?って聞かれて。旅行行きますっていったら、ありさが夏生くんが死んじゃうから絶対行っちゃ駄目って言ってるって。びっくりするよな。」

 旅行の事は家族にしか言ってなかったのに。そう言って夏生は顎をさすった。

「それで……行くのやめたの?」

 風音が聞くと夏生は頷いた。

「やめた。ありさは勘が鋭いところがあったから、死ぬなんていわれたら気味悪くてな。幸い……でもねえか。俺の他にも面子はいたから残りのやつらで行くことになった。そしたら」

 夏生は首を振って続けた。

「乗ってった車が事故に遭った。もらい事故だったんだが三人いて二人は重体。一人は死んだ」

 風音は黙った。ありさが凶事を予言するのは風音の家では良くあることだったがそれに対する世間の風評は冷たかった。中にはありさが言ったからそうなったのだ、と凶事をありさのせいにするものまでいた。

「だから俺は……まぁ死んだやつには悪いんだけどよ、ありさに感謝したんだ。一緒に乗ってたら俺も死んでたかもしれねぇ。この命はありさに貰ったんだと思ったんだ」

 風音はほっとした。やっぱり夏生はありさを悪者にはしない人だったらしい。

「すぐお礼言いに行こうとしたんだけどよ、その後くらいにお前のご両親がその、亡くなっちまったんだよな。葬式行きたかったんだけどさ、その頃俺おやじに勘当されてたり、色々あってな。まぁ……結果ずっと一人にしちまって、悪かった」

 悪かったも何も、元々夏生には何の責任もないことなのだが。まるで自分が悪いことをしたかのように夏生は言った。

「まぁ、おやじとはそのあと和解して、こうやっておやじのマンションに住んで伸び伸び探偵なんてやってる訳なんだが」

「たん……てい?」

 思わず声が出た。探偵?

「ああ、言ってなかったな。今探偵やってんだよ」

 何でもないことのように夏生は笑った。

「これから事務所行くんだけど、お前体調大丈夫そうだったら来るか?」

 少し考えて、風音は頷いた。体調は嘘のように良くなっていたし、なにより夏生の事務所を見てみたかった。

「よし。じゃあ……あ、服な。服、買って来た」

 そう言って夏生は持って帰ってきた紙袋をごそごそとかき回し始めた。


 しかし探偵。探偵とは。

 正直テレビの中でしか聞いたことがない職業だったが、どこか浮世離れした従兄弟には似合いの職業のような気がした。


 *


 夏生の探偵事務所は、マンションから車で十分ほどの所にある駅前の雑居ビルの中にあった。五階建てのビルの四階である。

 事務所はさほど広くはないが、観葉植物や調度品で小綺麗に整えられており、テーブルとソファと、固定の電話が一つある。日当たりが良く室内は明るかった。窓の外にはすずもと探偵事務所と看板が出ている。涼本とは夏生の名字だ。

 風音は夏生に与えられた着慣れない高いブティックにあるような服にまだ少し気恥ずかしさを覚えながら事務所内をあれこれ眺めた。

 調度品はシックなもので統一されていたが、ところどころ土産物の赤べこが居たり、棚の上に唐突にテディベアが置いてあったりするのがなんだか夏生らしくて可笑しかった。

「ここが俺の事務所。ってもおやじが借りてんだけど。まぁ座れ」

 黒い革張りのソファに座ると、夏生が二人分のコーヒーを入れてくれた。


「実はお前があそこでやべえ事になってるって分かったのはここの仕事がらみなんだわ」

 向かいのソファに腰を下ろしながら夏生が説明を始めた。

「まぁある事件があってあの周辺を調べてたんだが、どうもあの家がくせえってことになってな。お前ら兄妹が引き取られてた家でもあったから、ありさにお礼言うのも兼ねて行ってみたんだよ。そしたらまぁ追い返される追い返される」

「え……兄ちゃんうちに来てたの?」

「行ったよ。何度も。んでお前に連絡取ろうと思ってお前の友達関係当たったんだけどな。誰もお前と連絡が取れない。大学もずっと休んでる。近所の人に聞いたらどうも兄妹そろって病気になったと。そんであの叔母さんがどうもくさい」

 風音が頷くのを見て夏生は続けた。

「なんか隠してるっていうか、必死なんだ。必死で家の中に何かを隠してる。必死すぎるのが気になってな。もしかしてお前ら監禁されてんじゃねえかって。それでお前の友達からアドレス貰ってあのメール送ったんだ。ところで」

 そこで夏生は口調を変えた。

「ありさはどうした。一緒じゃなかっただろ」

 先ほどまでの夏生と打って変わって真剣なまなざしに風音はため息をついて目を閉じた。


 今の話で確信できた。叔母は信用できない。ありさが自分で外に出て行って帰って来ないと言う話は、嘘だ。


 だとすれば。

「……ありさは、多分、殺されたんだと思う」

 ぽつりと、風音は言った。叔母が嘘を言っているのだとしたら事実は一つしかない。あの時見たありさの死体は現実のものだったのだ。


 ぽつりぽつりと風音は語った。ありさの死体を見つけた事、おそらく後ろから殴られて気を失った事、ありさの死体が消えていた事、それから毎夜夢の中で誰かが自分を殺しに来た事。

