におい

石村まい

におい

「木下さーん、さっきのオーダー、お任せしていいかな。不安だったら聞いてくれたらいいから」

 水の入ったバケツを持ち上げながら、店長が声を掛けてくる。もうすぐ午後三時。いつもの彼女のルーティンだと、少し歩いた先にあるコンビニにおやつを買いに行くころだ。よいしょとバケツを移動させてから、カーディガンをいそいそと羽織っている。

「了解です。サイズは小さめで、赤系中心……と」

十五分ほど前に電話を受けながらとっていたメモを確認する。受け取りは明日のお昼過ぎ。贈答用のフラワーアレンジメント。午前の水揚げ作業のあとに着手すれば大丈夫だろう。

 ちょっと外すね、と去っていった店長のふわふわの茶髪を見送りながら、生花の在庫を確認する。大通りに面しているとはいえ、平日の花屋は客足が少ない。お祝い事の多い春シーズンや、母の日などのイベントが近くなると、贈答用の花束やアレンジメントの注文が増える。一方で自宅用に何本か買っていく人は、以前に比べてあまりいない。余裕がないのよねえ、と店長がこぼすのをよく聞く。経済的なゆとりがないと、花なんて買えない。そういうゆとりのある人たちを相手にするのがこの仕事。

 十五分ほどして店長が戻ってくる。定休日の火・水を除く三日間とはいえ、平日にかならずおやつを挟むのは、わたしからすると、ほんの少しの贅沢な習慣だった。

「じゃーん」

「あ、そうか。ラッキーですね」

 片手にひとつずつ、ジャックオランタンの柄のパッケージに入ったクッキー。「3割引」と書かれた赤いシールが斜めに貼られている。ハロウィンはつい先日終わったばかりだから、売れ残ったお菓子が安くなっていたらしい。当日までは季節商品を大々的に売り出すのに、日付を超えた途端に価値を下げるのだから不思議なものだ。といいつつ、店のおばけやかぼちゃの飾り付けもすぐに片付けたことを思い出し、なんともいえない気持ちになる。

 どっちかあげるよ、という店長の言葉に甘えて、クッキーを鞄にしまう。そのまま、ときおり雑談も挟みつつ、花のメンテナンスや、午後六時半の閉店までぽつぽつと現れる客の対応をした。


 翌朝、仕入れのために早く家を出ると、向かいのマンションの前にパトカーが止まっているのが見えた。野次馬らしき人もちらほらといて、なにやら騒々しい雰囲気だ。横目に通り過ぎようとすると、「首を……」「自殺ってこと?」という声を耳が捉えてしまう。ずん、と気が重くなった。赤の他人とはいえ、こんなに近くで自殺が起きるなんて。立派な新築だったのに、これから事故物件として扱われるんだなあ、などと考えてしまう。なんとか気持ちを切り替えようと頭を振り、足を速めた。

「どうしたのよー、なんか顔、暗いけど」

 仕入れが終わり、開店前の準備をしていると、心配そうに眉を下げた店長が近づいてきた。実は、と先程のことを話す。なるほどね、とうなずいて、彼女は看板をずいっと引っ張り出してから、肩をぽんと叩いてくれた。

「まあ、こういっちゃなんだけど、同じアパートじゃなくてよかったじゃない」

「それは、うん、そうですね」

 不謹慎ながらも強くうなずく。これまで事故や事件と無縁の生活を送ってきたから、その気持ちはほんとうだった。警察も来ていたし、すぐに日常に戻るのは間違いないだろう。仕入れたばかりの花の水揚げをしながら、やわらかな香りに包まれていると、だんだんと気持ちがほぐれていく気がした。

 昨日のオーダーをもう一度確認して、作業に取り掛かる。英字ロゴの入ったシートを適当な大きさに切り、たっぷりと水を吸ったオアシスを丁寧に包装していく。ガーベラと薔薇をメインに据えて存在感を出しながら、コットンフラワーもあしらうのがいいかな。目の前の色彩のことだけを考えられるのは、趣味のほとんどないわたしにとって、とても貴重な時間だった。

仕上がったアレンジメントを念のため店長にチェックしてもらい、予定時刻に客が受け取りに来て、しばらく静かな時間が続く。今日は金曜日だから、閉店間際にはいつもより少しだけ多く人が来るはず。作業台を片付けていると、知っている顔が視界に飛び込んできた。

