悪魔さえ泣く

Mycenius

第1話 『血と呪術で交わされた契約』

エドリアン・ドラゲンはその日、自殺を計画していた。準備はすべて整っていた――扉は閉ざされ、仕事は終わり、暗闇が重い幕のように部屋を包み込んでいた。


「はぁ…結局のところ、死ぬって…ただ眠るようなものなんだろう?」


少なくとも、彼はそう願っていた。夢の中では、現実のように罪悪感が彼を残酷に苛むことはないだろうから。


「これで、彼女のことを考えずに済むかもしれない。眠ったままなら…これほど強く彼女を求めずにいられるかもしれない。」


彼は長く、苦々しいため息をついた。


目を閉じると、一瞬だけ女性の姿が脳裏をよぎった。それは刹那の幻影だった。厳しい眼差し、蜂蜜色の髪、熟れた桃のように柔らかな薄桃色の唇。しかし、そのイメージは何かに無理やり消し去られるようにしてすぐに消えた。


部屋の空気は重く、しかし完全に静まり返っているわけではなかった。壁の木材がきしむ音は、さながら錆びついた蝶番のようで、どこか苦しげに息をしているようだった。その部屋には贅沢の欠片もなかった。片隅には、4つのレンガの上に板を置いただけの簡素な寝床があり、小さく使い古された黒い揺り椅子にはエドリアンの最後の秘密が置かれていた。盗んだ料理用のナイフだ。それは小さく、刃も擦り切れていたが、3週間にも及ぶ計画の末に手にした、その取るに足らない物に彼の覚悟が込められていた。


一方で、エドリアン自身は土の床に座り込み、背中をその黒い揺り椅子に凭れさせていた。


彼は再び、理不尽さを噛み締めるようにため息をついた。


最初は、縄を使おうと考えた。


『だが、奴隷が縄なんて持てるわけがない。』


次に、自分の服で代用しようとしたが、最初の試みで布は破れてしまった。シーツがあれば使えたかもしれない…だが、シーツで眠る権利など彼にはなかった。


彼はまた、敷地で最も高い建物から飛び降りることも考えた。風が彼の身体を包み込み、命も罪悪感も全てを吹き飛ばしてくれるような光景を思い浮かべた。しかし、他の奴隷たちが自分の遺体を片付ける姿を想像しただけで、思いとどまった。そんな利己的なことはできなかった。自分のせいで他の奴隷たちが後始末を強いられるのは耐えられなかったし、奴隷主が彼らに怒りをぶつける姿も目に浮かんだ。


「もう…生まれてきただけで、十分迷惑をかけている。」


その思考は、エドリアンを一つの結論へと導いた――刺すしかない。静かな死。それが、他人の生活を邪魔しない終わり方だろう。何の音も立てず、何も成し遂げることなく、ただ存在しなかった者として消えていく。状況に流され、押しつぶされ…はぁ…一体、どれだけのものに縛られてきたのだろう?


彼の目はナイフに向けられた。冷たく、簡素で、致命的。彼の視線は自らの身体を這い、外科医のように致命傷を与えるべき正確な場所を探した。


『心臓か?それとも喉か?』


できる限り速く、苦痛の少ない方法を模索しながら。


しかし、世の中は皮肉なもので、彼の腹が鳴った。それは死にたいという願望への抗議のようだった。エドリアンは苦々しく、悲しげに微笑んだ。死刑囚ですら最後の晩餐を許されるが、自らが裁判官であり執行人である彼にはその特権すらなかった。


「男は人生で三度泣くと言う。生まれたとき、母を失ったとき、そして結婚するとき。」


エドリアンは、どこかで聞いた老人の言葉を思い出しながら、三度目の息を吐いた。それは悲痛なため息だった。


「だが、母には会ったこともない…そして結婚なんて…ああ、あの女性は…星のように手が届かない。」


今日感じている痛みは激しいものだったが、初めてのものではなかった。似たような痛みを、彼は過去に三度経験している。


エドリアンは思い返した――


最初の痛みは10歳のときだった。幼い頃から彼を育ててくれたアルバートという男が、息子として養子にすることを拒否したときのことだ。その拒絶はまるで魂を引き裂かれるような衝撃だった。


二度目は15歳のとき。幼馴染であり、彼が唯一愛した女性と共に誘拐され、奴隷として売られたときだった。彼女の際立った美しさは彼女を「戦利品」として目立たせ、エドリアンは守ることもできず、彼女との運命が永遠に分かたれるのをただ見ているしかなかった。