「死ぬ前にありさが言ってたんだ。自分はもうすぐ殺されると思うって。僕は信じなかった」

 胸にあるのは後悔だった。あの時信じて、自分がありさを守れていたら。そんな風音を夏生は真剣な目で見つめている。


 風音は夏生にもう一つの夢の事も話した。青い星空の世界で妹と会って、妹に謝られたこと。この力は置いていかなくてはならないと言われた事。その後、妹の手から不思議なものが伝わってきた事。

「……思えば、僕を殺しに来る奴の夢を見るようになったのはあの夢を見てからだった気がする」

 風音が言うと、それまで黙っていた夏生が口を開いた。

「ありさは、お前に力を置いて行ったのかもな」

 風音は顔を上げた。

「置いて行きたくて行ったってよりも、置いてかなきゃならなかったんだろうな、あの世の決まりか何かで」

 あの世の決まり。

 やっぱりありさはあの時死んでしまって、この世には自分一人が残されたのだ。

 両親は居ない。ありさも居ない。

 一人だ。

 ふと黙ってしまった風音の横に夏生が来て、ティーカップのコーヒーを下げた。

「冷めちまったな。いれなおすから」

 夏生はすぐ後ろを向いてしまって表情が見えなかったが、恐らく心配してくれているのだろう。

 俺はずっとお前の味方だから。

 そう言ってくれた声が胸に蘇った。

 なんでここまでしてくれるんだろう。その疑問は依然として風音の心にあった。ありさに救われた、と言っていたが、普通はそれでここまでしないだろう。仕事の事もあるのかも知れないが、風音にお金があるわけでもない。

 どうして、こんなに良くしてくれるんだろう。風音はぼんやりと思考を追い続けたが、答えは出せなかった。


 *


「取りあえず今の問題点は一つだな」

 夏生は新しくいれなおしたコーヒーを片手に言った。

「ひとつ?」

 風音は聞き返す。もっと沢山あるような気がして、頭の中がごちゃごちゃしていたのだ。

「お前さんの話を要約するとこうだ。妹が殺されているのを発見して、後ろから殴られて気を失った。夢の中で妹に『力』を預けられた。そうすると自分を殺しに来る殺人鬼の夢を見るようになった。叔母達は妹の遺体を見ていないと言っている」

「叔母達は、嘘を言っているんだと思う」

 それは風音の直感だったが、考えるほどに叔母達は何かを隠していたような気がした。あるいは妹の死体よりも、もっと隠したかったものが。

 風音がそう言うと夏生は頷いた。

「それは多分当たってる。叔母たちが隠したかったのは、多分二階にいる殺人犯だ」

「二階にいる……殺人犯?」

 ぼんやりと聞き返した風音に真面目な口調で夏生は言った。

「ありさを殺したのは多分そいつだ。叔母たちにはありさを殺す理由がねぇ。加えてお前の夢はいつも二階から降りてくるところから始まってる。お前、二階に上がった事は?」

「……ない。二階には神様がいるから絶対に上がるなって言われてた。」

「神様?」

 夏生は顔を顰めた。なんだそりゃと続きを促す。

「……なんか、二階には神様を祀ってる神棚? があるって。だから家の者以外は上がっちゃいけなくて。叔母さんがお供えを持って上がってた」

「毎日か?」

 夏生の琥珀色の目が鋭くなった。

「毎日」

「一日三回?」

「うん」

「それはお菓子とか?」

「や、人間が食べるのと同じもの」

「お前は後からそれが捨てられたり、残りを誰かが食べたりしてるのを見たか?」

「……ない。そういえば」

 風音がそう言うと夏生は長い息を吐き出してテーブルに載せた肘の上に顎を載せた。瞳から鋭かった色が消える。

「……それは、お前、二階に誰かいたんだろう」

「……えっ……」

 風音は絶句した。考えた事もなかった。というか考えたくもない気持ちの悪い話だ。

「シャワーとかはお前らの居ない時間帯にちゃちゃっと済ませたとして、後は二階に便所があれば完全に姿を見せずに生活することは出来る。あの叔母にはよそには出せない子供が居たんだろ」

「じゃあ……それじゃあ……そいつがありさを」

「可能性は大いにある」

 夏生は片手で口元を撫でて考えた。

「あの叔母夫婦、子供がいたんだよ」

「えっ」

 知らなかった。少なくとも叔母は何も言っていなかった。

「中学卒業まではあの家にいたんだが、学校は休みがちだったらしい。あまり外に出るタイプでもなかったらしいな。それが中学卒業と同時に街の方で働くと言って家を出たらしい」 風音は夏生を食い入るように見つめて話を聞いている。すっかり引き込まれていた。

「前々からあの辺りではペットが行方不明になる事件が多発しててな。外猫とか、外に繋いでた犬とか。そんなに世帯数のある地域じゃないのにやけに動物が居なくなる」

「……?それと何の関係が?」

 夏生は色の薄い目で上目遣いに風音を見た。

「動物の遺体も出てるんだよ。その出てる範囲がどうもお前さんの居た家に符号する」

 まぁあの家以外にも怪しい家はあるんだがな、と夏生は首の後ろを撫でた。

「しかしあの家に表に出せない子供がいたとすればそいつが犯人である可能性はある。しかもその家で、お前の妹も殺されてる」

 ずきりと来た。やはり殺されたのだ妹は。しかしまっすぐにこちらを見てくる夏生の視線に遠慮はなかった。

「どちらもお前の家の二階にいた叔母夫婦の子供がやった可能性が高い」

「じゃあ……そいつを捕まえれば……」

 ありさをどこに隠したかも分かる。そう呟いた風音に夏生は頷いた。

「あ、でも」

 ひとつ疑問が残っている。ありさの死体を見つけた時、土にも血が染み込んでいた。あれはどうしたんだろう。風音がそう言うと、

「血で汚れたところを掘って、畑から新しい土を持ってきて元通り平らにしたんだろ。お前さんが気を失ってた時間はたっぷりあったしそれくらい出来ないことじゃない。あの叔母の家確か裏に畑あったよな」

