第11話 ☆ 神様! 透を救って!! ☆
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それから数日も経たないうちに透の容態が急に悪変した。
「透くんの容態がおかしい!」
神社に暗い警告が鳴り響くと同時に、弥生の足はもう病院へと一目散に駆け出していた。
「今夜当たり本当に危ないかもしれない」
主治医の清野先生が深刻そうに眉間に皺を寄せながら弥生にそう告げる。
「透……死んじゃやだ……」
弥生の悲痛な声が、病院中に響き渡る。
白い手術台の上に横たわった透は瞬き一つしない。
「やっと事件が解決したのに……これから透といっぱい……いっぱい話したいことがあるのに」
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手術室へと向かう途中、弥生はずっと透の側に付いて泣きながら走った。
「透……」
弥生が一番好きな人が、遠くに行こうとしている。
「これで何度目の手術かな」
透が眠そうに弥生の目を見て訊ねた時の記憶が弥生の脳裏に鮮やかに蘇る。
「麻酔が効いてきたみたいだね……すぐ済むよ」
透は、まどろっこしそうに一つ二つと指を折って数えていた。
「4回目かな……縁起が悪いね。オレ、死ぬかもな」
「バーカ」
少し弱気になった透を勇気づけるように、いつも冷たくこう言ってやる。
「透、アメリカじゃあ。4なんて数字、全然縁起悪くないんだよ。逆に13もさ、少し前
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だったら日本ではみんな何とも思ってなかったってさ」
「ふふっ……」
透はこんな時、いつも唇の端を少し反らして微笑む。
そしてゆっくりと目を閉じる。その寝顔には不安も迷いも一つもないような、幼子が床に就いた時のような安らかな表情が漂っていて。
弥生はいつも安心して、手術室の透を見送る。
透が死ぬものか……弥生がこんなに透のことが好きなんだもの。
あんなに綺麗な透が死ぬものか。
でも……いつも手術中の真っ赤なランプが灯ると、弥生。目を開けていられなくなって。
病院の廊下でいつも一人すすり泣くんだ。
淋しいよ……透。
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弥生を一人にしないで。
もう弥生にこんな辛い想いをさせないでって……。
「それじゃあ、弥生ちゃん。控え室で大人しく待ってて。透君は重体だけどいつも通り、手術を行います」
透の担当の清野先生が、白いマスクを片方外して落ち着いた低い声で弥生に語りかける。
清野先生と弥生とはすっかり顔なじみで、弥生がお見舞いに行く度に、びっしり几帳面に細かい繊細な字で書き込まれたカルテを読み上げて、透の状態を克明に弥生に教えてくれた。
病気が回復して元気な時の透も、あの澄んだ薄茶色の瞳が優しく笑った時に、どれだけ弥生が喜ぶか。総て先生の頭の中のカルテに記されている。
「先生に……すべてお任せします」
弥生。清野先生に深々と頭を下げる。
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今、私に出来ることは清野先生を本当に信頼してすべてを任せること。
弥生。今度ばかりは清野先生の胸の中で本当に泣いてしまった。
「お願い……本当に弥生の一生のお願い。透を救って……」
清野先生の白衣の匂いは、少し消毒用のメチルアルコールの匂いがした。
もう涙が止まらなかった。
「弥生ちゃん。心配することはないよ。手術が成功するかどうかはすべて神の思し召し。だけど、一つだけ約束してくれるかな」
清野先生はそっと両手で弥生の肩を持って弥生の顔を白いマスクの上から真剣に見つめた。
「それは、何ですか……」
「すべてを受け入れること。ありのままに」
「すべてを……受け入れる?」
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「私の方としても最善を尽くすことしか出来ないんです。透君の命を救ってあげたいのは弥生ちゃんだけじゃなくてみんなそうなんです」
清野先生の目は少し哀しそうだった。
「分かりました清野先生。すべてを先生にお任せして……そして」
弥生。病院のリノリウムの床にしゃがみ込んで声の限りに泣いた。
もう人の目なんかどうでもよかった。