そして三度目。それはごく最近のことだった。2か月前、彼女が主パトリックの息子の一人に目を付けられたと知った日だ。そのとき、運命は決まっていた。あと3か月で、彼女はこの家の側室の一人となるのだ。


『側室』。


その言葉は呪いのようにエドリアンの頭の中で響き、骨の髄まで毒が染み込むようだった。その言葉を繰り返すだけで吐き気を催し、彼女に何が起こるのかを考えるだけで苦しめられた。だから彼は、彼女の名前を呼ぶことをやめ、忘れようとした。それでも、今日、この最後の日だけは、自分の知らないふりを続けることができなかった。


そして、エドリアンは愛する女性の名前を口にした。


「シグリッド。」


なんて甘美な名前だろう。その名を思い出した瞬間、エドリアンの手に握られたナイフは震えた。


「シグリッド、シグリッド…」


彼は囁いた。それはまるで、奇跡を呼び起こせるかのようだった。彼女は単なる思い出ではなく、ただの女性でも、ただの友でもなかった。シグリッドは彼のすべてだった。それでも、今日のエドリアンにとって彼女は「何者でもない」存在だった。


「俺たちはみんな嘘の中で生きている、そうだろう!でも、もう君を知らないフリなんてできない。」


罪悪感の波が彼を飲み込み、忘れたと思っていた記憶を引きずり出した。彼女の顔、瞳、唇、声――彼女の全てを鮮明に思い出したのだ。日々、夜ごとに、彼女を救うための方法を幾度となく考え抜いた。


だが、どれ一つとして成功しなかった。


それなら、彼に何が残されている?友の残酷な運命を知りながら、それでも生き続けるのか?


シグリッドが貴族の息子たちによってその朝、強姦される運命にあることを知りながら、それでも生き続けるのか? そのとき、エドリアンにとって答えは明白だった――『死んで、彼女を知らなかったふりをするほうがいい。』


最後のため息――4回目のそれは、乾いたもので、虚無に満ちていた。もう何一つとして戦う理由が残っていないかのようだった。


「でも、どれだけ自分に嘘をつこうとしても、結局君がいないなんてことにはできない。」


死ぬという決意は、失敗のたびに、閉ざされた扉のたびに強まっていった。しかし、その罪悪感は彼の心を引き裂いた。彼は自分自身に嫌悪感を覚えた。


自分の一部は、生きている資格などないと強く信じていた。一方で、もう一つの自分は、自分には慈悲深い死すらふさわしくないと思っていた。


エドリアンはナイフの刃が自分の喉を切り裂き、深い眠りへ、問題も罪悪感もすべてが溶けて消える深淵へと連れて行く様子を想像した。そこには、彼を裁く者などいない。心の奥底で、シグリッドに最後の謝罪をした。


「今なら…泣いてもいいかもしれない。」


だが、涙は出なかった。無理やり絞り出そうとしたが、せめて一滴でも欲しかったのに、身体はその呼びかけに応じなかった。おそらく、彼は泣き方を忘れてしまったのだろう。あるいは、あまりにも長い間泣いていなかったせいで、その感覚さえも失ってしまったのかもしれない。


彼はナイフの刃を喉にあてがった。刃は冷たかった。同時に、鋼の圧力で皮膚が裂ける感覚があった。部屋は脆い沈黙に包まれた――重苦しく、息苦しいほどの静寂だった。


そのとき、壁の木材のきしむ音が耳に入り、一つの問いが彼の心に浮かんだ。


『死の味ってどんなものだろう?』


それを苦い味、あるいはもの悲しい何かと表現することはできなかった。それは罪悪感の味だった。彼の手はナイフをしっかりと握り直した。口の中に鉄の味――血の味が広がる中で、エドリアン・ドラゲンはナイフをさらに深く喉に押し当て――


「お前、一体何をやってるんだ!」


突然、扉が勢いよく開いた。


エドリアンは、まるでいたずらを見つかった子犬のように驚き、心臓が激しく鼓動した。


                △▼△▼△▼△


敷居に男が現れた。彼はまるで暴力を職業としているかのような正確さで、鈍器を振りかざし、エドリアンの頭に向かって投げつけた。

乾いた音が響く──バン!