 確かに裏に畑がある。もう農地としては使っていない荒れ地だが確かに土は山ほどある。


「さて、と」

 話が一段落すると、やおら夏生は立ち上がった。

「これからその叔母のうちに行くけど、お前一緒に来れそうか」

「え?」

 あっけにとられて風音が見上げると既に夏生はトレンチコートを羽織っている。

「昨日叔母に電話しといたんだよ。出なかったけどな。留守電に風音くんは家で預かるので明日荷物を取りにいきますと入れといた。俺一人でも良いが、出切ればお前も来てくれた方が助かる」

「家で預かる……っていいの?」

 慌てて立ち上がりながら風音が聞くと、夏生は笑った。

「いいに決まってんだろうが。この件が片付いてもずっと居て良い。あ、お前未成年じゃないよな?」

「うん、二十歳」

「じゃあ法律上は問題ない。……今は叔母の息子になってるんだよな」

「うん。戸籍上は」

 夏生はちょっと動きを止めて考えた。

「……今のうちに抜いといた方がいいかもな、戸籍」

 風音は考えて、思い至った。

「……もし、叔母さんたちがありさを殺したんだったら」

「……手続きは、こっちでしとく。良いな」

「うん」

 ありがとうと言おうとして、なんだか言い辛くて、もじもじとして、結局玄関のところで靴を履きながらこう切り出した。

「……ごめんね。なにからなにまで。……助かった」

 夏生は唇を尖らせた。

「なに他人みてえなこと言ってんだ。お前は俺の弟みたいなもんなんだから良いんだよ」

 俺がやりたくてやってんだから気にすんな。

 夏生は風音の肩をぽんと叩くと扉を出ていった。風音は後を追いながら胸が温かくなるのを覚えた。思えば夏生は子供の頃からこんな人だった気がする。変わってしまっていたのは風音の方で、夏生は多分ずっと夏生でいたのだ。そんな事を思った。


 *


 昼食の時間だったのでファミレスでランチを食べてから叔母の家に向かった。あの叔母の家に行くというのに不思議と不安はなかった。夏生が一緒だというのが大きいのだろう。しかし、いつもなら両親は昼間は家を空けている筈で、それだけが気がかりだった。


 叔母の家は田舎の集落にあり駅前にある夏生の探偵事務所からは車で片道一時間以上かかる。

 車は街を抜け郊外に入り、さらに両側を林で覆われた細道をがたがたと走って、空と木々の緑の風景を見飽きた頃、ようやく道の両端が開けて集落の持ち物である田畑が延々と続く道に入る。

 抜けるような青空の下に集落の敷地だけは広い家がぽつぽつと立ち並ぶのが見えた時、風音は胸がざわつくのを覚えた。

 高校の頃両親が死んでここに引き取られてきてから、嫌なことしかなかったように思う。近所の人たちの形だけ愛想の良い挨拶、叔母達のうわべだけの親切さ、それらの仮面の下にはいつもよそ者に対する冷たさが巣くっていた。そんな中、ありさと二人、お互いを庇い合うように暮らして来たのだ。

 そのありさが死んでしまった。

 今はどこに遺体があるのかも分からない。

 風音はふと出そうになった涙を飲み込んだ。

 今は泣くときではない。突き止めるのだ。ありさを殺した犯人を。


 車は叔母の家の庭に入った。

「行けそうか」

 夏生の声に、うん、と力強く頷いた。

「……よし」

 夏生の声と共に、二人は車を降りて玄関へと向かった。


 *


 予想に反した歓待ぶりだった。

 平日だというのに揃って家にいた叔父叔母は二人を居間に通すと、お茶や茶菓子を出して、しきりに風音を夏生が引き取ってくれるのならば安心だ、良かった、と言うような事を繰り返した。

