因果応報の勧め

柔所布亭霧食

因果応報の勧め

今よりも余程昔の話なのか、甲斐国とかいう聞き馴染みのない国が登場する。甲斐国と言われて、どんな場所を思い浮かべるだろうか。現代とは全く違う町に、現代とは全く違う人々が生活を営んでいたのだ。やはり、想像に及ばないだろう。むしろ、物語を読んでいるかのような、現実味のない作り物の話のような気さえする。


それは、国司という仕事も同じである。

ここには、国司という仕事がある。現代では教科書でしか聞かないため、私もよく知らない。おそらく、公務員のような仕事と言ったところだろう。当時の日本を統治していた朝廷が、全国を支配するために、各地に配置した役場がある。そこで働くのが国司。

現代の公務員は、就けば将来安泰、採用される者は精明強幹の、一目置かれる仕事だ。そんな国司を務める、ある男がいた。


「この資料をまとめたら帰っていいぞ」

上司が、十二単ほどある分厚い書類を押し付けてくる。今日はどうしても定時で帰りたい。いかんせん、前日は丑の刻前に寝たせいで、体が鉛のように重く、可及的早急に休息を求めているのである。その証拠に、目の下には墨で塗ったかのようなくっきりとした隈がある。これも、上司に押し付けられた雑務を片付けていたせいだ。この上司はいつも、自分の仕事を他人にやらせようとしてくる。そのくせ、人の失敗をここぞとばかりに指摘し、毎日飽きずに部下を叱責している。肩書きばかり偉くなった、ただの無能だ。どんな仕事でも文句を言わずに引き受けている自分の方が、よっぽど偉い。

「了解しました」

そんな不満を押し込めつつ、決して上司の顔を見ないようにして、十二単書類を受け取る。


結局仕事を終えたのは、定時を二刻ほど過ぎた夕暮れである。残業さえしていなければ、まだ日の明るいうちに帰宅出来たというのに。

「いてっ」

馬にまたがっていたせいで、木の枝先が額を掠めた。その傷口から、かすかに血が流れる。

「どうして俺が…」

袖で額をこすり、乱雑に血を拭う。

どうして、自分ばかり仕事を押し付けられるのか。血で滲んだ袖を眺めながら、ため息をついた。こころなしか、あの上司の怒りで紅潮した顔に似ている気がした。ぞんざいに袖を振り払い、手網を握りなおす。

すると、山道脇にある草の影が、不自然に揺れたように見えた。それほど深い山でもない。野生の狸か鳥か、どうせそんなところであろう。それであれば構う道理は無い。

もう一度、大きく、揺れた。いや、猪や鹿なんかであれば、どうだろうか。馬に突進してくる猪を想像し、馬を止め、その場で様子を見ることにした。

生い茂る草の中を、じっと見つめる。すると、根元の方から先程よりも大きく揺れ始めた。と思ったのと同時に、二匹の小狐が姿を現した。どうやら、二匹でじゃれあっていたらしい。まだこちらに気がついていないようで、嬉々として取っ組み合いを続けている。

遊ぶのがいちばん楽しい時期なのだろう。動物はいいものだ。働かなくとも寝るとこはあるし、食事にも困らない。それに、不埒な上司に悩まされることもない。

そう思うと、無性に腹が立って仕方がなくなってきた。不当な労働を強いられてくたびれた自分と、呑気に遊んで暮らす狐たち。自分の哀れな姿と狐を比較して、あまりの不条理さに憤りを覚える。

そのうさを晴らしてみたい。そんな欲望が頭の中をよぎる。それを自覚してしまってからは、ほとんど反射のように、弓を構えていた。次の瞬間には、片方の小狐目掛けて弓を放っていた。その矢尻は、見事腰に命中し、反動で小狐は倒れ込んだ。もう片方の小狐が、傷を負った兄弟にかけより、仕切りに顔を舐め始めた。どうやら、生死を確認しているらしい。

一通りうさを晴らしきったような心持ちがして、そのまま見逃してやることにした。

人間と狐では、あまりにも力の差がありすぎる。ましてや、相手は子狐である。一匹や二匹、生殺与奪の権利を奪うなんて造作もない。なんだか、小狐たちの命を自由にできることに、優越感を覚えた。

小狐たちを後にして、再び帰路をたどった。


山道が開け、町の中央を通る大通りに出た。両脇には庶民の家々が並んでおり、その四町程先にある突き当りに自宅がある。決して大きくない門の前を、何か小さな影が横切ったように見えた。その影は、先端が燃えた枝と重なっているように見え、目をこらすと輪郭がぼんやりと浮かんで見えた。

「まさか。いや、そんなわけが無い」

自分の目が信じられなかった。そこに居たのは、先刻自分が射抜いた小狐ではないか。相手もこちらに気がついたようで、これみよがしに、松明を家に放り投げた。瞬く間に家は燃え上がり、夜の大通りを照らす。為す術ないとは分かっていても、いてもたってもいられず、思わず家のそばまで駆け寄っていた。家は、油でもまいてあったのかと疑ってしまうほど、火の粉をまきあげながら燃え続ける。そして、呆気なく真っ黒い炭へと姿を変えてしまった。

直前まで心を満たしていた優越感は、波が引いていくように消えていった。散々仕事に痛めつけられた挙句、帰る家すら失うなんて、惨めを通り越して哀れに思われた。家だったものから、黒い煙が細々と立ち込める。最後に残ったのは、くたびれた自分だけであった。

草の影に逃げていった小狐の腰には、血の跡がくっきりとついている。


動物の命を弄ぶことほど、つまらないことはない。しかし、動物を意味もなく痛めつけたこの男の行為を、全く批判することはできるのだろうか。仕事や学校、人間関係、私生活。現代であっても、不満の根源は至る所にありふれている。つまり、この男のような過ちは、誰にでも起こりうることなのである。これを作り物の昔話と思いながら読んでいた読者の皆さん、これからも、この男のような過ちを犯すことはないと断言できるだろうか。

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