02

「痛ぇ……」

 マノンに打たれた右の頬を抑えながら、少年はうめいた。

 毛を逆立てんばかりにして怒った副院長が、少年の首根っこを捕まえて声を上げる。

「まったく、これ以上悪戯するんじゃないと何度も言っただろう! おまけに今度は大事なお客様に何てことを……!」

「客ぅ?」

 怒鳴られても大した反省の色は見せず、疑わしげな顔で目の前の大人たちを眺める、赤毛の少年。

 マノンはダヴィッドの影に隠れて、顔を真っ赤にしてふくれていた。


 その後──。

 小さな診察室で、ダヴィッドとマノン、副院長と少年の四人が顔を合わせていた。


 少年は年の頃を十三。名前を、サイモンといった。

 マノンは引き続きダヴィッドの背後で肩を震わせている。怯えと怒りが半々といった顔で、恨めしげに少年の方を睨んでいた。


「子供とはいえ、病院内で騒ぎを起こすのは関心しないな」

 対してダヴィッドは冷静沈着な態度を崩さなかった。──少なくとも、表面的には。


「仰るとおりです、サイデン様。申し訳なかった……この子には今一度厳重に注意しますので、どうか御容赦を」

「それは構いませんが」


 平謝りしてくる副院長に比べて、サイモン少年は憮然とした表情だ。

 入院患者用の白い寝着からすらりと伸びた、少年らしい細い手足、薄いそばかすの乗った桃色の頬。マノンの一歳年上だというこの少年は、受診のための椅子に座りながら、懲りずにダヴィッドの背後のマノンをちらちらとうかがっていた。


 その度にマノンはダヴィッドの後ろに引っ込み、びくびくと少年の様子を垣間見る。

 まるで狼と子ウサギだ。

 しかも性質たちの悪い狼で──


「なあ、おっさん、あんた誰?」

「サイモンッ!」


 命知らずでもあるらしかった。蒼白になった副院長が、もう一度声を上げる。ダヴィッドは呆れて眉を上げた。しかし、少年のこの豪胆さは……なかなか面白い。

 ダヴィッドは基本的に、子供に寛容だった。


「俺はダヴィッド・サイデン。この子にせがまれてね、病院を見学させてもらっている」

「ふうん……親子?」

「そんなところだ」

「そっか」


 サイモン少年は片手で頭をかいて、何かを考えているらしかった。

 四人の間に短い沈黙がながれる。

 それを破ったのは、溜息交じりの副院長の声だった。


「サイモン、もう病室に戻りなさい。何度も言っただろう、君の身体は──」

「分かってるよ!」

 なかばヒステリックにサイモンが叫んだ。それと同時に、今の今まで元気だったサイモンの顔にかっと赤みがかかり、急に何度も乾いた咳を繰り返し始めた。


「…………」

 突然のことで、ダヴィッドとマノンは驚きと共にサイモンを見つめた。

 咳は長く続き、副院長が慌てて用意した水を飲まされるまで、終わらなかった。

「サイモン……無理をすると危ないと、何度も言っただろう。大人しくベッドで休んでいないとどうなるのか」

 少年の肩をゆっくりと撫でながら、副院長が言う。


 水を口に含んだことで少しずつ落ち着きを取り戻しはじめたサイモンは、副院長の言葉になんとか小さく頷いたが、悔しそうに潤む瞳は隠せていなかった。

 溢れんばかりの元気さの後だったから、それは余計に際立って──。

 よく考えればここは小児医院なのだ。そして彼は患者である。


「病……気……?」

 マノンはダヴィッドの薄地のコートの裾からほんの少し顔を出して、聞いた。サイモンが顔を上げる。

「へへ……気になる?」

「そ、そんなんじゃないわ。でも、苦しそうだったから……」

「そうだなぁ」


 ふざけてはいるが、心底嬉しそうにサイモンは笑った。けれどそれは少し、どこか切なさを含んだ微笑みでもあって、マノンはドキッと心臓が軽く高鳴るのを感じた。

 しかし、次にサイモンの口から出た台詞が、全てを台無しにする。


「キスしてくれたら、教えてやってもいいぜ」




 当然、少年の願いは叶わなかった。

 サイモンはすぐに副院長により病室へ戻され、ダヴィッドとマノンの病院見学がまた元通りに再開された。

 院内を一通り見て回ると、時間もすでに昼に差し掛かるところになり、これからまた忙しくなるだろう副院長を案じて、二人は『ドロレス小児病院』を後にした。

 帰りの馬車の中、ダヴィッドもマノンも普段より少し無口だった。


 その夜、マノンがダヴィッドの書斎の前を通り過ぎると、普段は固く閉められている扉がうすく開いているのが目に入った。

 思わずそっと扉の前へ張り付いて中を覗くと、ダヴィッドが読書用ソファの上で長身を横たえながら本を読んでいるのが見えた。


 ──怒られちゃうかな。

 マノンはそう恐れて、扉に手を掛けるのをためらった。


 優しいダヴィッド。

 しかし忙しいときに仕事の邪魔をしたり、怒らせたり、逆らったりすると、彼は誰よりも怖い人へと変わってしまうのだ。ダヴィッドにはどこかそんな裏表があって、それは彼の複雑な昼と夜の顔がそうさせているのだろうと……マノンはなんとなく理解と納得をしていた。


(今、入ったら……怒られちゃう……?)