 あの能面のような笑顔だった。

 まるでお芝居のような不自然な歓迎ぶりに風音は気味が悪くて仕方がなかったのだが、夏生は場慣れしているのか生来の質なのか堂々と振る舞っている。

 しきりに昔の思い出話をする叔母の話を遮って、そろそろ風音くんの部屋の荷物を纏めますので、と夏生が立ち上がった時、風音は正直ほっとした。

 叔母はにこにこと、ごゆっくりどうぞ、などと言っている。

 二人で連れ立って居間を出て、風音の部屋に向かった。風音の部屋は廊下を曲がって、居間からは死角になる。

 風音の部屋に入って、扉を閉めると夏生はそれまで浮かべていた柔和な表情をふっと消した。

 そのまま忍び足で扉の所に行って耳を澄ますと、出し抜けにがちゃと扉を開けた。それから扉を閉めて帰ってくる。

「叔母が盗み聞きしようとしてやがった。今ので引っ込んだがどうするかな」

 十分に落とした低い声で言う。

「僕、上に行って見てくる」

 立ち上がりかけた風音を夏生が制した。

「ばか、相手はお前を殺そうとしてるんだぞ。他にも猫やら犬やら殺してる。お前はここに居ろ」

「でも、兄さん一人でどうするの」

「二階への階段は一つだろ?さっき見えたから場所は分かる。俺が見てくる」

 風音は黙った。確かに痩せて小柄な自分と比べれば夏生の方が上背も肩幅もある。でも一人で行かせていいのだろうか。

「大丈夫、喧嘩は慣れてる。お前はここで荷物纏めてろ、怪しまれないように。叔母が来たら俺は便所に行ったとでも言え」

 それに、と夏生は続けた。

「俺の勘が当たってれば、『やつ』はもうここには居ない」

 絶句した風音をよそに、夏生はするりと扉を出て行ってしまった。しばらく耳を澄まして居たがそれきり気配も物音もしない。


仕方なく荷物を纏め始めたが元々大事にしていたものがある訳でもない。僅かな着替えを畳んで持って来たバッグに詰めると済んでしまった。

 

 大事なもの。

 風音はふと思い出して顔を上げた。

  

 あったのだ。妹の部屋に。いつだったか妹が自慢していた、母親に貰ったという古いオパールの指輪。白い小箱。


 弾かれたように風音は立ち上がった。あれは持って行かなくては。ありさの部屋にまだある筈だ。我を忘れて部屋を出ようとして、逆に部屋に帰って来た夏生の胸と顔がぶつかった。

「おい、どうした」

 部屋を出ようとする風音を夏生は部屋の中に引っ張り込んで扉を閉めた。

「ありさ、ありさの」

 そこまで言って風音は自分が混乱していることを自覚して声を潜めた。

「ありさの、指輪があるはずなんだ。白い小箱に入った。母さんの形見なんだ。持って行かないと」

「わかった、わかった」

 夏生は風音の両肩に手を置いて座らせた。

「指輪の件については大丈夫だ。信じろ。ただ、『やつ』はもうここには居ない。ここを出るぞ。なるべく怪しまれないように」

 信じろ。

 琥珀色の目に覗き込まれて不承不承風音は頷いた。夏生の目は真剣だった。真剣に自分の身を案じてくれている夏生に、これ以上無理は言えなかった。

「……わかった」

 俯いたまま頷いた風音の頭を夏生はぽんぽんと撫でた。


 そのまま、車に乗って叔母の家を離れた。叔母と叔父は庭先まで出て夏生達の車が見えなくなるまで見送ってくれた。

 逆に言えば見張られていた。

 車が集落を抜けると、夏生がぼそっと言った。

「逃げられたな」

 俯いた風音に励ますように夏生は続けた。

「まぁ収穫もあった。あとは帰ってからだ」


 *


 夏生のマンションに帰るともう夕方だった。

 ――結局なんの進展もなかった。

 居間のソファに座って暮れていく窓の外の景色を見ていると、夏生が来て言った。

「なぁにしょぼくれてんだ」

 隣に腰を下ろす。そして風音が何か言う前に白い小箱を差し出した。

「これ。ありさのか」

 手を伸ばす。間違いない。見覚えのある白い小箱。中身は、

 

 オパールの指輪だった。


「これ、どうしたの」

 思わず夏生を見上げると夏生は複雑そうな顔をした。

「二階に神棚なんてなかったよ」

 ぼやくように言う。

「どういうこと」

 夏生は落ち着いて聞け、と前置きをして言った。

「二階は人の気配がなかったが奥の角部屋だけ使われた形跡があった。中は人が住んでた様子で……その指輪があった。でも部屋の主はもう居なくなってたよ」

 多分あの叔母夫婦がどっかに隠したんだろ、と夏生は歯噛みする口調で言った。

 

 二階に誰かがいた。

 風音は衝撃と共にその事実を受け取った。

 そして恐らく。


 そいつがありさを殺した。


 *


 夏生は空き部屋の一室を風音の部屋としてあてがってくれていた。


 夜眠る前、風音はその部屋の来客用の布団の上で横になりながら、枕元に置かれた指輪の小箱をじっと見つめていた。


 ありさは今どこにいるのだろうか。ふと考える。暗い、冷たい土の中だろうか。 

 灯りを落とした部屋の中で白い小箱が仄かに浮かび上がっている。


 ありさ。いまどこにいる?

