第1章 愛と王子と消えゆく高校生たち

第1話

 波が穏やかにさざめく音と、ざらざらとした感触の中で僕は目覚めた。それまで自分が何をしていたのか、どうしてこんな場所に仰向けになって倒れているのか、目が覚めて呆然と朝焼けの空を見つめても分からなかった。


「…というか、何も思い出せない?」


 僕は直近の記憶だけではなく、その他の記憶を呼び起こそうとしても、まるで何も思い出せないことに気がついた。


 咄嗟に僕はもっと単純で、必ず覚えているであろう自分のパーソナルな記憶について掘り起こそうとした。


 名前…年齢…住んでいる場所…好きな食べ物…


 何も、思い出せない。


「嘘だろ…こんなことって」


 言葉とか、今いる場所がどこかの浜辺だとか、握った手の中にあるのは砂の感触だとか、そういった知識的なことに問題はない。


 自分のことに紐づけられる記憶だけが、綺麗さっぱり無くなっている。


「−−目覚めたか」


 視界の外、しかし倒れている僕のすぐそばから厳かな口調とは裏腹に鈴の音のような声。


 誰かいるとは思っていなかった僕は、びっくりして思わず飛び起きてしまった。視線を声のした方へと向ける。


「…えっと、誰?」


 少し大きめの黒いセーラー服を着た少女だった。長い艶のある髪と、黒色が強調される大きな瞳。全体的に黒が印象的だ。背丈や、少し幼さを残す顔立ちから、中学生くらいの少女だということはわかる。


 自分の年齢を具体的に覚えていない僕だが、多分彼女は僕よりも年下だろう。


「私は…今は遠藤ミコと名乗っている。だがひとまず私のことは置いといて、だ。お前、自分の記憶がないのだろう?」


 遠藤ミコと名乗ったその少女は、無表情でなんでもないように、そう言った。そう、今の僕にとってとても重大な問題だ。


 しかしあまりにもスルリとその話題が出てしまったが故に、僕はどうして彼女が僕の記憶喪失について把握しているのかという不自然さに気がつくのが一拍遅れてしまった。


「…どうして、記憶のことを」


「当然だろう。そういう風にしたのは、私だからな」


「は?」


 遠藤はまたもや何でもないように、波打つ浜辺の先にある朝焼けの水平線を見つめながら口にした。


 記憶喪失の原因が彼女にある。僕は責め立てるような気持ちと、それに相反する疑念によって、喉を通った言葉が一度引っ込んだ。


「まぁ、お前の身体と精神に何が起こったかは、いずれ理解はするだろう。それよりも、ほら」


 それまで気が動転していたせいで気がつけなかったが、遠藤は片手に大きな黒色のリュックを掴んでいた。そしてそれを僕の目の前に放り投げた。


 どさりと砂埃を立てながら、僕の前に置かれる黒いリュック。僕はそれと遠藤の顔を交互に見る。


「それは元々お前が持っていたものだよ。そこに、お前の身分証明証とかはあるだろう。見たところで記憶が戻ることはないだろうが…とりあえずお前が何者かはわかる」


 そう言われて僕は手のひらについた砂を払うこともせずに、リュックを引っ張り、中を開いた。大口の箇所にはノートパソコンと何かコード類、衣服類もあったが、求めているものではない。


 次にサイドのポケットをいくつか調べていくうちに、革製の財布らしきものが見つかった。僕はそれを開き、中にあるカード類を漁る。


「…あった」


 見つけたのは顔写真付きの身分証明書。そこには僕のものであろう身元情報が記載されている。ただ身分証明書の顔写真を見てもあまりピンとこない。


 当然だ。僕はまだ自分の顔を見ていない。


「おい、こっちを見たまえ」


 身分証明書の顔写真と見つめあっているところに、遠藤ミから声がかかり、僕はそちらを向いた。


 彼女は手鏡を持っていて、その鏡面を僕の方に向けていた。視線が合うのは、身分証明書の顔写真と同じ顔−−つまり、僕の顔。


 式島奏多。年齢は17歳。春生まれで、住んでいるのは都会の方だ。


 自分のことはわからないが、この身分証明書のことや、書かれている地名などは分かる。なんとも綺麗に自分のことだけが抜け落ちた記憶喪失だと、ここまで来ると奇跡にも思えるくらいだ。


 しかし僕の眉間は以前寄ったまま。都合がいいのは記憶のことだけじゃない。自らこの記憶喪失の原因だという遠藤というこの少女もまた、随分とご都合的な状況ともいえる。


 彼女は一体何者なのだろうか。このままその言葉に耳を傾けることは正しいことなのだろうか。


 もはや僕には何も判断することができない。


 現実味のない状況、徐々に押し寄せてくる焦燥。


「実感もわかず、混乱しているといったところかな?」


 そんな僕の様子を冷めた観察者のような視線で見下ろし、ポツリとこぼすように言った。あまりにも今の僕の心境を的確に言い当てていたことに、もしかすると僕の心の内まで彼女には分かっているのではないかと思ってしまう。


