プロローグ

01

 苦しいのは、走り続けることそのものよりも、ゴールが無いことだった。

 見えないのではない。無い、のだ。


 駆け抜ける先に目指したのはゴールではなく、ただ走り続けることだけが、この世界を生き抜くたった一つの条件だった。だから走った。

 終点のない長い道の果ては、太陽に照らされて輝く美しい月だった。



【太陽と月の終わらない恋の歌 プロローグ 1.】



「はぁ……っ、はあ……!」

 前へ、前へ、前へ──もっと遠くへ。何処へでもいい、とにかくここではない何処かへ。あの悪魔のような連中が追って来れない場所なら、何処どこでも構わないから。


「見つけたぞ、このガキめが! 手間を掛けさせやがって……っ!」

 聞くも不愉快なだみ声が、早くも後ろから聞こえてくる。

 少年の背中に戦慄が走った。それでも振り返ることは許されなかったから、少年はひたすら走り続けた。


 細高い木々が林立する森の中で、小回りのきく少年の身体は有利に働くかに思われたが、歩幅の違いは埋められようもない。


 遠くでフクロウが鳴いていた。

 夜の森は危ないよ。太陽が落ちた後は、入ってはいけないよ……。口を酸っぱくしながら、大人たちが少年に幾度となく語ってきたことを。忘れた訳じゃない。

 しかし、他に道などどこにもなかったのだ。


「待ちやがれ、小僧! 逃がすか!」

 ザクザクと、乾いた木の葉と小枝を踏みつぶす音が、背後に迫る。

「う……っ、はあ、はぁ……っ!」

 少年はそれでも走り続けた。


 喉が乾く。汗が全身から噴き出して、心臓が痛いほど高鳴る。吐き気がして、涙が零れそうになった。狩人に追われる動物はみな、こんな思いをするのだろうか。

 だめだ、もっと、もっと遠くへ──。


「捕まえたぞ、ガキがぁ!」

「うわあ!」


 必死に動かしていた足が突然、宙をかいたかと思うと、少年の身体はあっけなく大男に捕らえられていた。襟首を掴まれて乱暴に持ち上げられる。

 まるで玩具のように振り回されたあと、少年は男の脇に抱えられた。


「おろせっ、おろしてくれよ……嫌だ。嫌だよ……!」

「うるせぇ小僧だ。どんだけ騒いだって、結果は変わらねぇよ。お前みたいな親なし子は皆売られるんだ」

「嘘だ! 院長さんはそんな事しない!」


 少年は暴れ、抵抗したが、大男はそれを愉快そうにあしらうばかりだった。

 酒が入ったような赤みがかった顔に、熊をそのまま人に変えたような大柄の男は、少年を連れ抱えたまま足早に元来た道を戻りはじめた。


「お前だけじゃない。お前の仲間だった孤児院のカギ達も皆、すでに売っぱらっわれたぜ。あの院長だって一枚噛んでる……この街は弱肉強食だからな。金が払えなきゃ、売れるもんを売るしかないんだ。それがお前らだった、って訳さ」

「……な……」

 少年の瞳が、驚きに揺れる。

「そんな……」

 急に、小さな身体から力が、零れ落ちるように抜けていった。



 この街に悲劇が尽きることはない。

 栄光の数だけ、その陰に泣く者がいる。それは変えようもない現実で、似たような場面を、一体幾度見せつけられてきただろう。黒の衣装に身を包んだ長身の男は、静かにその光景を見つめていた。


 脳裏に浮かぶのは過去。少年は過去の自分そのものだった。



 少年は大男に抱えられたまま、すすり泣きをもらし、徐々に抵抗の意思を失っていくようだった。

「う……うっ……、ひっく……」

「そうだ、諦めな。今に仲間にも会えるだろうよ」

 靴はぼろぼろで、夜の森を無闇に走った際についた傷が、痛々しく手足に付いている。


 男は少年が大人しくなったことに気を良くしたのか、森を抜ける頃には陽気な鼻歌さえ歌い始めていた。やがて少年が逃げ込んでいた森は終わり、街の明かりが先に見えてくる。「え……」

 明かり……妙に、まぶしい……


「あ……いえ、家が!」

 街の外れ、森の入口のすぐそばにある一軒家が、炎に包まれていた。

 小さな木造に立ちのぼる業火が、辺りを緋色に照らしている。もうもうと浮き上がる煙幕が、夜空に白んで見えた。

「さすがボロ屋だな、ひとたまりもねぇ」

 また男が鼻歌交じりに言った。


 少年は首をよじり、男の顔を見上げた。火炎に照らされたその顔には、卑猥な笑みが浮かんでいる。──そして理解した。院長が一枚噛んでいるなんて嘘だ。院長は僕らを売ったんじゃない。もしそうだったなら、家を燃やされるわけがないじゃないか!