 心の中で呼びかけて、風音は目を閉じた。眠れそうにない、と思ったが疲れていたのだろう、気付くと眠り込んでいた。


 *


 気がつくと、冷たい地面に倒れていた。

 辺りは薄暗い。夕暮れのようだ。

 鬼の形相をした叔母と叔父が自分の身体を抱き上げた。身体に力が入らない。まるで他人の身体のようだ。

 その時、地面に倒れている『自分の』姿が目に入った。

 ああ、と風音は思った。これはありさの視界だ。死んだありさが見た光景を自分は見ているのだ。

 その時、自分を運んでいるのが叔父と叔母の二人だけではないことに気付いた。

 もう一人いる。

 そう思った瞬間、ぐるりと世界が『そいつ』の視界になった。

 腹にナイフを刺されたありさの死体が車のトランクに押し込まれる。

 『そいつ』は後部座席に乗り込んだようだった。

 そのまま車は発進する。街とは反対の、山の方へと向かって行く。

 山間の小道に入って行く。


 *


 風音は目を開いた。

 世界は朝になっていた。風音は起き上がると、夏生の寝室へ向かった。ドアをノックすると寝起きの声が答えた。まだ早朝だ。

「……んん?どうした。入れよ」

 ドアを開けると風音は言った。

「わかったよ、兄さん」

 風音は言った。

「ありさがどこにいるのか分かった」


 そう言った風音に、夏生は寝起きの目を瞬いた。


 *


 夢で見た景色を頼りに、車は叔母の家がある田舎の集落から山間の細い道に入って行った。

 道は途中から未舗装になり、徐々に細くなった道幅がようやく車一台入れる程になった頃に、ぽつんと一件の廃墟があった。

 木造らしき日本家屋だがさほど大きくはなく、屋根瓦がところどころ落ちて庭は枯れた

雑草が生い茂っている。

 雑草の合間を縫うようにして進むと、庭の隅に井戸があった。井戸には朽ちた木の蓋が掛けられていたがその上だけ不自然に枯れ葉が積もっていなかった。

 木の蓋に手を掛けようとした風音を夏生が止めた。

「俺がやる。お前は見るな」

 風音は首を振った。

「僕が見てあげないと。家族だから」

 そう言った風音の顔を夏生はちょっと顎を引いてふと正面から見た。その目の中の色に風音は目で問い返した。

「……いや、なんでもない。じゃ、あけるぞ」

 夏生が枯れた木の蓋を持ち上げて脇にずらす。風音が覗き込むと、涸れ井戸の暗い底に、何か白いものが折りたたまれたような形で落ちているのが分かった。

顔までは分からなかったが、確かめるまでもなかった。

「……ありさ」

 ぽつりと呟いた風音の肩を、夏生が抱いた。そのぶっきらぼうな優しさが、今は有り難かった。夏生の手に守られて、風音は泣いた。ありさの為に泣くのはこれで最後にしようと思った。少なくとも、犯人を捕まえるまでは。泣くのはこれまでだ。これからは戦うのだ。ありさの為に。


 *


 その後、警察に通報した二人は別々に聴取に連れて行かれた。

 夏生からは、妹の行方不明の件について夏生に依頼して、遺体の確認に立ち会っただけで他のことは何も知らない。叔母の家の事も何も言うなと言われていたのでその通りにした。

 夏生の方が上手くやってくれたのか、そもそも警察に二人を疑う理由もなかったせいか、二人はすぐに解放された。


 *


 それでも、マンションに帰った頃にはもう日が暮れていた。

「兄ちゃんが晩飯作ってやるから、お前のんびりしとけ」

 靴を脱ぎながら言った夏生に風音は唇を尖らせた。

「それは有り難いんだけどさ、もう兄ちゃんはやめない?子供じゃないんだし」

「そういやお前最近兄さんって呼ぶよな」

 そういうと夏生は台所に行って水を一杯飲んだ。

「寂しいなぁ兄ちゃんは」

 おどけたように言う夏生を風音は軽く睨んだ。

「夏生さんじゃないだけ良いと思ってよ」

「はいはいわかったわかった」

「スズモトさんて呼ぶぞ」

「それはやめろ」

 風音は思わず笑った。笑える自分が不思議だったが、むしろ今はすっきりした気がしていた。無論まだ犯人は捕まっていない。しかし犯人が捕まったとてありさが戻ってくる訳でもない。それでも自分は生きて行くのだろう。