「こんにちは!」

「あらー、いらっしゃい」

 店長がにこにこと迎え、わたしもそれに続く。近隣の大学に通っている女の子で、一年ほど前からふらっと現れては生花を買ってくれるのだ。

「最近どう、おじいちゃんは」

「ぼちぼちですかね。今日も……」

「お任せだよね? オッケー」

 てきぱきと店長が花を選んでいく横で、わたしはレジのほうへ向かう。彼女もひょこひょこと付いてきて、大きなピンクのクマのぬいぐるみの付いたリュックを開けた。そのまま財布を探している。

「いつも夕方なのに、今日は早いね」

「四限が休講になったんで、それで。このままお見舞いも行っちゃいます」

「そっかそっか。ご苦労さま」

 お会計が済んでから、店長が茎の部分を新聞紙で包んで渡す。

「はい、お待たせー」

「ありがとうございます!」

 じゃあまた、と律儀に頭を下げてから通りに出て行く姿を見送って、いい子ねえ相変わらず、と店長がつぶやく。ほんとですねえ、と相槌を打ちながら、お見舞い用に花を買う人が減ったことを思った。このお店は、市立病院からそれほど遠くはないが、定期的に生花を買う客はだんだん少なくなっている気がする。これも店長のいう、余裕がねー、ということだろうか。


 店仕舞いを終えて自宅へ戻る途中、朝の出来事を思い出した。夜の七時を回っているし、もう人はいないと思うけれど。マンションの前を通りかかると、パトカーは消えていたものの、住民らしき夫婦が共同玄関で言い争いめいた会話をしているのが目に入った。内容ははっきりとは聞こえない。目をそらしつつ通り過ぎる。

 奇妙なことに、翌日の土曜日も日曜日も、わたしが帰宅する時間には必ずその夫婦が現れた。ふたりともコートの前を抱き合わせて、女性のほうが強く文句を言っているように見える。寒いのに、なぜ室内で喧嘩しないんだろう。独身にはわからない事情というのがあるのかしら、と思っていると、さすがに近所の人も気になり始めたのか、道路を挟んでちらちらと様子を伺っている。

二日連続の定休日を控えた月曜日、いつもより遅めに帰路につく。出勤のときにたまにすれ違う女性が、同じく近隣に住んでいるらしい同年代の女性と話している。どうやら例の夫婦喧嘩についてらしい。自分の野次馬根性を自覚しつつ、電柱の傍で立ち止まってこっそりと耳を傾ける。「においはどうしようもないからねえ」「でも引越したばっかりだと、そりゃあご主人もねえ」と聞こえてくる。そうか。あの亡くなった人の近くに住んでいる夫婦だったのか。自分に置き換えてみると、とてつもなく複雑な気分になった。隣人が自殺したマンションに住み続けたいと思うだろうか。それが新築のきれいな部屋で、引越したばかりだったとしたら?

歩き出しながら、そのあとの会話が引っ掛かる。「清掃とかはきちんとやるから、別にそんなじゃないの」「そうそう。でも奥さん的にはむしろ、消臭したのに芳香剤っていうか、あれで気分が悪いんだって」「へえ。まあ金木犀とかだと、苦手な人もいるでしょうけどねえ」


火曜日。家の掃除などをしつつ、昨日聞いた内容を思い返していた。遺体が見つかった部屋はプロがきれいにして、消臭も徹底するのは想像がつく。しかし、芳香剤とは。なんだかイメージが違うような。金木犀の香りの芳香剤、ハンドクリームなどの美容品はよく見るし、それが好き嫌いの分かれる香りであることは知っている。無理って感じではないんだけど、得意ってわけでもないのよねー、花屋やってんのにさ、と店長ですらこぼしていた。そんな香りのするスプレーを、消臭後の部屋にわざわざ振りまくものだろうか。とここまで考えて、まったくの素人が何を考えているのだ、と我に返る。花に携わっているぶん、においや香りについては敏感なのかもしれない。

テレビを点けてしばらくだらだらと過ごす。天気予報が夕方のニュースに切り替わる。隣町で起きた事件。何者かによって首を絞められ、と物騒なテロップが続く。なにげなく眺めていたが、あっと声が出そうになったのは、まさに向かいの新築マンションの外観が急に映し出されたからだった。

《警察は当初、自殺だと推定していましたが、いくつか不審な点があることから、再捜査を進めています。この事件は、先週発生した西岡町のものと酷似しており、同町の件についても……》

 ええ、と思わず声が漏れた。西岡町。まさにここだ。たまたま近所で起きたのが自殺ではなくて、だれかに殺された可能性もあるということ? 犯人はまだ……と思いを巡らせて、身体がぶるっと震えた。