「あ、当たり前だろ…!なんだよこれ、何も思い出せない…そしかもれをあんたがそうしたって?…一体何がどうなっているんだよ」


「思い出せない、というのは厳密には違うな。お前は記憶…というより、かつての自己そのもを喪失している。忘れているだけなら思い出すかもしれないが、お前の場合は思い出すことはない」


「は、はぁ?」


 難解なことを言っているのか、そういった言い回しをわざとしているのか。とにかく混乱している僕の頭の中に、彼女の言葉の意味は響いてこない。


 ただ思い出すことはないという断言には、確実にそうであると、微塵も可能性はないという冷徹さがあった。


 波の音と、風の音が耳の中に入り込んでくる。僕は遠藤という少女の瞳を、それでも懐疑的に睨みつけた。


「…ふむ、もっと直接的な言い方の方がいいか。つまり、かつてのお前は死に、新しく生まれ変わったということだ。厳密には死んだ肉体を再利用し、そこに仮初の魂を入れたというところか」


厳密には仮初の魂以外を私が復元したというところだがね」


「何を言っているんだ…? 生まれ変わり? 仮初…魂?」


「なるほど…であれば、これならどうだ? ネクロマンサー…確か日本でも、創作の世界などで描かれているだろう」


 遠藤の言うことに思考での理解が追いつかない僕であったが、ネクロマンサーという単語には聞き覚えがあった。ゲームや漫画といった創作世界の中で、死者を操る者を指したものだ。


「…屍に朽ぬ生を与える者。まぁ、我々の宿願は完全なる魂の復元を果たすことだが…しかしイメージとしてはそれが一番近い。私は、現実に存在するネクロマンサーというわけさ」


 遠藤はそう言って薄平な胸を張る。無表情なのに得意げな印象が伝わってくる。


「それで…死んだ僕を、君が蘇らせてくれたっていうのか?」


 押し寄せていた波が引いていく。


「蘇らせたわけではないが…まぁ概ねそうだ。それにしても、お前は運がいい。処置したのが、私のような熟練の術師だったのだからね。その辺の木端術師じゃあ、ここまで綺麗に人格を残すことはできない。ひどいものだと、B級ホラーのゾンビのように…」


「馬鹿馬鹿しい。あぁ、ほんと最悪だ」


 僕は立ち上がって、こめかみを抑えた。記憶がなくなって、混乱している中に訳知り顔でいたものだから、ついつい話を真剣に聞いてしまった。


 記憶喪失なのは自覚もあるし、そうなのだろう。でもそれにしたって、実は一度死んでいていて、それで復活した、だって?


 そんな馬鹿馬鹿しい話があってたまるものか。


「お、おい! お前、どこにいく気だ」


 僕は立ち上がってそのまま、肌についた砂を払いながらその場を後にしようとしていると、後ろから引き留める遠藤の若干焦ったような声が届く。


 今思えば、話の途中で見せていた彼女の雰囲気に充てられていたのも悪かった。よくよく向き合えば、そういう言動をしている、そういう年頃の少女じゃないか。


「どこにって…そりゃとりあえず病院だよ。記憶失ってるなんて、そう信じてもらえるか分からないけど」


「何を言っているんだ。今のお前が病院に行ったら大変なことになるぞ」


「大変なことぉ? 少なくとも今の君の話を聞き続けているよりはマシだろう」


 何がどうなって僕は記憶を失って、目覚めざまに痛々しい女の子の妄言を聞かなければならない、なんて大変で面倒な事態になってしまうのか。


 …とにかく病院に行こう。少なくとも、目の前の少女よりはまともな所感をもらうことができるはずだ。


 僕は気にせず歩き出そうとし、


「【立ち止まれ】」


 一瞬、波の音が全て掻き消えたかと思うくらい、背後から聞こえてきた遠藤のその言葉が輪郭を持って聞こえた。


 そしてどうしてか僕の体はそれに抗うことができない。踏み出そうとしていた足は、まるで杭でも打ち込まれたかのように上がらない。息が止まった。心臓の音だけがバクバクと、事態の異常さに遅れて気がついたように大きくなっていく。


「やれやれ…これはあまり使いたくなかったのだがね。しかし、理解させるにはやはりこれが手っ取り早いか」


「な、にを…」


 かろうじて、僕は口から絞り出すように、背後の遠藤に言葉を向けた。


「何か勘違いをしているようだが、お前が病院に行けば大変な目に遭うというのは、今の状態が普通の生きている人間とはあまりにも異なるからだ」


 言いながら、彼女は硬直している僕の目の前に回り込んだ。


「いいか? お前の身体は生きているように私が偽装しているだけであって、本来は死んだ身体だ。そんな状態で精密な検査なんてものを受けてみろ。生きられる状態じゃないのに生きている生命体として、一躍時の人になるぞ」