「おい、暇なんだったら手伝えよ。サラダくらい作れるだろ」

 ふと黙ってしまった風音に夏生が呼びかけた。

「作れるよ。なんだったら兄さんより上手いよ」

 減らず口を返しながら風音はまた笑った。


 結局ふたりで肩を並べて夕食を作った。豚の生姜焼き、ご飯、味噌汁とサラダをテーブルに並べると、揃って頂きますをして食べ始めた。夏生は缶ビールを開けた。


「しっかしお前大人になったよなぁ」

 ビールを傾けながらしみじみと夏生が言った。

「そりゃ……僕もう大学二年だよ」

 風音が言うと夏生は声を出さずに笑った。

「……だな。俺なんか未だにすねっかじりのどら息子だから羨ましいや」

「でもちゃんと仕事してるでしょ。探偵」

 風音が聞き返すと夏生は頷いた。

「やってるよ。ちゃんと。弁護士や警察に持って行けないような仕事とか。でもそれで飯が食えるかっていうと別問題でな……やめようや、こんな話」

 夏生は手を振って笑うと、ふと真面目な顔になった。

「そういやお前、大丈夫なのか大学。大分休んじまってるだろ」

 うん、と風音は俯いて肉をつついた。

「そろそろ行かないとまずいんだけど……やっぱりあいつが捕まるまでは」

 とても大学で講義を受ける気になれない。

 そんな風音の気持ちを察したように夏生が言った。

「まぁ進学できなさそうなら留年してでも卒業した方が良い。一年周りとはズレちまうが」

「うん……でも……」

「金のことなら心配するな。お前一人養えるくらいある」

「あるの?」

「親父がな」

「それ僕に使って大丈夫?」

 夏生は少し考えて頷いた。

「わかった。お前の生活費は俺の貯金と働いた金で出すよ。それで心配ないだろ?」

 今度は風音が少し考えた。結局同じ事のような気がするが後から返せば問題ないだろう。

「うん。じゃあ卒業したら、働いて返すよ」

 夏生が慌てた。

「いい、いい。大体お前のせいじゃねえじゃねえか。今回の事も、なんも。だからお前はまだ俺に養われてりゃいいんだよ」

「そういう訳にいかないよ。叔母さんのところにも生活費は入れてたし」

「あのばばぁとってやがったのか」

「食費程度だけどね」

「いいか、お前はまだ子供なんだ。金の心配なんて良いんだよ」

「もう二十歳だよ、大人だ」

 居住まいを正して言った風音の鼻先をふいに夏生がつまんだ。

「いっちょ前のこと言うんじゃねぇ。とにかく大学卒業までは俺が面倒見る。いいな」

 風音は子供扱いされて少し悔しい気分で不承不承頷いた。

「わかったよ。よろしくお願いします」

 その頭をよし、と言うように夏生がわしわしと撫でた。子供じゃないんですけど、とその手を払いながら、その心では少しくすぐったいような、嬉しいような気分がしているのだった。


 *


 年が明け、妹の身体が警察から戻って来てすぐ葬式が行われた。

 朝から空気が澄んだ、よく晴れた日だった。喪主を務めるのは両親の時と次いで二度目だったが慣れるものでもない。側に夏生がついていてくれたのが頼もしかった。


 事が事だけに参列してくれた親族たちはどこか風音たちを遠巻きにしていたが、風音の父親だけは肩を叩いて、困ったことがあったらなんでも言ってくれ、と言ってくれた。顔立ちは夏生とあまり似ていないが、どこか快活で真っ直ぐな雰囲気が似ていた。風音は深くお礼を言った。

 問題の叔母達は体調を崩したといって夫婦で欠席していた。おそらく仮病だろうが列席してくれない方がかえって有り難かった。

 妹の事は死体が出た事で殺人事件となり、叔母達はかなり疑われたらしいが結局尻尾を出さなかったのか今は自由の身になっている。どこかにいるはずの夫婦の子供――つまり殺人犯も同様だった。


 どこに行ってしまったんだろう。

 棺の中の妹の顔は、白く整って生前と変わらないように見えた。


 妹をどうしても土の中に一人にする気になれず、火葬が終わると分骨した小さな骨壺を墓所から持ち帰って、遺影と共に自室にしつらえた仏壇に置いた。


 必ず犯人を見つけ出す。

 風音は妹の遺影に誓った。


 *


 それから半月が経ったが、事件に進展はなかった。


 その事を巡って、風音は夏生とちょっとしたいさかいをした。


 「もう犯人は叔母さんの家に戻ってるんだろ?だったらまたあの家に行って捕まえればいいじゃないか」

 昨夜珍しく声を荒げたのは風音だった。夏生が調査した結果、おそらく犯人らしき人物はもう叔母の家に戻っているという推理をふとこぼしたのを受けてだった。

「まあまあ落ち着け。あの時と今じゃ状況が違う。あの時なら捜査が入ったかもしれねぇが、今子供の存在が知れたところで殺人の証拠なんかなんも残ってねぇよ」

「でも……!」

 食い下がった風音に夏生は視線をふいと逸らした。

「そもそも警察の捜査が入った時点で何も出なかったって事はあの叔母達、相当周到だったって事だ。でなけりゃ運が良かったか。とにかく事件から一ヶ月も経ってるんだ。今さら子供を捕まえてもどうもならねえよ」

 風音は夏生の横顔を睨み付けた。睨み付けても微動だにしないその横顔が憎く見えた。

「じゃあ」

 風音は言った。

「じゃあ僕がそいつを捕まえて復讐する。僕が妹の仇を討つ」

 夏生は驚いたように風音を見た。その目がすっと細くなった。

「お前自分が何言ってんのか分かってんのか」

 その目の色の鋭さに風音は少し勢いをなくした。わかっている、とは言えなかった。

「わかってねぇならそんな事言うもんじゃねぇ。大体そんな事、俺がさせると思うか」

 その言葉に思わずかっときた。

「兄さんは僕の保護者じゃない!」

 その言葉を叩きつけたまま走って自分の部屋に飛び込んだ。

 横にはありさの遺影があった。笑顔で映っているその写真の目の色が自分を咎めているように見えた。

 ……わかってるよ、僕だって。

 妹が納めてある仏壇も、潜り込んだベッドも夏生が買い与えてくれたものだ。

 ……僕はちっとも自立なんかしてない。兄さんは立派な僕の保護者だ。

 ……それでも。

 

 捨てては置けなかった。そこに妹を殺した犯人がいるのならば。

 兄として、唯一の家族として。このまま見ぬ振りはできない。


 翌日風音は、大学を休んだ。


 *


 叔母の家のある田舎へと向かうバスに乗っていた。思えば随分久しぶりの事だ。まだ妹が居た頃は、よくこのバスに乗っていた。一日数本しか出ないこのバスが、田舎と都会とを繋ぐ唯一の線だった。

 長いことバスに揺られて、終点で降りてからも心は定まらないままだった。叔母の家に行って、それでどうしようというのか。仇を討つのか。


 どうやって。

 心が定まらないままかつて住んでいた叔母の家まで歩いた。青い空をバックに建っている古い家を見ると、おどろおどろしい記憶が滲んでくる。家の横の道から二階を見上げた時、その記憶は石のように固くなった。