 水曜日は買い物に行く予定だったが気が進まず、食料品の買い出しだけを済ませる。ニュースを見た人が多いのか、近所の人通りも心なしか少ないように感じられた。あの夫婦はどうなったのだろうか。警察がまた捜査に来るのなら、引越しどころではないのかもしれない。わたし自身、不安な気持ちのわだかまりを覚えつつ、明日から仕事が始まることにほっとしていた。店長に話したら、気を紛らわせられるかもしれない。

 翌日。休み明け早々、とことわってから、店長に早速ニュースの内容をかいつまんで話す。ラッピング用紙を仕分けする手を止めて、いつになく真剣な面持ちで聞いてくれた。

「それ、こわいね。犯人が近くにいるかもしれないってことでしょ?」

「そうなんです。直近は隣町で起きたらしいんですけど」

「無差別、ってやつなのかなあ。でも新築マンションなんて、オートロックとかきっちりしてそうなのに」

 もっともだ、と思う。知人ならまだしも、素性のわからない人を部屋に入れるだろうか。ただ、わたしたちは刑事でもなんでもないし、行き帰りとか来客にも気をつけることね、と念を押され、その日は仕事に没頭した。


 それから二、三週間は何事もなく過ぎた。というと語弊があるかもしれない。地域的に注意喚起を、ということで、不審な来客には用心するようにとの文書がポストに入っていた。マンションの前にはときおりパトカーが止まっていて、警察らしき人が出入りしていたことも何度かある。夫婦は外で争うことに疲れたのか、もう引越してしまったのか、共同玄関で見かけることはなくなった。宅配便は全て非対面で受け取れるようにしていたので、自宅にだれかが訪問してくることもなかった。

 テレビのニュースをこまめにチェックしたが、捜査の進展はなさそうだった。類似した事件も起きていないようだ。不審な点とかいっていたけれど、ほんとうに自殺じゃなかったのかな。これから何も起きないといいな、と願いつつ、徐々に警戒心や不安感は薄れていった。


「じゃーん」

 店長の今日のおやつは、サンタさんのイラストが描かれたチョコレート。まだ割引ではないので、自分用の一枚をただ見せてくるだけだ。いいですね、と応えつつ、夕方までに完成させる花束の花材を確認していく。クリスマスが近いこともあり、ギフトやアレンジメントの予約注文も増えてきた。手袋越しに水の冷たさをひしひしと感じつつ、しばらくはこれに耐えなければならない。

「今週あたり、来るかな。あの子」

「ああ、あのお見舞いの」

 大学生の彼女は、だいたい一ヶ月から一ヶ月半ほどのスパンで来てくれている。

「時期も時期だし、何かあげようかな……」

 世話好きの店長らしく、ぶつぶつとつぶやいている。常連客、特に年下の客には、イベントごとにちょっとした贈り物をつけるのが習慣なのだ。定期的に祖父のお見舞いに行くというあの健気な様子を思い返すと、その気持ちもわからなくはないな、と思う。

 そしてクリスマスを翌週に控えた金曜日、彼女はたしかに来店した。しかし、店長からの贈り物が受け取られることはなかった。


 風が強く窓に吹きつけてきた午後五時ごろ。作業台にふたりで並び、フラワーギフトを仕上げていると、ドアの向こうに小柄な人影が見えた。お、と店長が声をあげると同時にドアがひらく。

「いらっしゃい……?」

 ませ、と続かなかったのは、暗く沈んだ面持ちが浮かびあがったからだ。店長と目配せをする。

「どうしたの」

 茶髪をふわりと揺らして、店長が顔を覗きこむ。三秒ほど間が空いて、

「亡くなりました。祖父」

 震える声だった。数年間、闘病生活を送ってきたが、ついにそのときが来たらしい。

「でも、ここ最近、数値は悪くなかったんです。急変っていうか」

 いまにも泣きそうな彼女の背中を店長がやさしく撫でる。

「そうね。そういうことも、あるだろうね」

 わたしもお悔やみの言葉をかけようとしたところで、彼女は身震いをした。同時に、リュックに付いたピンクのクマも揺れる。

「お見舞いに行ったら……固まっていたんです。見たんです」

 どこか遠くを見ているような、焦点の定まらない目だった。そして自分の両手を首元にもっていって、覆うような仕草をする。

「こんな、感じで。苦しそうな顔で」

 窓ががたんと音を立てた。


 土日はどことなく沈んだ気持ちで働いた。店長も同じようだった。死に際の顔を目撃したという彼女の言葉、その仕草が幾度も脳に現れる。相当ショックだったのだろう。あのあと、少し店内で休んだら、という店長の声も聞かずにふらふらと帰ってしまった。お見舞いの必要がなくなったいま、もう会うことはなさそうだ。

