ぬいぐるみ博物館へようこそ

沼野まぬる

第1話 森の中の怪物

 うっそうと茂った森の、少しひんやりした空気の中、カディスは薬草を探して歩き回っていた。

 発熱や悪寒に効くミカヅキソウを、同居人のルピナに頼まれたのだ。周囲は薄暗く、気を抜くと苔むした場所で足を滑らせたりしそうになる。17歳の少年にしては小柄なカディスには、岩や木の根を乗り越えて薬草を探すことでさえも一苦労だった。簡素な上着は枝に引っ掛けたせいでほつれており、ルピナに「仲間の証」としてもらった紫色のブローチも上着から転げ落ちそうになっている。

「あ……あれかな、ミカヅキソウ」

 三日月のような形をした銀色の葉が、暗がりの中に光っている。カディスはそれに手を伸ばそうとしてかがみこんだ。

 ふと、背後からガサガサという音がして、何かの影が地面に広がる。このあたりには大型の獣なんていないとルピナが言っていたのに。

嫌な予感がして振り向いた瞬間、カディスの右肩を固くて乾いた、尖ったものがかすめた。

「……なんだよこれ」

 そこには、巨大な枯れ木に似た何かが立ちはだかり、黄色い目でカディスを見下ろしていた。再び、先ほど肩をかすめたらしい枝なのか腕なのか分からないものが振り下ろされる。

 カディスは、動悸と冷や汗に襲われながら枝、もしくは腕の下を潜り抜けた。そのまま無我夢中でそこから逃れようと駆け出す。背後からガサガサという音が迫ってくるが、振り返る勇気などあるはずもない。心臓は口から飛び出しそうで、足がもつれかける。時々背中に当たる枝の感触が恐怖を加速させ、自分のものとは思えないほどの荒い息遣いがうるさく耳に響いていた。


 不意につま先が何かに引っかかって、バランスが崩れる。そこに小石があったことに気付いた時には、枝が伸びてきて体に絡みついた。抜け出そうと体をよじると、怪物の体にあるうろのようなものが目に入った。中には黒い牙が数十本生えている。それが自分にかじりつくことを思わず想像してしまい、一層鼓動が速くなる。腕の擦り傷を増やしながら必死にもがいても、ブローチが襟元から外れてどこかへ飛んでいっただけで、怪物はびくともしなかった。枝はさらに強く体に巻き付いていく。

「誰か助けて!」

絞りだした声が木々の間に空しく吸い込まれていくように感じた。枝による圧迫のせいで息もうまくできない。目の前が暗くなっていく。このまま何者なのかさえも分からない怪物に食べられてしまうんだろうか。

 目を閉じかけた時、視界の端で何かが光った。1つではなく、無数の光るものがこちらに向かって飛んでくる。流れ星のように見えるそれは、カディスに巻き付いている枝に次々と突き刺さった。枝が根元から折れる。カディスは支えを失って地面に転げ落ちた。

「離れて!」

鋭い声に従い、這いずるように怪物から遠ざかる。

カディスが解放された後も、光る何かは次々と怪物に襲い掛かっていった。みるみるうちに、怪物の全身がガラスの破片のようなものに覆われて元の姿が見えなくなる。そのまま怪物はボロボロと崩れ落ちていった。恐る恐るそちらに目をやる。そこにはただ、もろくなった木の残骸が散らばっているようにしか見えなかった。刃も消えてなくなり、地面が濡れている。どうやら刃は氷でできていたようだ。


 尻もちをついていることに気付いて、擦り傷の痛みに耐えながら立ち上がると、自分を助けてくれたらしい人物と目が合った。薄紫の、星を閉じ込めたような不思議な瞳。そこに少しかかっている銀色の髪。首元には、黒っぽい石のついたチョーカをつけ、深緑色をしたフード付きの裾の長いコートを着ている。なぜだか、その肩の上には白いたわしのような丸い体で、頭の上に一本の金色の角が生えているぬいぐるみが乗っていた。大きなフクロウくらいのサイズで、結構な存在感がある。

 背が伸びて子供の頃とは雰囲気が変わっているけれど、彼には以前会ったことがある。

「アズ……?」

そう呼びかけると、目の前の少年は少し首を傾げると戸惑ったように口を開いた。

「……カディス?」

アズは、カディスが以前住んでいた町―フタロにある養護施設で暮らしていた。正確な年齢は分からないけれど、おそらく同い年くらいだろう。

最初に会ったのはアズが施設で暮らす他の子供たちと一緒に、並木道の草むしりをしていた時のことだった。こちらを見ている薄紫の瞳が、父親が経営する宝石店で人気の宝石に似ていたから、ふと話しかけて名前を聞いただけで、特に仲良くなりたかったわけではない。

 ある日、ひょんなことからクラスメートと喧嘩になって、その拍子に家の鍵を落とした時、偶然通りかかったアズが探すのを手伝ってくれて、その時彼が魔術を使えることを知った。だけど今のような、氷の刃なんて見たことがない。

 アズはカディスが大きな街にある寄宿舎に入る少し前に、町を出てどこかへ行ってしまったと聞いた。あれももう5年も前のことだ。問題を起こして養護施設を追い出されたという噂はあったけれど、詳しい事は何も知らない。


「カディスだよね。どうしてこんなところに?」

アズの言葉で我に返る。

「えーっと……まあ、仕事で」

これが仕事と言えるのかは微妙なところだが、一応そう言ってもいいだろう。

「仕事?カディスってたしか宝石店を継ぐんだよね?こんな森の中にも支店を作るの?町からはだいぶ遠いと思うけど……」

そうか、とカディスは思い出した。実家の宝石店が倒産したのは一年ほど前だから、すでにその時町を離れていたアズが知らないのも無理はない。

「もう店はないんだ。店っていうか家ももうあの町にはないんだけど。で、今は薬草採集が仕事って感じ」

アズは返答に困ったように少し間を置くと、言った。

「そっか、これから寒くなるから体には気を付けて。僕は今この近くにある博物館で働いてるからよかったら遊びにおいでよ」

「博物館?こんなところにあったんだな」

「うん。ぬいぐるみ博物館っていうんだけど」

「ぬいぐるみ?」

アズの肩に乗っているぬいぐるみを見る。こういったものが展示されているんだろうか。

「各地から集まったぬいぐるみを展示しているんだ。それと、捨てられたぬいぐるみや持ち主の分からないぬいぐるみを修理して必要としている人に引き取ってもらったりもしているよ。僕は受付の係で……あ、受付を放ってきちゃったから戻らないと」

アズは踵を返した。その背中に呼びかける。

「アズ、助けてくれてありがとう」

アズは振り返ると目を伏せて言った。

「あれは僕じゃないんだ。今魔術は使えないから。じゃあ、仕事に戻るね」

駆け足で去っていくアズの背中を見送りながら、カディスは不可解な気持ちを抱えていた。氷の刃を出したのがアズではないなら、一体誰なんだろう?まさか、あのぬいぐるみ……?

そういえば、アズの肩に乗っている時に少し動いていたような気もしてきた。まあ、そんなことはないだろう。

 一息つくと、怪物にとらえられた時についてしまった傷口が痛み出した。今日は一旦ルピナのところへ戻ろう。薬草はまた明日取りに来たらいい。

 カディスは、来た道を戻り始めた。


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