 二階の窓にはかつての記憶と同じように分厚いカーテンが引かれて中が窺えない。

 どうしようというのか。

 バッグの中には来る途中にホームセンターで買ったロープがあった。これで一体どうしようというのか。ナイフは買えなかった。夏生の顔がちらついたのだ。

 ここでこの家に飛び込んで、返り討ちにあって犯人に殺されても僕はいい。でも兄さんはどうするだろうか。僕が死んだら、兄さんはどう思うだろうか。

 考えて、考えて、風音は踵を返した。

 帰ろう。ここで自分が無茶をしても、多分良いことは何一つもない。次のバスまでは随分時間があるが、乗って帰ろう。丁度大学から帰る時間になるだろう。ここへ来た事は夏生には言わずに置こう。

 そう思った瞬間だった。


 何かに呼びかけられた気がして振り返った。

 同時に何かが視界に飛び込んで来て反射的に避けた。その飛び込んできたものと揉み合いになって、良く分からないまま後ろに転んだ。

 相手も後ろに倒れて、しかしバネ仕掛けのように起き上がった。

 

 白い少女だった。


 蒼白な白い小さな顔を長い白い髪が縁取っていた。少女は白いワンピースを着ていた。少女はその痩せた身体で再び向かってきた。

 その骨の浮いた手には小さなナイフが握られていた。

 再び揉み合いになり、なんとか少女の手を掴んだ。ナイフをもぎ離して脇に放った。その瞬間、がつりと後頭部に衝撃が走って目の前が真っ暗になった。

 ――あの時と同じだ。

 そう思いながら風音は気を失った。


 *


 ごつ、とこめかみに何かがぶつかって目が覚めた。

 薄く開いた目に電球の光が入って眩しい。

「おい、おきろ」

 妙に金属質な、年齢不詳の女の声がした。途端自分の置かれている異様な状況に気付いた。

 風音は叔母の家の、バスタブの中に寝かされていた。手足は縛られているのか身動きができない。口には何か噛まされていて唸るような声しか出せない。

「……おきたよ」

 嬉しそうに金属質の声が言う。と、目の前にナイフがギラギラと光って差し出された。それが家の横で白い少女が握っていたナイフだと気付いたのは少女がそれを顔の横に引いたあとだった。

 少女、といっていいものか。白髪なのも手伝って年齢がわからない。童女のようにも老女のようにも見える異相だった。女はきらきらと光る目で風音を見ている。

 その白い女にナイフの柄でこめかみを殴られたのだ、と分かった時に声がした。

「……だめよ、まだ殺しちゃ。ちょっと待ちなさい」

 ぼそぼそとした声が脱衣所の方から聞こえた。風音の角度から姿は見えなかったが間違いない、叔母の声だ。

「……だからね、あの子は殺さなきゃだめなのよ。落ち着かないんだから」

「……しかし、二人目じゃないか。さすがにまずいんじゃないか」

 叔父の声だった。叔母と叔父、二人が脱衣所で何か話しあっている。

「……このあいだもばれなかったんだから大丈夫よ。警察なんてそんなもんなんだから」

「……この間のは運が良かったんだ。もう止めた方がいい」

「……そんなこと言ったって今更どうするのよ」

 まるで夕食の献立を話し合うような調子で揉めているのは、おそらく風音の命の行方だ。冗談じゃない。風音は手足を縛っている縄を振りほどこうとしたがいたずらに体力を消耗しただけだった。白い女がくすくすと笑う。

 そうやって笑っているとやはり女は少女に見えた。少女は風音と目が合うとすっとナイフを風音の目に向けた。眼球ぎりぎりにナイフを突きつけられる恐怖を風音は初めて知った。

 硬直していると脱衣所からまた声が飛んだ。

「だめよ、傷も付けちゃまだだめ。お父さんの許しが出てないでしょ」

 少女は笑みを口元に貼り付けたままナイフを少し引いて、出し抜けに声をあげた。

「とうさん、まだ殺しちゃ駄目なの?」

 脱衣所から声は返って来ない。

「とうさん?」

 少女はいらだった声を上げると立ち上がって脱衣所に向かった。途端、脱衣所の方から何かがぶつかるような音と倒れるような音が連続して聞こえた。

 その後何か揉み合うような気配が続いて、

「……やめろ!汚い手で触るなっ!!」

 少女のヒステリックな叫びが聞こえた。次いで何人かの足音がどたどたと走ってくるのが聞こえ、

「なにしてる!やめろ!」

 知らない男の声が響いた。そしてそれに被せるように、

「おめえらがおせえからだろうが!!こいつらが拉致監禁の犯人だ!!被害者は風呂場の中!!」

 聞き慣れた怒声が響いた。風音がはっと顔を上げると、見慣れた夏生の姿がぬっと風呂場に入って来た。後ろで駐在所の刑事らしき制服の男がもがく白衣の少女を押さえている。もうナイフは取り上げられたようだった。

「大丈夫か。怪我は?」

 夏生がバスタブの側にかがみ込むと噛まされていた猿ぐつわを外してくれる。しかし風音は声が出なくて、ただ何度も頷いた。

「よしよし。もう大丈夫だからな」

 夏生の暖かい手がぽんぽんと頭を撫でた。

「なんですかこれは!大丈夫ですか!」

 後ろからもう一人の制服の刑事がやってきて風呂場を覗き込んで絶句した。

「みりゃわかんだろうが。そこで伸びてる夫婦と白ずくめの女が犯人だよ。ロープ外すから手貸せ」

 刑事は少し遅れて事情を把握したらしく、風呂場に入ってくると風音の手足を縛っているロープを外すのを手伝い始めた。夏生は少女から取り上げた小さなナイフをその警官に渡した。