 扉の隙間からのぞく、彼の真剣な顔に、マノンは傍へ行きたい欲求を飲み込んだ。

 こうやって真剣に調べ物をしている彼に、そうと知らずに甘えて駆け寄って、きつく叱られた記憶が──少なからずある。まだ拾われたばかりのころ。何も知らなかった、出逢ったばかりのころ。


 あれから何年か経って、マノンは幾つかのことを覚えた。

 覚えたけれど、それだけでは埋まらない溝が、未だに二人の間に深く横たわっているのをマノンは知っている。その程度には、もう大人なのだ。


 迷った末、マノンは扉から離れることにした。

 瞼を伏せ、扉に掛けかけた手を引くと、そのまま踵を返す。するとその時、

「入ってきたらどうだ」

 低い、抑えた単調なダヴィッドの声が扉の奥から聞こえて、マノンは再び瞳を上げた。


 扉の細い隙間からのぞくダヴィッドはまだ本に目を落としたままで、微動だにしていない。しかし、わざわざ視覚で確認しなくても、彼は足音や気配などを簡単に察してしまう。どうやら最初から気付かれていたらしい。

 小さく息を呑むと、マノンはそっと扉を押して、中へ顔を出した。


「入って、いい……?」

 ダヴィッドは本を見たまま、答えなかった。

 しかし、答えなかったことこそが肯定の印で、マノンは淡く微笑むと、確かめるような足取りで書斎の中へ入っていった。



 ダヴィッドの書斎。

 両端の壁に高く貼り付けられた本棚は濃い茶色の木製で、最上部の棚に届くためのハシゴが掛けられている。部屋の中央奥に大きな仕事机があって、そこがダヴィッドの『昼の顔』の中心だった。背後には大きな出窓があって、今は月が見える。


 ダヴィッドのいる読書用ソファは出窓よりもっと手前、入口際の壁に添って置かれている。

 マノンは何も言わず、そっとダヴィッドの腕の中にもぐり込んだ。


 背後にダヴィッドの広い胸、両脇に彼の腕、そして目の前には、彼の読んでいる本が。

 落ち着いた匂いがした。

 本には所々挿絵が描かれていて、人間の人体を解説しているような趣で……多分、医学書と呼ばれる種類の本なのだろう。どうしてダヴィッドがそんなものを選んだのかは分からないが、彼は、とにかくあらゆる種類の本を読んだ。


 文字は読めるが、マノンが目を通すのは詩集とか、少女向けの冒険話とか、その程度だ。

 次のページを捲ろうとして動いたダヴィッドの手を追って、マノンも一緒に本の上に手を滑らせた。

 その不器用な動きを、ダヴィッドが低く笑う。マノンは顔を上げた。


「……邪魔、しちゃった?」

「いいや」

 答えながらも、ダヴィッドは相変わらず本と向き合ったままだ。

「そうだな、お前がページを捲ってくれ」

 そう言われて、マノンは頷いた。


 それからしばらく、二人はそのままでいた。次のページが必要になると、ダヴィッドがあごでマノンの耳の少し上辺りを軽くつついて合図を送る。するとマノンが慌ててページを捲る。

 なんとか一緒に読んでみようとも思ったが、速度が違う上、半分以上の単語がマノンには理解不能だった。


「病院に行ったから、これを読んでいるの?」 

 マノンが訊くと、ダヴィッドは頷いた。

「あの男の子、どうして病院にいたの? 何の病気だか、ダヴィッドには分かる?」

「さあ……そこまでは聞かなかったからな。どうした、気になるのか」

「す、少し……」


 あの朝の出来事。

 マノンに無理矢理口付けを迫ろうとした乱暴な少年は、しかし、何かを患っているらしかった。

 それ以前に、マノンにはあまり同年代の少年との関わりがない。彼の登場はマノンという少女の人生に、かなり衝撃的なものだったのだ。しかし。


 答えの代わりに、ダヴィッドは深い溜息を吐くと、やっと本から顔を上げて天井を仰ぎ見た。


「まさかこんなに早くから、──が必要になるとは、な」



 ダヴィッドの『──』は、マノンにはよく聞き取れなかった。

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