それは天使が変えた花
花恋亡
十四時三十分頃
彼女とはあまり言葉を交わさない。
彼女は私をあなたと呼び。
私は彼女をトウカと呼ぶ。
トウカの見た目は派手で、飴色の肩まで掛かる髪を毎朝巻いて、そのせいで時間が無くなるから化粧は教室でしていた。
私とは正反対だった。
大きく見せている瞳の、重そうな長いまつ毛を褒めると、素顔なら私と同じだと言った。
見た目こそ違えど、同じ背格好だった。
部室棟の裏、私達の背丈より高い金網の向こう、下を走る道路まで三メートル程だろうか。
学校の敷地の終わりに座り、私達は多くの時間をここで過ごした。
足を投げ出し、金網を背もたれに街を眺める。
時に下の道路を覗き込む。
トウカは言う。
ここから落ちたら痛いかな。
私は言う。
うん、痛いだけだよ。
何度となく交わすこのやり取り。
私は言う。
押してあげようか。
トウカは何も答えず下を見つめていた。
ある時トウカはずぶ濡れでトイレの床にへたり込んでいた。
私は何も言わずトウカの前に立つ。
トウカは薄く笑みを作り、その長いまつ毛の先にある水の玉が、瞬きの度にころりころりと白い肌を滑った。
ある時トウカの無くなった鞄がゴミ捨て場で見つかった。
彼女は上履きの跡が幾つも付いた紺色の通学鞄を胸に抱えると、落書きが無くて良かったと私に言った。
私はただトウカを見つめていた。
ある時トウカのお弁当がチョークの粉まみれになっていた。
トウカのお母さんが毎日作ってくれるお弁当。
貴方の体を作る物だと思うと簡単に済ませられなくて、と片親で夜勤の仕事明けに作ってくれるお弁当。
トウカは水道で粉を流しながら一つ一つ口にした。
私はそれを眺めていた。
ある時トウカは下着を脱がされた。
私は下着が捨てられたトイレの個室をただ黙って見ていた。
下着を着けていない事を言いふらされ、それを聞いた男子達がからかい半分でトウカの後をつけた。
トウカが慌てて体操着を履く所まで見てる奴もいた。
ある時トウカの髪が短くなった。床に落ちる何ヶ月か分のトウカ。今しがたトウカで無くなったそれを、トウカは黙って箒と塵取りで片付ける。
私はトウカへついて行く。
そのまま学校を後にすると美容室へ飛び込みで入った。
一週間程のバイト代を支払うトウカは、苦い笑顔を貼り付けていた。
ある時トウカの手のひらにシャーペンの芯が刺さった。黒い点の周りが赤黒く滲みだす。トウカはもう片手で手首を力一杯に掴み、漏れ出ようとする声を押し殺した。
わなわなと震えながら、下唇を噛んで。
私は自分の手のひらを見ていた。
ある時トウカは足を滑らせ階段から転落した。階下の踊り場でうずくまるトウカは、先程までいた上階の踊り場を私越しに見ていた。
私はトウカの前にしゃがみ視界を塞いだ。
すると私の背中越しに誰かの笑い声が聞こえた気がした。
何処にでもある共学の公立高校の、何処にでもある人間関係。
何処にでもある過関心の、何処にでもあるありふれた無関心。
高い所から低い所へ行くだけじゃない。
広い所から狭い所へ溜まるだけじゃない。
物理法則とは無関係に起こる事だってある。
そうそれは役割りを与えられた誰かの勘違いでもなくて。
一羽だけ色の違う鳥が経験する不遇でもない。
意味と理由が解ならば、それを求める数式が成立しない問いだってある。
ただそれだけのこと。
何度目かのトウカの鞄が無くなり、トウカが何度目かのチョークの粉を食べ、トウカが何度目かのトイレの床にへたり込んだ時だった。
誰も居なくなったそこでトウカは右手を固く握り、振り上げ、力一杯に左胸を打った。
何度も何度も。
打ちつける。
私は言う。
何をしてるの?
トウカは言う。
肋骨を折ってるの。
私は言う。
それで折れるの?
トウカは言う。
ヒビくらいは入るの。
私は言う。
それでどうなるの?
トウカは言う。
そうするとね、息をするだけで痛いの。とても痛むの。息を吸う度に他のことがどうでも良くなるくらいに。私が生きてる限りに痛いの。
私は言う。
手伝おうか?
トウカは言う。
大丈夫、いつもこうしてるから。
私は何も答えずトウカを見下ろす。ぽたりぽたりと滴り落ちる何かを見つめながら。
スカートの中を冷たい風が過ぎる頃、私は屋上へ続く扉の前に居た。立ち入り禁止で鍵が掛かってる筈のその扉は僅かに開いていた。私が一歩踏み出そうとすると、扉が開きそこから何人かの男女が階下へと降りていった。半分は見慣れた顔だった。
私は屋上へと入る。
いかにも寒そうな姿のトウカはふらりふらりとよろめくように立ち上がり、赤くなった瞳で私を見つめてから歩き出す。
トウカは言う。
いっそのこと気でも狂ってしまえば良いと思ってた。頭がどうにかなって、おかしくなって、何も感じなくなってしまえば良いって。でもならなかった。なってはくれなかった。
だから、だからあなたが私の前に現れた時に思ったの、ああ良かったって。
でも、何で、何でこんな時に限って来てくれないの?
居てくれなかったの?
私は何も答えない。
トウカは言う。
もう、良いよ。良いんだよ。
かしゃりかしゃりと慣れた様子で金網を鳴らして、屋上の敷地の終わりに立つと、こちらへ振り返る。強く握った金網がぎちりぎちりと指に食い込んで痛そうだ。
トウカは言う。
ねぇ、お願い。
トウカが言う。
押してくれる?
私はトウカの手へと手を伸ばす。一つ二つと剥がして行けば、金網を握る指は次第にじりりじりりと浅くなっていった。
体重と重力が持つ熱量の、それを支える指先の、その接地面に掛かる摩擦係数を、トウカの華奢な指が耐えられる臨界点に達そうとする。
私はトウカの目を見つめる。
トウカは笑う。
目尻に皺が寄るほどに。
するりと何かが離れる一拍。
私は言った。
「ばいばい、冬華」
トウカが同じだという私のまつ毛からは、さらりさらりと水の玉が溢れた。それは冷たい風に影響されることなく、ただ真っ直ぐに。
下へと。
落ちた。
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