彷徨える黒き羊に憐れみを
ヨシコ
1、烙印と審問官
第1話 暴力片眼鏡
たった数十秒間の出来事だった。
尻もちをついたハオの目の前で、見知らぬ男の顔面に黒いブーツの底が深々とめり込んだ。
「……まあ、軽い運動にはなりましたけどね」
そう言ったのは、黒いブーツの主。
ハオなんかを助けてくれた青年は、体格の良い柄の悪そうな男たちを、圧倒的な暴力で瞬く間に叩きのめした。普段は平穏な村の往来で、顔面を血だらけにした者たちがうめき声を上げる事態になっている。
倒れた男は四人。倒したのは青年一人。
四人の男も一人の青年も皆、村の外から来たのだろう。ハオだけが、近所をうろついていただけの村人だ。互いに面識も関係もない。昼間から酒を飲んだらしい四人の男に絡まれた通りすがりの子ども、そしてそこに割って入った通りすがりの青年。それだけだ。
その四人と青年について、ハオは何も知らない。ただ、それぞれ旅人のような装いだった。
四人に比べ、青年はかなり若そうに見える。
男たちは、厳つくてごつい、いかにも強面のおっさんだ。体からは、昼間とは思えないような酒の匂いもした。
ちなみにハオは十一歳。彼らに殴られれば、簡単に吹っ飛ぶ程度のか弱い子どもである。
「まったく、こんな子ども一人に大人四人で絡むなど。恥を知りなさい」
青年は、地面にうつ伏せで倒れていた四人のうちの一人を、ブーツの爪先で仰向けに転がした。
おっさんの中でリーダー格と思われるその人物は、最初に拳を顔面に叩き込まれ腹に膝を入れられていたように見えた。顔面を血だらけにしながらも、意識はあったらしい。
ハオが引くほど血まみれの顔を前にしても、それをやった当人が特に何かを思った様子はない。青年は薄っすらと笑みを浮かべ、普通に言葉を続けた。
「その恥知らずな行いに改善があることを期待し、ここまでにしておきましょう。今あなた方の出自を問うことはしませんが、見逃すのは今だけです。次の機会があればもう少し強めに諭すことになります。あるいは、あなたがたが嫌う魔術士も交えて、互いの背景についてのお話をしましょう。よく、考えて行動することをお勧めします」
四対一でありながら反撃の余地を一切与えず、圧倒的な強さでぶちのめしたおっさんを笑顔で見下ろし、丁寧な口調で言葉を続ける。圧倒的な暴力と反する柔和そうな笑みと口調のせいか、少々薄気味悪く感じられた。
怯えた目で青年を見上げる当のおっさんも、おそらくハオと同意見だったに違いない。
「では、神のご加護を」
「……は?」
青年の口から出た文句を聞いて、ハオは目を瞠った。思わず口から疑問符もこぼれた。
言われた四人は、呻き声をあげながらも、荷物を引きずり慌てた様子で去って行った。そんな彼らに向けて「さっさと行け」と言わんばかりに片手を振るのは、若い青年。ハオの目にはそう映った。
あれだけ暴力を行使しておいて加護も何もないと思うが、「神のご加護」という文句を使うのは、ハオが知る限り聖職者だけだ。
目の前の青年は、ハオが知る聖職者とは様子が異なる。気難しい爺さんでも、生真面目なおじさんでもない。
嘘なのかもしれない。聖職者など騙ったところで良いことは無さそうなのに。
「さて」
こちらを振り返った青年の顔はやはり若い。とはいえ、ハオから見れば大人には違いない。中年と呼ぶにはまだずいぶん早そうで、年季の入った旅装に包まれた背は高く、一見しただけだと頼りなく見える。
黒い革のコートに、丈夫そうな黒い革のブーツ。背負った荷物からして旅人であることは間違いない。
ちょっとこの辺では見かけない雰囲気で、整った顔は甘さを感じるし、黙っていれば知的なタイプに見えそうだ。実際は出合い頭に大の大人四人をぶちのめすし、それが簡単にできるだけの腕っぷしがあるようだが。
青年は、足元に落ちていた猟銃を拾い上げた。
「これは、君のものですか?」
ハオが無言で頷くと、青年も目の前でしゃがみ込んだ。視線を合わせ、優し気に微笑む。
「はい、どうぞ。大丈夫だとは思いますけど、一応点検してくださいね。それで、顔から倒れたように見えましたが、鼻血以外に怪我は?」
ハオは無言で首を横に振り、渡された猟銃を握り込んだ。
別に、心配なんてしてもらうほど大したことじゃない。
少しだけ、絡まれただけだ。囲んできた大人四人の体格に委縮して、転倒して、肩に引っかけて持っていた猟銃を落としただけだ。
顔面から倒れ込んだことで驚いたし、膝も痛む。鼻血が出たし、それを拭ったせいで袖も汚れたが、ほとんど無事で、なんでもない。
ハオの顔を覗き込んだ青年と目が合った。青年の整った顔がわずかにしかめられたように見えて、ハオは慌てて俯いた。
おっさんたちにしたら、冗談とかちょっとからかう程度の気持ちだったんだろう。
遠目からハオを見付けて、そういう気分が盛り上がったに違いない。誰かを、何かをいたぶりたい、そういう気分が。そこにたまたま通りすがったハオは、きっと丁度良い獲物だったのだ。
こいつなら、やっていい。そう思ったんだろう。
ニヤニヤしながら囲んできた四人は、まだ昼前だと言うのに、すでに酔っているらしかった。相手にしない方がいいと思って、無視したのが余計に良くなかったのかもしれない。
ハオでなければ、あのおっさんたちだって、あんな風に絡んだりしなかったんじゃないかとは思う。だからって同情をする気はさらさらないが。
青年の手がハオの頬に触れた。
「え、なに」
強引に上向きにされて、反射的に声が出た。
「失礼、痛むかもしれませんが、我慢してください」
思わず伸びてきた手を振り払ったハオに構うことなく、今度は無遠慮にあごを掴まれた。大した痛みはないし、警戒したほど乱暴でもない。
空いた片手で、コートの合わせから片眼鏡を取り出し装着した青年が、顔を傾ける。
レンズから垂れる繊細な銀の鎖が、整った顔の横でしゃらりと揺れた。
「口開けて」
なんとなく素直に応じたくない気がして口を噤む。
「開けなさい」
ハオの僅かな抵抗に、有無を言わせる気のない言葉が飛んできた。渋々応じれば、口の中を覗き込まれる。
真剣にハオの口の中を検める青年の顔に、似合わない傷跡が見えた。丁寧な物腰にも、真面目そうな雰囲気にも合ってない。
片眼鏡を装着した左目にあるのは、一閃したような斬り傷だ。頬の中程から前髪が隠す額へ、薄く伸びている。
ハオの顔にある刺青と、同じように。
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