「ほい証拠品」

「あっどうもです」

 なんだか間抜けなやりとりがこんな状況だというのに少し可笑しかった。夏生がそんな風音をみて少し笑った。

「笑えりゃ大丈夫だ。もう安全だからよ」

 風呂場の外から白い少女が喚きながら引きずられていく声が聞こえていた。


 *


 結局、叔母夫婦と白い少女は拉致監禁の現行犯として逮捕された。

 ありさ殺害の件についてはまだ捜査中だが、白い少女の方からは自供がとれているらしい。

 白い少女の正体は、中学卒業と共に就職の為家を出たとされていた叔母夫婦の子供だった。実際は中学在学中に心を病み、自室に長いこと引きこもっていたらしい。

叔母夫婦は世間体を気にして娘を隠していたが、年々病状は悪化し、ついに夜な夜な家を抜け出しては近隣の動物を殺して回るようになった。

 そこにやってきたのが風音たち兄妹だった。少女は美しく若いありさに執着した。執着は憎しみに変わり、とにかく殺してみたいと思った。と少女は供述しているという。

 殺人は決行され、叔母夫婦は死体を井戸に隠し殺人を隠蔽し、風音を煙に巻いた。その時点で少女は風音も殺す計画を立てていたのだが、そこに夏生が来て風音を連れ去ったので少女は大層荒れたらしい。


「二十五だったんだと、あの女の歳。見えないよな」

 後日、探偵事務所のソファで、窓の外の青い空に目をやりながら夏生は言った。前のテーブルには二人分のコーヒーが置いてある。

 犯人が逮捕されたというのに、風音の心にはなんの変化もなかった。もっとすっきりしたりするのかと思っていたのに。失われたものは戻らない。そんな現実を突きつけられるばかりのような気がする。

「あそこにあった花瓶な」

 夏生がふいに窓際にある棚の上を指した。

「割れたんだよ。風もなんにもなかったのに。いきなり」

 風音は思わずそちらを見て、それから夏生の顔を見た。

「ありさの事があるからな。こりゃお前になんかあったと思ってGPS確認したら叔母の家にいる。こりゃまずいってんで駆けつけたんだよ」

 風音は息をついた。自分でもどうかしていたと思う。手前で引き返したとはいえ叔母の家に自分から行くなんて。

 GPS発信器は夏生に渡されてお守り代わりに肌身離さず持っていたものだ。結果的にそれに救われた。

「あの、夏生にいさん」

 風音はふと改まって声を掛けた。

「なんだよ」

 コーヒーを飲みながらぶっきらぼうに夏生が返す。

「ええと、あの時は本当に」

 ありがとう、と風音が言わないうちに、

「お前お礼なんか言ったらぶっ飛ばすぞ」

「え、ぶっ飛ばすの」

「ぶっ飛ばす。だから言うな」

 そう言った照れているとも拗ねているとも見える横顔がなんだか可笑しくなって、風音は笑った。


 *


 その夜、夢を見た。

 見渡す限りの白い砂子の大地の上を青い星空の天球が覆っている。

 そこは暑くも寒くもなく、心地の良い風が吹いていた。

 どこか彼方から波の寄せては返す音がして、風音はなぜか懐かしい気持ちになった。

 

「おにいちゃん」

 気付くと横にありさが座っていた。風音は同じように座ってありさを見た。生きているありさを夢で見たのはあの夜以来だった。ありさは風音が初めて見る綺麗な白いワンピースを着て、幸せそうに微笑んでいた。 

その白い、まだ幼さの残る手がすっと天の一角を指さした。

「あたし、あそこへ行くんだ」

 そこには星が光っている。妹の行く星がどこなのか、風音にはまだ分からなかった。

「力は、置いて行くから。おにいちゃんと、夏生にいちゃんの為に使って」

 ありさは風音の胸を軽く押すようにして立ち上がると、緩やかな風の中気持ちよさそうにひとつ伸びをした。

「じゃあね、おにいちゃん。あたし、この世界で生きられて良かったよ」

 妹の声が遠くなる。景色が遠くなる。ああ僕も、


 お前と一緒に生きられて、良かった。


 目が覚める。現実の感覚がまざまざと戻ってくる。そこは夢のような世界じゃない。まだ天球の星へは行けない。この現実で、自分はまだ生きていかなくてはならない。それでも。


「おーい、朝飯出来たぞ」

 知らぬうちに溢れていた涙を拭って起き上がる。返事をして夏生の居るダイニングへと向かう。ダイニングにはハムと卵が焼ける匂いと、味噌汁の良い香りがしている。

「おう、おはよう」

「おはよう」

 夏生は風音を見てちょっと変な顔をした。泣きべそは拭ったつもりだったが多分ばれてしまっているだろう。それでも夏生は何も言わずに茶碗にご飯をよそうと茶碗を風音の手に載せた。現実の温もりがする。そこには暖かさが溢れている。


 現実にも夢はあるのだ。

 

 例えば、大学を卒業したら探偵助手になるとか。


 食事をセッティングしたテーブルを囲んで二人で頂きますと手を合わせた。

 いつもの朝食を食べながら、風音は夏生にその話をするのはいつにしようかと考えていた。

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星の行く先 うりぼう @futaba8293

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