痛みが瞬時に襲い、エドリアンの意識は霞んだ。ナイフを握り締めていた手からそれが滑り落ちる。彼は本能的に頭を押さえた。


「お前か…またお前か!いつもお前が厄介事を起こす!」

その男の声は怒りに震えていた。抑えようとしても抑えきれない憤りが、言葉の端々に滲み出ていた。エドリアンはかすむ視界の中で瞬きを繰り返しながら、頭の中を整理しようとした。

『あれは…主人のパトリックじゃないか?』

いや、今回は彼ではなかった。彼を発見したのは屋敷の執事、ドゥイだった。


痩せこけた骨のような体つき、鷲鼻、そして青白い顔。その顔には怒りが燃え盛り、目を光らせてエドリアンを見つめていた。

『ちっ、しまった。もっと早く動くべきだった!』

エドリアンは焦りながらナイフに手を伸ばした。しかし、その指先が冷たい金属に触れる前に、ドゥイが素早く彼のそばに迫り、容赦ない蹴りを放った。


「ぐはっ!」

エドリアンは床に倒れ込み、肺から息が漏れた。立ち上がる間もなく、もう一度蹴りが飛んできて、ナイフはベッドの下に転がり、完全に手の届かない場所へ追いやられた。


「今度は俺まで殺そうってつもりか?自分の命を絶つのに失敗して、主人の怒りを恐れ、今度はこのナイフを俺に向ける気だったんだな!」

床に倒れたまま、エドリアンは執事を見上げた。頭の中で痛みが響き、息を整えようとするが、体は言うことを聞かない。

『違う、そんなことはしない。この屋敷の誰かを傷つけるなんて…』

正直なところ、そうしたくないわけではなかった。単にできなかったのだ。しかし、ドゥイは自らの妄想に取り憑かれ、耳を貸そうとはしなかった。


「呪われた奴隷め。お前は悪の化身そのものだ!」

ドゥイはエドリアンの髪を乱暴に掴んだ。


「違うんだ…理解してください」

エドリアンは懸命に言葉を紡いだが、ドゥイは聞く耳を持たなかった。


「分かるさ、すぐに分かる!」

「待ってください!執事ドゥイ、お願いです!」

「待ってやるさ。お前がどうなるのか楽しみだからな!犬の罰を与えてやる。主人に歯向かう者はその程度で十分だ!」

「お…お願いします…」

「ああ、死が望みなら、死をくれてやるさ!それが唯一の救いだ!」


痩せこけた外見とは裏腹に、執事の力は驚くべきものだった。兵士ほどの腕力はないが、痩せこけた衣服をまとった奴隷を引きずるには十分な力があった。


ドゥイはエドリアンを長く薄暗い廊下へと引きずっていった。廊下の両側にはいくつもの扉が並び、それぞれが悲惨な運命へと繋がる出口のようだった。

歩みを進めるたびに、エドリアンの胸には深い悲しみと理不尽への怒りが湧き上がった。

『なぜ…なぜせめて自分の望むように死なせてくれないんだ…?』


ドゥイはエドリアンを叩き、押しながら暗い廊下を進ませた。彼を待っていたのは階段だった。地下へと続くそれは、奴隷たちを屋敷の目につかない場所に閉じ込めるためのものだった。特に暑い夜には、その臭いが屋敷に広がるのを防ぐためだったのだ。


エドリアンが体勢を立て直そうとするたび、執事は彼を力任せに引っ張り、再び倒れさせた。そのたびに苛立ちが胸の内で膨れ上がり、彼は歯を食いしばった。

『なぜだ?シグリッドを連れ去られ、彼女と共に俺自身も失った。それなのに、死を望むこの気持ちさえも奪うつもりか』。


このまま抵抗を続ければ、執事が耐え切れなくなり、命を奪う可能性も十分にあった。しかし、それが密かに彼が望んでいたことではなかっただろうか?

それでもエドリアンは首を振った。ドゥイの手によって自らの命を終わらせられるなど、考えるだけで身震いした。


確かに彼は死を望んでいた。それはまるで、彼がいなくても太陽が毎日昇ることと同じくらい確かな事実だった。しかし、主のパトリックを挑発し、彼に殺されるよう仕向けるのはどうだろう?再び、エドリアンは首を振った。

『主人の手によって死にたくはない』。

だが、なぜだ?

