間違い探し
@kumehara
第1話 いつも通りの一日
~~♪ ~~♪ ~~♪ ~~♪
穏やかで心地の良い音楽が、スマホから流れてくる。布団に潜ったまま、腕だけを枕元へと伸ばして音源を手に取った。液晶の真ん中に停止ボタンが表示されているのが分かっているから、目を開くこともなく指先一つで演奏を中断させられる。
社会人になりたての頃は、絶対に遅刻するわけにはいかないと、目覚まし時計のような電子音を最大音量で設定し、毎朝跳び起きていた。しかし、今の部屋へ引っ越してからは、遅刻の心配がほぼなくなったので、無理やり跳び起きる必要もない。耳に優しいヒーリングミュージックを、ちょっと大きめの音量で鳴らせば十分だ。
目と脳が覚醒するまで、十数分くらい布団でもぞもぞした後、観念して体を起こした。小綺麗な羽毛ベッドから降りてスリッパを履き、バルコニーに繋がる掃き出し窓へと近付く。遮光性にも遮音性にも優れたカーテンを開けば、目が眩むほど目映い日光が差し込んできた。両腕を上げ、ググっと背伸びをする。新しい一日の始まりだ。
窓越しに外を見下ろすと、いかにも都会的な町並みに、忙しなく蠢く人並みが映る。それぞれの目的地を目指し、思い思いに、わらわら、わらわら。見ているだけで目が痛くなってくる。俺も数十分後にはあの群衆の一員になるわけだけど、支度ができるまでもう少しだけのんびりしていよう。
洗面台で顔を洗って、電気シェーバーを顔に当てる。毎朝髭を剃るこの時間、かなり無駄だよなあ。これが無くなるだけで、年間どのくらい自由な時間ができるだろう。思いきって医療脱毛するか。いやでも、もう少し歳を重ねたら、顎髭を整えるのも格好良くてアリだ。うん、まだ保留しておこう。
今朝は和食の気分じゃなかったから、冷凍保存していたバゲットを数切れ取り出して、ハムとチーズを挟んだフレンチトーストを作った。付け合わせには、レタス、トマト、スライスオニオンなんかを使ったシンプルなサラダ。カップに淹れたてのコーヒーを注いで、全部テーブルに運んで。
「いただきます」
誰にともなく挨拶し、黙々と腹に収めてゆく。「よく噛んで食べなさい」と叱る親も、逐一「美味しい?」と訊いてくる彼女もいない食卓は、なんとも気楽なものだ。行儀悪くスマホを弄りつつ、あっという間に平らげてしまった。
食器を片付け、歯を磨き、寝間着用のルームウェアを脱いでスーツに身を包む。姿見で身だしなみを忘れずチェック。よし、問題ない。スマホも持った。鞄も持った。腕時計も着けた。現在、始業時刻の四十分前。ちょうど良い時間帯だ。
汚れ一つないビジネスシューズを履いた俺は、今日も今日とて社会の歯車となるべく、自分の根城を後にした。
都心の一等地、駅から徒歩五分の立地に
職場に着くと、すでに出社していた同僚たちが、軽い挨拶をくれた。こっちも返事をするなり、手を上げるなりして適当に応答する。自分の席でPCを立ち上げ、メールやスケジュールを確認した。今日は、特に大きなイベントはない。いつも通りの平日である。
それから暫くして、俺が所属する営業課の課長が、始業時刻ギリギリに堂々とやって来た。
「皆、おはよう! 今日も馬車馬のように働こうじゃないか! はっはっは!」
「「おはようございま~す……」」
課長の妙なテンションにも慣れている同僚たちは、げんなりした様子で挨拶を返していた。俺も混ざって「おはようございます……」と呟く。たぶん届いていないけれど、頭を下げておけば挨拶を返したのは伝わるだろう。
今にもスーツからはみ出しそうなビール腹を携えて、課長がのしのしと自分の席へ向かう。通路に背を向けている俺の後ろを通過して行くものかと思ったのだが、課長は俺の真後ろでピタリと立ち止まり、両肩をがっしり掴んできた。