車椅子のお年寄りと、付き添いの看護婦が弥生の横を気を遣いながら通り過ぎて行くのが涙越しにぼんやりと霞んで見えた。
弥生を少し離れて見ていた透のお父さんとお母さんが慌てて駆け寄ってきて泣き叫ぶ弥生を抱き寄せた。
「弥生ちゃん、透は大丈夫。もう手術に慣れているんだから……座って待って……お願い」
透のおばさんの節子さんが、本当に自分も哀しいのにそんな素振りなど一つも見せず、
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悲願するように弥生の目を見つめ、そっと肩を優しく叩いた。
「先生……お願いします。透を助けて下さい」
弥生の心からの涙声は清野先生に通じたようだ。
清野先生は薄いナイロン製の手術用の手袋をしっかりとはめて、白い帽子をすっぽりと被った。
外科専門の先生が数人、清野先生の側に小走りで駆け寄ってきて先生を促した。
清野先生は軽く頷いて、透が横たわる手術室へと神妙な面もちで向かって行く。
弥生にはその無機質な足音がやけに大きく耳に響いた。
「透……死んじゃやだよ……」
弥生は透のお母さんに勧められるまま、階段を降りて待合室の横の自動販売機前のモス
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グリーンのソファーに腰を下ろした。
もう透の手紙が始まっている頃だろう。
弥生の脳裏に「手術中」の赤いランプが灯るのがぼんやりと霞んで見えた。
「神様……一生のお願いです。弥生の命なんかもうどうなってもいい……どうか透の命を助けて下さい」
廊下はひっそりと静まり返って、遠くの方でコツコツという看護婦さんの足跡だけが淋しく聞こえる。
弥生をこんな気持にさせたのは、今までの弥生のそんなに長く生きてない一生の中でも透だけだよ……。
もう……切なくてたまらないよ。
胸が苦しくて苦しくて、張り裂けそうだよ。
もう……弥生の命なんかどうでもいいよ。
今すぐ死んでも構わないよ。
弥生……透がいないとダメなんだよ……。
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何でこんな時になって分かるんだろう。
あまりにも悲しすぎて項垂れている弥生を見かねて、透のお母さんが、自動販売機で買った白い紙コップのオレンジジュースを持ってきてくれた。
「大丈夫? 弥生ちゃん」
弥生。じわじわと涙が溢れ出してくるのが自分でも分かった。
手術中の赤いランプが消え、緑のランプに変わり、しばらく間を置いてから清野先生が出てきた。
「弥生ちゃん、手術終わったよ」
「どうだったんです先生!透の容態は!!」
清野先生はゆっくりと白いマスクを外して弥生に落ち着いた静かな口調で告げた。
「透君は快方に向かっています。手術は成功しました。安心して下さい。弥生ちゃん」
「清野先生!!」
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思わず強い弥生が、清野先生の胸の中で泣き崩れる。
弥生が……強かった弥生が、透のことになるとこんなに弱くなるんだ。
本当に……こんなに弱い。
「弥生ちゃん、透に会ってもいいよ」
清野先生の優しい声で、はっきりと目を開ける。
手術室のドアは開いていた。
「やいちゃん……」
透が少し目を開いて、こっちを見てくれた。
いつもの「やい」の「い」を少し高く上げる独特のイントネーションで。
弥生の一番好きな呼ばれかた。
「透……」
もう二人の間に言葉は要らないね……。
弥生、この2ヶ月の間ほどに「命」の大切さについて。
考えさせられたことはなかった。
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弥生、この世界中で一番透が好きなんだよ。
透と一緒にこの小さな世界で息をして生きている───それだけで十分なんだ。
あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう───。
古いロックの歌詞が突然思い出されて口ずさむ。
透の命は綺麗だね───キラキラしてるよ。
窓の外は綺麗な朝焼けがどこまでもどこまでも果てしなく続いていた。
─── 終わり ───
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