『この家の誰にも俺の死を決めさせたくない!人間の条件のもとでなんて絶対に嫌だ。ましてや主パトリックやその召使いたちの命令でなんて…』。


彼はすでに多くを奪われていた。自由、命、そして愛さえも。彼は自分の死を選ぶ権利さえ奪われることを許せなかった。せめてそれだけは、せめて最後の意志だけは自分のものにしたい。

『理不尽だ。苦しい』。


死の考え自体は耐えられるものだったが、彼に耐え難かったのは、自分の最期がパトリック家の人間の意思によって決まることだった。その瞬間、エドリアンの心には強い決意が芽生えた。いや、決意以上の、深い絶望が彼を支配した。そして、わずかに残る力を振り絞り、執事のドゥイを横に押し倒した。二人は床に倒れ込み、取っ組み合いになった。


「なんだと、この…!」

ドゥイが怒鳴る。二人は数秒間もみ合い、ドゥイはエドリアンの長い髪を力強く掴んでいた。

「ちっ!このろくでなし奴隷が!」

「俺は…ちっ、ただ死にたかっただけだ」

「死にたいだと?望みどおり殺してやる!」

「死にたいさ。でも、お前の手で死ぬなんて、そんな屈辱は耐えられない!」


ついにエドリアンは執事の骨ばった手から抜け出し、裸足の足で老人の顔を蹴り飛ばした。一瞬の迷いもなく、彼はふらつきながら立ち上がり、階段に向かって走り出した。しかし、階段を上がった先にも出口などないことは彼自身が一番わかっていた。その先に待つのは、パトリック家の裏庭。そこに自由など存在しない。


『それでも構わない!』


そう思うと、エドリアンは暗闇の中を進み続けた。何度もつまずき、時には這いつくばりながら、彼は全身の力を振り絞って階段を上がり続けた。彼はただ、かつて自分のすべてを奪った者たちから少しでも遠ざかりたかった。すべてを奪われた彼には、もう何も失うものがなかった。ただそれだけを支えに、彼は進んだ。しかし、階段を上りきったとき、力尽きた彼は膝をつき、パトリック家の裏庭の土の上に倒れ込んだ。


風が吹き、乾いて砕けやすい葉が舞い上がり、その動きに合わせてカサカサと音を立てた。エドリアンは周囲を見ることなく、ただじっとしていた。彼の感覚は鈍く、唯一集中していたのは、執事ドゥイの足音と声。その声が階段を上って徐々に近づいてくるのを、彼は耳で感じていた。

「奴隷どもめ!面倒ばかり起こしやがる!」

ドゥイの怒声が響いた。


その叫びにエドリアンは反応した。本能的な衝動で、彼は前へと這い始めた。それは、まるで海を目指して砂浜を這い進む生まれたばかりの亀のようだった。捕食者の餌食になる前に目的地にたどり着こうとする必死の動き。

彼の手は土に沈み込み、息は荒く、途切れがちだった。彼は周囲に目を向けることなく、考える余裕もなく、ただ進み続けた。ただ進むことだけが、彼を支えていた。


進む、進む…たとえその道がどこにも繋がっていないように見えても。

進む、進む…たとえ世界全体が彼に背を向けているとしても。

進む、進む…たとえその行動が狂気の沙汰であったとしても。


背後から、風のざわめきと葉の音の間に、再びドゥイの荒い声が聞こえてきた。

「このろくでなしの奴隷が!俺の厄介事め!」

だが、エドリアンはそれを気にしなかった。庭の闇の中を這い進むこと以外、彼の興味を引くものは何もなかった。遠くから別の声も聞こえてきたが、それはぼんやりとしていて意味をなさなかった。それでも、エドリアンにはわかっていた。彼らもいずれ自分を止めようとするだろうと。しかし、それもどうでもよかった。灯された松明の光が自分の体を照らし始めたとしても、彼は気にしなかった。ただ、逃げたかった。ただ、進みたかった。


突然、震える血にまみれた彼の手が何かに触れた。それはざらざらとして不規則な感触で、どこか湿り気を帯びた温もりがあった。それは、冷えた体が再び温まろうとするような生々しい気配を漂わせていた。


エドリアンはゆっくりと顔を上げた。汗と血で濡れた髪が額に張り付いていたが、それでも彼ははっきりと見えた。


それは――まさに「悪魔」そのものだった。


「スッ…ギシ、ギシ、ギシ。ハッ…」


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