愛嫁弁当
モンステラようこ
第1話 姑は頑固な小説家
「なあ、葉瑠ちゃん、頼みたいことがあるんだけど。」
夫の哲郎がこう言うときは、大抵面倒事であることを、葉瑠子は長年の勘で知っている。結婚して20年。夫婦二人暮らし。子どもはいない。子育ての悩みはないが、ささいな日常の問題に、ちょくちょく悩まされることはあった。
「頼みとは?まさか、また通販で高い買い物したからお金貸してとか?」
葉瑠子は背を向けたままため息まじりに、問い詰めた。
哲郎の浪費癖は今に始まったことではない。通販グッズが大好きでしょっちゅう余計なものを購入する。おかげで貯金がだいぶ減った。夫いわく、自分への投資だそうだが、結局タンスの肥やしになる。
「違う違う。実は、母さんの体調が悪くてさ。この間倒れたみたいなんだ。」
「えっ!?」
想像の上を行く答えに葉瑠子は思わず驚いて振り向いた。
「もしかしてお義母さん、入院したの?」
「いや、入院とまではいかずに済んだんだけど、ほら、独り暮らしだろう?放っておけなくてさ。」
その後に哲郎が続けようとした言葉を葉瑠子は
「いいよ、私、様子見に行ってくる。」
と、遮った。すると、
「なあ、葉瑠ちゃん、お願い。今の仕事を辞めて、母さんの世話をしてもらえないだろうか?」
哲郎が真顔で葉瑠子に詰めよった。
「仕事、、辞めろって、、言った?」
「悪い。頼むよ。母さん、頑固でさ。施設には絶対入りたくないって言い張るんだ。僕も出来れば母さんを施設には入れたくない。」
珍しく余裕がないのか、哲郎はいつもより早口だった。
「そんなの、急に言われても困るよ。」
「分かってる。でも、母さんを任せられるのは、葉瑠ちゃんしかいないんだ。」
哲郎は1人っ子だった。いざとなったとき頼れる相手は少なかった。
「哲ちゃんも知ってるでしょう。私の勤めている保育園は、ただでさえ今人手不足で、、」
「知っているよ、でも、保育士なんて、探せばいくらでもみつかるだろう。母さんには、葉瑠ちゃんが必要なんだよ。」
あまりに身勝手な相談だと葉瑠子は思った。第一、姑が本当に自分を必要としているのかさえ、疑わしい。
哲郎の母親、橘世津子は、現在、第一線で活躍中の小説家だ。本を書けば飛ぶように売れた。加えて、性格は相当な頑固者だった。初めて会ったとき、世津子は言った。
「うちの子と一緒になりたいなら、どうぞご自由に。その代わり、お互いのやることには一切干渉しないことにしましょう。要するに私、あなたに興味がないのよ。」
以来、夫の実家に足を運んでも、会話はおろか、挨拶もろくに交わすことはかった。
そんな姑も、1人息子のことだけは可愛いようで、毎年息子の誕生日には必ず高価なプレゼントを送っていた。
そのような相手が、自分のことを必要としているなんて思える筈があろうか。
だが、哲郎のいつになく必死な様子を見るのはなんだか心が痛かった。なんとかしてやりたいが、46という自分の年齢で、一旦仕事を辞めてまたどこかに再就職と考えるのも苦しかった。
「せめて一晩考えさせてよ。」
苦し紛れに言うと、哲郎はしぶしぶうなずいた。その目は涙で充血していた。
夫は夫なりに相当悩んだのであろう。母親に、孫を見せてやることも出来ぬまま、1人死なせることになるのが耐えられないのかもしれない。子どもがいない原因は、葉瑠子の体にあった。若い頃、病にかかり、子宮を摘出したのだ。大の子ども好きだった哲郎は、それを知ってから子どもが欲しいと一切言わなくなった。それが哲郎なりの優しさだったが、子どもを諦めきれず、職場に保育園を選んだ自分としては、かえって申し訳ないという思いが、葉瑠子の中には常にあった。
結局、哲郎の最後に見せた泣き顔が忘れられず、葉瑠子は仕事を辞めることに決めた。
人間、一番大切なのはやはり家族だ。
仕事も大事だが、今やらなければならないことは、体の弱くなった姑を助けることだ。哲郎が言うように、これはきっと自分にしか出来ない仕事かもしれない。結婚して、20年も経つのだから、姑も自分のことを半ば家族と受けとめてくれているだろう。そんな、甘い期待が心のどこかにあった。ところが。
葉瑠子はまだ完全には理解していなかった。姑のエッフェル塔のごときプライドの高さと、巨大岩石のごとき頑固さを。
「ふう。」
世津子は、原稿を書く手を止めてため息をついた。
久しぶりに息子から電話があったことを思い出す。
あんなに弾んだ声を聞いたのは、いつぶりだろうか。
「母さん、葉瑠ちゃんと二人で話したんだけど、母さんにはやっぱり助けが必要だよ。うちの葉瑠ちゃんがこれから母さんの二の腕になって頑張ってくれることになったから。」