 月曜のお昼ごろ。若い女性の二人組がやってきた。お店柄、女性客の比率の高さはめずらしくないが、やけにこちらをちらちらと見ているのが気になる。

「あの、どうされましたか。お花選びのお手伝いでしたら……」

 こちらから声を掛けると、二人は顔を見合わせて、なにかを決心したようにうなずいた。わたしの傍へ寄ってくる。

「中央病院の者なんですけども」

 コートの内側にネームプレートらしきものが揺れているのが見えた。看護師だろうか。張りつめた表情を前に、はあ、と曖昧に返事をする。奥にいる店長も聞き耳を立てているのがわかった。

「先週の金曜日、入院患者さんが亡くなられまして。それでその……」

 大学生の彼女の顔がぱっと浮かんだ。

「あの、お孫さんがおられた?」

「そうです、そうそう」

 ほっとしたように、もう一人の看護師が続けた。

「お見舞いのお花をよく飾られていて。最近も買われたんですよね?」

「最近というか……最後に来てくれたのは、先月の始めごろでしたけど」

 店長もいつの間にか横に立っていて、うんうんとうなずいている。すると看護師のふたりは顔を曇らせた。違うんじゃない、いや、でも、などと囁き合っている。何のことかわからず黙っていると、言いにくそうに一人が口をひらいた。

「その方が亡くなられたとき、強いお花の……においがして。ご遺体の移動後も、その部屋のにおいが、なんといいますか、消えなくて。それについて伺おうかと思っていたのですが。でも、あの、時期的にこちらのお店ではないと思います。失礼しました」

 最後は早口になり、ふたり揃って頭を下げてからいそいそと出て行く。狐につままれたような感覚で隣を見ると、店長も首を傾げている。

「なんだかよくわからないわね」

 花屋はもちろんここ以外にもあるけれど、いつも通うお店ではないところでわざわざ買うだろうか。また来ます、と笑顔で去っていく過去の彼女の姿を振り返ると、少し違和感を覚える。わからないことはしかたない、と作業に戻っていく店長の切り替えの早さに驚きながらも、それを見習うことにする。

 クリスマス用のアレンジメントを完成させ、オアシスに茎がしっかり刺さっているか細部まで確認していると、花の香りがぐっと近くなった。その瞬間、一ヶ月以上前の近隣住民の会話を思い出した。

「清掃とかはきちんとやるから……」「でも奥さん的にはむしろ、消したのに芳香剤っていうか……」

 風が強くなり、窓ががたがたと揺れた。正面からやや右寄りに飾った薔薇の赤い渦が、大きくひらいたように見えた。


 定休日の二日間は落ち着かない気分で過ごした。店長はあんな感じだったけれど、看護師たちの話はどうしても、隣町や向かいのマンションの事件と切り離せないような気がする。そして、死に際の祖父の様子を伝えようとした大学生の子の仕草。虚ろな目。あれはまるで……。

 考えすぎよ、考えすぎ。そう口に出すと、ほんとうに自分が余計な思考をしているように思えてきた。せっかくの休日で、しかもクリスマス直前だというのに。ラグに座り直して、電気毛布を引き寄せる。休み明けがちょうどイブの日だから、久しぶりにケーキでも買うのはどうだろう。近所においしいお店があるし。楽しみな予定があると、気持ちも晴れてくるようだった。やっぱり、余裕というのは大事だ。


 クリスマスイブの木曜日。店内の飾り付けも明日で終わりだ。きらめくガーランドの位置を少し直してから、予約をもらっているオーダーを整理する。今日と明日の夕方、受け取りのピークを迎える。

「店長、このアレンジなんですけど……」

 挨拶もそこそこに声を掛けると、なんだか様子がいつもと違う。どうしたんですか、と聞くよりも先に、店長は長い茶髪をかきあげながら、

「木下さん、聞いてくれる。うちの近くに一軒家があるんだけどさ」

 と話し始めた。昨夜、友人と飲んだ帰りに通りかかると、その家の前で違和感を覚えて立ち止まったらしい。甘いような、酸っぱいような、不思議なにおいがしたそうだ。もともと庭らしい庭もなく、ガレージがあるのみで、深夜なので家の灯りも点いていない。自分が酔っているのもあるし、気のせいかと思って今朝、自宅を出たら……。