「離せ、はなせよ!」

 再び暴れだした少年に、男はチッと舌打ちした。

「院長さんはどこにいるんだよ! トムは、エクはどこにやった!」

「言ったじゃねえか、売っぱらわれるってな。院長と一番小せぇのは、売り物にすらならねぇ……焼け死ぬのが関の山さ」

「なっ」


 少年の顔が蒼白になる。

 孤児院はほんの小さなもので、年老いた院長と、四人の子供がいるだけだった。しかし全員で肩を寄せ合い、貧しくも幸せに暮らしていたのだ。自分たちが経済的に苦しい状況にあるのは、まだ幼い少年にも分かっていた。


 時々、院長が柄の悪い連中に、脅迫のようなものを受けていたのも……薄々とは感じていた。

 負けん気の強い年長の少年は、事あるごとに、何があっても彼らを守ってやると、胸を張って言い続けてきたのだ──。


「離せ!」

「うあっ!」

 少年は大男の腕に強く歯を立てた。

 激痛に、大男は腕を振り上げ、少年の華奢な身体が地面にドサリと落とされる。

 背を打ち付けられた痛みもかまわず、少年は燃え盛る一軒家へ向かい駆け出した。その時だ。夜の疾風が吹き抜け、火勢がよりいっそう増した。

 炸裂音がして、燃え残っていた窓ガラスが割れ、弾け散る。


「院長、カレンー!」

 それでも少年は前へ進もうとした。

 すすが目に入り、涙が込み上げ、視界を邪魔する。

 烈火の炎。

 この中に彼らが──。


「待ちやがれ、お前にまで焼け死なれたら、元も子もねぇ!」

 しかし大男はすぐ少年に追いつき、小さい身体を羽交い絞めにした。少年はそれこそ、自身が炎の中でもがき苦しんでいるかのように、必死に肢体をばたつかせた。

 その間も炎は勢いを増し、ついには一軒家の入口を完全にふさいでいく。


「ああ……あぁ……」

 容赦なく燃え続ける炎に、少年は絶望の声を漏らした。

「諦めるんだな、お前は──」

 と、

 大男が言いかけた。その時、どこからともなく少年の前に風が吹いた。



 少年はきっとこの瞬間を忘れない。

 ──自分がそうだったように。



 黒いビロードが、炎に赤らむ空を横切る。

「あっ、」

 声を上げる隙もない……。


 それほど鮮やかに、しなやかな黒い影が少年の目の前に現れたかと思うと、大男に素早い手剣を放った。短い衝撃とともに、大男が地面へ倒れ落ちる。

 急に束縛から放たれた身体をもてあまし、ふらりと倒れそうになった少年の身体を、その黒い影がしかと支えた。

 肩に触れた手に、その影が人間だったのだと、気付く。


 ──少年の目の前には、黒いマスクに顔を隠した背の高い男の姿があった。


「あ、あなた、は……」

 言いかけた少年に、黒いマスクの男はシッと唇に人差し指をあてて遮った。そして、漆黒の衣装に合った、低く男らしい声が、ゆっくりと問いかける。

「中に人がいるな。どの部屋か分かるか、どう辿り着けるか」

「い……院長と、カレンは……きっと奥の寝室に……入ってすぐの廊下を右へまっすぐ行った、突き当たりの……」

「分かった。ここで待っていろ」

「あ!」


 目の前で、黒いマントがひるがえされる。

 そして目にも留まらぬ速さで、その黒い影は、緋色に燃え上がる炎の中に消えていった──。

 振りかかる火の粉に目を細めながら、少年は、男の影が消えていった先を見つめる。


「黒の……怪盗……?」


 少年は、膝が震えるのを止められなかった。

 密かにルザーンの悪を狩り、不正にさらされた弱き者たちを助けるという、謎の男。

 黒のマスクに顔を隠し、その素顔を見た者はまだ、どこにもいないという伝説の──


「本当に、いた、んだ……」



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