(二の腕。あんなでくのぼうみたいな嫁に私の助けが務まるかってんだ。)
眉間に縦じわがよると、世津子のきつそうな容貌はさらに険しくなった。来月、75となる世津子だが、まだまだ現役バリバリで働けると自負している。何が嫌かって、他人に自分のテリトリーを侵されることほど最悪なことはない。世津子は、独りで暮らす今の生活に満足しきっていた。息子夫婦の気遣いははっきり言ってありがた迷惑なのだ。嫁の葉瑠子のことは、特別嫌いな訳ではない。しかし、これといって好きなところもない。息子の好みにとやかく言うつもりはないが、一体彼女のどこに惹かれて一緒になったのか、世津子にはさっぱり分からなかった。取り立てて美人という訳でもないし、特別会話がうまい訳でもない。哲郎の好きな女優は確か目の覚めるような美少女だった。てっきり面食いかと思っていたのに、息子といえど男の性分はよく分からない。
ピンポーン
玄関のベルの音で、世津子は我に返った。
「母さん、いるんだろう?仕事中?」
廊下の奥から哲郎の声が響く。時計を見るともう午後2時を過ぎていた。そうだ。昼過ぎに会いに行くから家にいて欲しいと、電話で言われていたのを忘れていた。
「仕事中よ。何の用?」
久しぶりの息子夫婦の来訪に、世津子は背中で返事をした。
「相変わらず仕事の鬼だな、母さんは。体調はどう?日曜日くらいゆっくり過ごせないの?」
「お義母さん、ご無沙汰しています。体調を崩されたと聞いて、心配していました。」
(心配していたなら、先に電話でもかけて聞けばいいものを、わざわざ来るなんて、時間も金ももったいないったらありゃしない。まあ、私の知ったこっちゃないけど。)
嫁に対しては、そんなひねくれた言葉しか浮かんでこない。しかし、口にすれば、相手は怒るか泣くかのどちらかとなろう。それはそれでまた面倒だった。
「母さん、電話でも話したけど、明日から葉瑠ちゃんが母さんのこと、手伝うから。朝8時頃から夜7時くらいまでだけど、それでいいよね?」
「いらないわよ、手伝いなんて。あんたたち、何勝手に決めているの。そんなに私を病人扱いしたいの?」
机に向かったまま、振り向きもせずに、世津子は言い放った。
「母さん、そりゃないだろう。葉瑠ちゃんは、母さんのために保育園の仕事まで辞めたんだよ。」
「そんなのこっちの知ったこっちゃないわよ。恩着せがましいにもほどがあるわ。私はこの通りピンピンしてるし、あんたたちの世話になる必要はないのよ。分かったらさっさとお帰り。」
声を荒げて振り返った世津子の顔はまるで夜叉のようだった。
葉瑠子は、すっかり怖じけづいて黙りこんでしまった。
「母さんの分からず屋。また、倒れたらどうするつもりだよ。せっかく葉瑠ちゃんが、、」
普段穏やかな哲郎も、このときばかりは語気が荒くなった。自分たちの選択が、余計なこととして片付けられることにどうしても納得がいかなかった。
「哲っちゃん、いいのよ、お義母さんの言う通りだよ、私たちちょっと勇み足だったのかも。」
40後半になっても、「哲っちゃん」「葉瑠ちゃん」と若者のように呼び合う二人が、世津子には疎ましく思えた。子どもじゃあるまいし、いい加減にしなさいと、怒鳴り付けてやりたくなる。しかし、夫婦の習慣にまで口を出すことは、世津子の理念に反していた。こちらは二人の生活に一切干渉する気はないのだ。ならば、そちらだって同じように接するべきであろう。自分が言いたいことはそれだけなのに、この空気の重さは一体なんなのだ。まるで私が悪者みたいじゃないか。世津子は一刻も早く二人を家から追い出したくなった。
「仕事の途中よ。用は済んだでしょう。もうお帰りなさい。」
世津子は、現在執筆途中の物語の続きに即座に脳内シフトチェンジを図った。架空と史実を織り混ぜた時代劇だ。作家、橘世津子の新境地というキャッチフレーズのもと、新聞に連載が始まった。つまらない現実など頭から全て消去しよう。体の健康がなんぼのものじゃ。何かを我慢してストレス抱えるほうがよっぽど不健康というもの。この原稿が完成したら、大好きなハイボールを飲みながら、古い映画でも観よう。フェデリコ・フェリーニにしようか、それともルキノ・ヴィスコンティ?サスペンスならヒッチコックも捨てがたいわね。
自分時間に思いを馳せることで、なんとか気を紛らわそうとする世津子は、哲郎のドスドス言う足音と、葉瑠子の鼻を啜る音がゆっくり玄関に向かって遠ざかってゆくのを耳にしながら、パソコンのデリート・キーをそっと押すふりをした。
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