「パトカーが来てたの。一家全員、亡くなってたみたい」

 青ざめた顔で、彼女は自身を抱きしめるように腕を組んで震えた。わたしも、冬の気温によるものではない寒気を覚え、首をすくめる。

「それでその変なにおいもね、なんだか強くなってて。気のせいじゃなかった。近所の人たちも言ってたし」

 先日の看護師の話を思い出す。店長もきっと同じことを考えているはずだった。

 しばらく無言で立ちつくしていたが、何かそれについて言おうとすると、ぐっと息が詰まるような感覚だった。長いため息をついて、ごめんね朝からこんな話、と店長は小さな声で言った。わたしは首を振る。おかしなことが身の回りで起きているのは明らかだった。

 仕事は仕事で我々を待っている。店内のクリスマスの明るい装飾のなか、わたしと店長は黙々と作業を進めた。客に通常通りを装って対応する。午後三時になっても、店長はおやつを買いに行かなかった。

 店仕舞いをして、言葉少なに店長と別れる。気をつけてね、という声は、自分に言い聞かせているようだった。


 そういえば、今日はケーキを買うんだった。いつも素通りしているケーキ屋さんのショーウインドーの前で、いちおう立ち止まってみる。苺のたっぷり載ったホールケーキに、ショートケーキやモンブラン。ツリーやサンタの帽子をかたどったデコレーションが色とりどりに添えられている。じっと見ていると、向かいから歩いてきた男性客が店のドアをゆっくりと開けた。その途端、洋菓子特有の甘ったるいにおいがぷうん、と漂ってくる。おいしそうなのは間違いないけれど、日中のことを思い出すと、気乗りしなかった。明日にしようか。クリスマス当日だし、一日あれば気持ちも切り替えられるかも。

 アパートに着き、暖房をつけてからベッドの端に座る。SNSをチェックしていると、【鈴原市 一家全員死亡】という見出しのニュースが目に飛び込んできた。鈴原市……店長の住んでいる地域だ。今朝話していたのはこれだろう。ため息をつくと、もっと暗い気分を呼んでしまう気がして、あわてて呑み込む。

 いったんお風呂に入ろうと立ちあがると、甘い香りがふっと立ちのぼった。先程見た、きらびやかなケーキの面々が脳裏に浮かぶ。少し立ち止まっただけなのに、思ったよりも服に残りやすいんだな、と思ってセーターを脱ごうとしたところで、わたしは動きを止めた。甘い、だけじゃない。なにか、柑橘のような酸っぱさも感じる。それでいて樹木の湿り気も帯びているような、そう、いつも仕事場で包まれている、これは……花?

 深呼吸をして、また大きく息を吸いこむと、さらに強い香りが鼻腔を刺激した。金木犀の香りに甘ったるさとアルコールを足したような。さらにあとから苦々しい余韻が追いかけてくる。暖かい部屋のなかで腋汗が滲む。これは。もう、香りではない。におい、といってもいいほどの強烈さに変わっている。わたしは口で息をした。「それでその変なにおいもね、なんだか強くなってて……」「その方が亡くなられたとき、強いお花の……においがして……」店長の声、看護師の声が重なってこだまする。意識するよりも先に、身体が窓へ向かう。必死で鍵を回し、窓を開け放つと、冬の夜の冷気が一気に吹き込んでくる。外の空気を吸おうとするのに、なぜかにおいは消えない。自分の鼻腔自体がにおっているような気さえした。

 耐えられなくなり、わたしはベッドに倒れた。呼吸はできているのに、鼻のなかに充満するにおいで気を失いそうだった。花のような、でも花とは認めたくないにおい。救急車。手を伸ばす。中指にやっと触れたスマホが、ベッドからごとっと落ちた。「こんな、感じで。苦しそうな顔で」ピンクのクマのぬいぐるみが揺れている。大学生の子の虚ろな目。薄れていく意識のなかで、暖房の風と外の冷たい風に挟まれながら、かたかたと震える自分の両手が見えた。「……固まっていたんです。見たんです」それが勝手に喉元へ伸び、ひんやりと重なり、すさまじい力で押し付けられて——


古川市・鈴原市一帯において、絞殺死体とみられる遺体が、およそ一週間おきに発見されている。頸部には自身の手が掛けられており、残っているのは本人の指紋のみ。遺体のあった部屋は、アルコールと金木犀をまぜたような、花の香りにも似た強烈なにおいに満ちていたという。このにおいは消える兆しがなく、最初の事件のにおいも弱まることなく、未だ残りつづけている。

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におい 石村まい @mainbun

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