「やあやあ、
「え、ああ、そうなんですね。ありがとうございます。でも、俺だけの力じゃありませんよ。一緒に頑張ってくれたチームメンバー全員の手柄です」
「相変わらず謙虚なプロジェクトリーダーだな、キミは。まあ良い。今日中に先方から連絡が入るはずだから、粗相のないよう対応してくれ」
「はい」
上機嫌な課長が通り過ぎたのを見計らい、隣の席の同僚が「
朝一の朗報に、その日は同じ課の全員が浮ついている様子だった。
仕事を定時で切り上げ、件のコンペに関わったチームメンバーと、居酒屋で打ち上げをした。明日も平日で仕事があるから、酒はほどほどに。それでも皆晴れやかに笑っていて、俺もさらに嬉しくなった。
皆と別れ、ほろ酔い気分で帰路につく。会社の近くの店で打ち上げをしたので、ウチまであと二十分くらいだ。アルコールで火照った肌に、冷たい夜風が心地好い。
日付けが変わるか変わらないかという時間帯だったが、まだそこそこ人通りがある。駅の近くは特にだ。駅から出て来る人の群れと遭遇し、辟易しつつもかき分けて進む。
疲れた顔の人々とすれ違い続けていた、その時。ふと、一人の女性の姿が目に入った。雑踏の中、どうして彼女だけが気になったのかは分からない。しかし、何故だか意識を奪われたのだ。
白くて滑らかな肌、通った鼻筋、切れ長で色気のある目元、発色の良い唇、腰元まで伸びる真っすぐで艶やかな黒髪。浮世離れした美しさを纏ったその女性が、すれ違う寸前に、ちらりと俺のほうに視線を寄越してきた。流し目がまた一段とセクシーで、完全に酔いが吹き飛んだ。
一瞬の邂逅の後、俺は雑踏に押し流されてしまい、振り返った時には女性を見失っていた。茫然と立ち尽くす俺を、知らない人々が怪訝な顔付きで睨んでくる。何をすることもできなくて、ぼんやりしたまま家に帰った。
大きな仕事をやり遂げた達成感、楽しい気分で終えた飲み会後の高揚感、そして魅力的な女性に出会った興奮。アルコールとは違う熱が全身を駆け巡り、どうにも眠れそうになかった。どうにかして、この熱を発散したい。手っ取り早く済ませるために、俺はスマホの通話ボタンをタップした。四回目のコールで呼び出し音が途切れる。
「もしもし。悪い、起こしちゃった? ……ああ、そうなんだ。あのさ、今からウチに来られない?」
電話を切ってから約三十分後、玄関のインターホンが鳴った。一応セキュリティカメラで来客の姿を確認してから、施錠を解除する。
見慣れた女性が手を振っていたが、挨拶もしないままその手を掴んで内側へ引っ張り込み、再び施錠。間髪入れず、桃色のルージュが艶めく唇に噛み付いた。左手で彼女の頬を固定し、右手で体のラインをなぞる。彼女が鼻にかかった甘い息を漏らした。
「もぉ、えっちなんだから~。まだ玄関だよぉ? そんなにシたかったの?」
「分かってて来たくせに」
「えへへ~」
童顔で、毛先に緩いウェーブがかかった茶髪のショート。駅ですれ違った女性とは似ても似つかないけれど、スタイルは良いから、見て触れば俺の体はちゃんと反応する。互いに欲だけをぶつけ合う後腐れのない関係は、楽で良い。
キスとボディタッチを繰り返しつつ寝室へ移動し、気の済むまで快楽を貪った。
シャワーを貸し、タクシー代を多めに握らせれば、彼女は上機嫌で帰って行った。情事の名残が散見されるベッドに身を横たえ、ふぅ、と息を吐く。何だか、頭がズキリと痛んだ気がしたが、気のせいだろう。
何の変哲もない、いつも通りの一日が終わった。
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