化政夢幻譚 ~江戸歌舞伎異聞~

夢幻亭喜三郎

運命の瞬間―江戸へと誘われし者

第1話 変わらない日々

藤井拓真は、東京の片隅にある小さなアパートに住んでいた。目覚めたばかりの部屋の中は、窓から差し込む朝日でほんのり明るく、冷蔵庫の中には冷えたコーヒーといくつかの簡単な食材があるだけだった。デスクの上には未完成の原稿が散乱し、仕事の進捗に焦りを感じさせる。彼の机の周りには、時折開くときのために積まれた本の山も目立つ。その中でも一冊、ボロボロの表紙が目を引いた。それは、古びた歌舞伎の劇作家に関する本だった。


「もう少しで書き終わるのに…」


拓真は、肩をすくめながら自分に言い聞かせるように呟いた。彼は、舞台脚本を手掛ける若手の劇作家見習いだ。しかし、現在の彼の状況は決して順風満帆ではなかった。劇団の規模は小さく、仕事もほとんどが依頼ではなく、自分で引き受けることが多かった。アイディアはあったが、それを形にする力が足りず、なかなか大きな仕事には繋がらなかった。


タバコの煙が少し煙る部屋で、拓真はふと窓の外を見上げた。青空に浮かぶ雲の中に、何かを感じた。彼の目の前に広がる現代の風景は、彼が心の中で抱える「古典芸能」という世界とまったく異なるものだった。どこか虚無感を感じていたが、それが何か分からなかった。彼は、歌舞伎のような伝統的な芸能に興味を持っていたが、それが現代ではほとんど忘れ去られ、時代遅れのものとされていることがとても悲しく感じられた。


「どうして俺は、こんなことをしているんだろう」


拓真はため息をつきながら、机に広がる未完成の原稿に目を落とす。完成させるべき脚本のアイディアが浮かんでも、それを形にする手段が見つからなかった。舞台の設定や人物像にはこだわりがあったが、次に進むための一歩がどうしても踏み出せなかった。


その時、携帯電話が鳴った。


「もしもし?」


電話の向こうには、劇団のスタッフである白石がいた。彼女は、彼が作品を作り上げるために信頼している数少ない仲間だ。


「藤井くん、少し話があるんだけど。ちょっと時間取れる?」


拓真は少し考えた後、答えた。


「もちろん。どうしたんですか?」


「実は、来月の公演に向けて脚本を依頼したいんだけど、どうかな?」


一瞬、心の中で躊躇ったが、それと同時にどこかで安堵も感じていた。公演の依頼が来ることは、重要なチャンスだったからだ。


「ありがとうございます。ぜひお引き受けします。」


電話を切った後、少し立ち上がり、部屋を歩き回った。心の中で新たな決意を固める。彼には、この機会を無駄にすることはできなかった。脚本を書き上げること、そしてその舞台で形にすることが、今の自分にとって最大の目標だ。


善は急げと、その日のうちに資料を整理し始めた。読みかけだった歌舞伎に関する本を手に取る。演劇の中でも、歌舞伎という世界に足を踏み入れることは、彼にとって憧れでもあった。時代が進む中で、歌舞伎はその伝統的な形を維持することが難しくなっていたが、それでもその魅力を感じずにはいられなかった。


本を開き、ページをめくりながらひとつひとつの言葉に耳を傾けた。歌舞伎の脚本には、今の自分が作りたい作品のヒントが隠されているような気がした。


「これだ…!」


拓真は突然声を上げて、ひとりごちた。歌舞伎の中でも最も重要な「義理と人情」というテーマが、自分が今まで抱えていた脚本の中のテーマにぴったりだということに気づいたのだ。そこには、現代社会の矛盾や人間の内面的な葛藤を描くヒントがあった。


その瞬間、完全にそのテーマに心を奪われた。彼の頭の中にはすでに次に書くべきストーリーが浮かび、どんな舞台にしたいのかが明確になった。歌舞伎の要素を取り入れつつも、それを現代的な視点で描くことができるという確信を得たのだ。


その日から、毎日のように脚本を書き続けた。歌舞伎の世界を現代に合わせるための工夫を重ね、舞台の構成を練り直し、登場人物のセリフや動きに至るまで細かく検討していった。

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