「そんな−−」


「【黙って私の話を聞け】」


 僕が言葉を返すのを遮って、遠藤はまた命令を発する。僕は意思に反してその言葉に逆らうことができず、口が強制的に閉ざされた。


「まぁ、聞け。お前の言いたいことはわかる。どうせここに至ってもまだ、私の言葉を信じられないのだろう? それだけ私の再現が完璧に近いということだが、ここまでくると少々面倒でもあるな…全く、天才というのは辛いな」


 突然自画自賛する遠藤に呆れを取り越した憤りをぶつけてやりたいが、なぜか未だ僕の口は硬く開かない。どれだけ力を入れても、たった一言すら喋ることができない。


 自分の意思が、自分の身体に反映されない。その抗いようのないとてつもない違和感と恐怖、そして焦り。


「さて、お前が私によって創られた存在というものを、証明してやろう。言葉ではなく、実感という認めざるを得ない形でな」


 混乱に堕ちている僕の頭の中に、まるで強固な壁の向こう側から浸透するように遠藤の声が入り込んでくる。


「まず一つ目が、今のこの状態だ。私がその気になれば、お前は私の言葉に逆らうことはできない。つまり私によって再現されたお前は、本来私の支配下にあるということだ。もっともそれは私の理念から大きく外れてもいるがね。だからこれっきりだ。安心したまえ」


 遠藤は指をぱちんっと鳴らした。その瞬間、それまで硬直して動けなかった身体が解放される。突然肉体の操作権が移り変わってしまったせいか、僕はバランスを崩して尻餅をついてしまった。


「嘘だろ…」


 どういう仕組みなのか分からない。でも確かに僕の身体には今、僕ではないーー遠藤の意思が介在して、それを優先した。


「さらにもう一つ証明しよう。これではっきりと、お前が如何に生きている人間と異なるかが分かるはずだ」


「そんなの…どうやって」


 遠藤が微笑みながら僕の方にゆっくりと歩み寄ってくる。動けない僕としては、これから何が行われようとしているのか、戦々恐々とした気持ちを抱きながら受け身になるしかない。


 僕の全ては今、彼女に独占されている。


 遠藤の頭が、僕の胸の少し下あたりにくる。僕は唯一動かせる目だけを動かすと、上目遣いでこちらを見る彼女と目が合った。


「簡単な方法さ」


 −−ドスッ


 遠藤の体が僕の方へと倒れ込んできたかと思うと、次の瞬間鈍い音が身体の芯に響いた。


「えっ…?」


「さぁ、これが紛れもないお前の正体だ。【自由にしていいぞ】」


 そう言いながら、遠藤は勢いよく、それを引き抜いた。


 およそ少女である遠藤が持つには、あまりにも無骨で大きなサバイバルナイフ。どこにそんなものを持ち隠していたのか。


 しかしそんな疑念はすぐに霧散する。何せ、それは引き抜かれたのだ。どこから、というのはその刃を染めている鮮血が物語っている。


 僕はカクカクと歯車じかけの人形のように首を曲げ、自分の腹を見た。


 血が勢いよくこぼれ落ちているーーそれを認識した瞬間、焼き付くような痛みに呼吸が引っ込む。


「−−−−ッ!」


「痛いか? だがその痛みは本物ではない」


 遠藤の言葉は、まるで聞き覚えのない言語を聞いているようだった。僕は立っていられなくなり、その場に崩れ落ちる。


 咄嗟に腹から吐き出される血を、体をくの字にしてうずくまり、手で出血箇所を力一杯押さえた。


「その身体はもう死んでいる。今のお前は全てが仮初だ。よって、その痛みでさえ仮初。そう、仮初であり錯覚だ」


 まるで血が止まる気配はなかった。指の隙間からどくどくと血が溢れていく。それに伴って、痛みが激しくなり、思考が真っ赤に塗りつぶされた。


「はーーぁッ! はッァ」


 呼吸が上手くできない。この苦しみが痛みによるものなのか、それとも呼吸ができないせいなのか分からない。


 どれくらいの時間が経ったのか。ほんの数秒のような気もするし、何時間も経っているような感覚もある。血はまだ勢いを止めない。そして今度は寒さがやってくる。


 力を込めていた手が、腕−−いや体ごと震えている。どれくらい血を失ってしまったのだろう。視界が明滅している。何もかもが、直前まで感じていた焼き付くような痛みでさえ、朧げになっていく。


 感覚が麻痺しているのだろうか。おそらく血が流れ過ぎてしまったのだろう。先ほどまでは激痛の津波に呑み込まれていたが、それが引いていく感覚。代わりに思考が冴えてくる。


 そして一つの疑問が浮かんだ。


 人はどれくらいの血を流せば死ぬのだろうか。


 傷はあまりにも深かった。流れた血も嘘のように大量だった。具体的にどれくらいの血を失えば、人は死ぬのか僕は知らないが、それでもおかしいことは明らかだ。


 少なくとも今こうして思考が巡っていることがおかしい。僕はいつ死ぬのか、いつこの意識が途切れるのか。


「どうだ? そろそろ分かっただろう」


 隙間から入り込んでくるような声。それまでは全く聞こえていなかった遠藤の声がはっきりと聞こえてくる。


 僕はまだ死んでいてなかった。

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