第3話
それからはまるで夢のような日々だった。
他の婚約者同士が逢瀬を楽しむように、レイノルド様と過ごす時間が増えたのだ。
朝は毎日迎えが来て、昼食の時間になるとレイノルド様が私のクラスに現れ、帰りも共に帰宅する。私がずっと望んでいたけれど、欲を出してはいけないと口にはできずに諦めていた日々。
しかも、彼は事ある毎に「好きだよ」とか「今日の髪型はヴィアに似合っているね」だとか、私のことを心底愛する婚約者であるみたいに言葉を紡いでくるのだ。
始めは戸惑いの方が大きかったが、数日も経てば慣れてくる。ぽかぽかと心臓が温まり、彼と会うと上手く笑えなかった私も自然と笑えるようになった。
同時に、魔法薬の副作用が消えたらこの幸せな時間が終わってしまうことに恐怖を覚え始めていたのもまた事実で。副作用が消えずに、このままのレイノルド様でいて欲しいと密かに思ってしまうダメな私もいた。
だが、魔法薬を被ってしまってからきっちり一週間後。その日はきちんとやってきた。
毎日、エバンス伯爵邸に迎えに来ていたレイノルド様が今日は迎えに来なかった。しかも事故から一週間後だ。もしや記憶が戻ったのだろうかと登校後、すぐさま三年生である彼のクラスに向かった。
「レイ、今日は先に登校したの──……」
できる限り声が震えないようにして、窓際に座っていたレイノルド様に声をかけたのだが、振り向いた彼の表情に心臓が冷えていく。
それはこの一週間で慣れた優しい眼差しではなく、無表情なレイノルド様で。
「…………記憶が戻ったのですか」
「ああ」
ゆっくりと告げる言葉は冷ややかなもので、前髪をかき上げながら彼は続ける。
「──失態だった。この一週間のことは忘れてくれ」
苦虫を噛み潰したような顔をして言われてしまい、心臓がぎゅうっと締め付けられる。
やはり、愛しているように私に触れてくださったレイノルド様は魔法薬の副作用でしかなくて、本当の彼は私のことを嫌っているのだ。
……浮かれてしまった私が馬鹿みたいで、関係性が良くなるかもしれないと、微かに期待を抱いてしまった愚かな自分がつらい。
視界がぼやけてツキンツキンと痛む左胸を制服の上からぎゅっと掴む。
「シルヴィア?」
困惑したレイノルド様の声に下がっていた顔を上げると、つーっと温かな液体が頬を伝って落ちていく。
どうやら目からぽたぽたと涙を零しているようだ。ごしごしと拭うが止まりそうにもない。
「あ、すみ、ません。失礼しますっ」
泣いている姿を晒すのが恥ずかしくて踵を返す。
何事かとぎょっとしている学生の間を通り抜けて廊下を走り、空き教室に体を滑り込ませた。すると数分も経たないうちに廊下から足音が聞こえてくる。
「見つけたっ」
ばんっとドアが壊れてしまうのではないかと思うほど乱暴に開けられた。中に入ってきた人物に手首を掴まれ、引き寄せられる。そのままポスンと腕の中に囚われた。
泣いている姿なんて見られたくない。ぐちゃぐちゃな顔で私を捕まえた人物──レイノルド様を睨みつける。
「離してください」
どうして追いかけてくるのだろうか。嫌いな婚約者であるならば放っておけばよいのに。
「──大切な婚約者を私が泣かせたのに、そんなことできるわけがないだろう!」
「…………は?」
耳を疑うような単語が飛び出してきて思わず抵抗をやめてしまう。
「いま、大切なと仰いましたか」
「言ったが。君は大切で大事な私の婚約者だろう」
「?????」
魔法薬の副作用が切れたはずなのに、目の前のレイノルド様は一体どうしたのだろうか。
「この場には誰もおりませんから大切などという嘘はつかなくて大丈夫ですよ」
「なぜ、嘘だと決めつけるんだ」
「普段は話しかけても無表情で素っ気ないではありませんか。そんな方に今更大切だと言われましても」
「それは君が以前、大人びた人が好みだと話していたのを偶然聞いたから」
たしかに幼い頃、ナタリアに言った気もするが何年も前のことだ。当の本人が忘れてしまうほど気にも止めていなかった一言を、レイノルド様はずっと律儀に守ってくれていたらしい。それにしても極端すぎやしないだろうか。
「……私のことがお嫌いなのではありませんか」
「まさか! そんなわけがない。もしや、そう思わせていたのか?」
おろおろと戸惑うレイノルド様は血の気が失せていて、「やはり失態だ」と何やら呟き、はっとした彼は畳み掛けてくる。
「誤解なんだ! いや、今更誤解などと言われても納得できないだろうが、私はただ君のことが好きで好きで仕方がなくて君の理想の男性になろうとこのような態度を……誓って嫌いなわけではない」
「私からすると、嫌われているようにしか見えませんでしたが」
バッサリ伝えると、見たこともないほど肩を落として青ざめる。
「確かにジョナスにも時々苦言を呈されてきたが……シルヴィアが何も言ってこないから間違ってないのだと呑気になりすぎていたのか」
百面相をして後悔を滲ませた独り言を呟いている彼を見ていると、いつの間にか涙が止まっていた。
おろおろとするレイノルド様は記憶喪失前と全く違う。中の人が代わってしまったのだと言われても納得がいくくらいだが、本当の彼はこちらが素なのだろうか。
(私の言葉を素直に受けとって実行していただけということ?)
レイノルド様は寡黙な人だが、婚約者として夜会に参加する時は毎回律儀にエスコート役をしてくださり、「婚約者」という面では蔑ろにされたことは無かった。むしろ丁寧に接されていた気がする。
本当に私のことが嫌いならば、そういう面でも蔑ろにされてもおかしくはなかったのに。決してそのようなことは一切なかった。
私は彼の手をそっと両手で包み込む。
「シルヴィア?」
「私、レイノルド様ならどんなレイノルド様でも大好きです」
言って、私の想いが伝わるようにレイノルド様の頬にキスをした。結構大胆なことをしてしまったと顔を真っ赤にしながら見上げると、彼は私と同じくらい、いや、私より耳まで赤くして顔を隠していた。
「ただ、今までのレイノルド様ははっきり言って少し怖かったです。私のことを少しでも好ましいと思ってくださるのなら、表情に出したり、言葉にして頂けませんか」
「……善処する。いや、きちんと言葉にするよ。ヴィアのことを愛しているから」
刹那、レイノルド様の顔が近づいてきて。唇と唇が触れ合った。黄金の瞳は優しげに眇られ、もう一度強く抱きしめられた。
「今まで私の態度で傷つけてごめん。大好きだよ」
その後、記憶喪失期間中よりもっとずっと受け止めきれないほどの愛を囁かれることを知るのはまだ先の話だ。
寡黙な婚約者が一心に愛を囁いてくるまで 夕香里 @yukari_ark
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