太陽と月の終わらない恋の歌
泉野ジュール(Jules)
本編
予告短編
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地平線に落ちる太陽と、薄暗くなった空に淡く現れた月を見比べて、マノンは呟いた。
「私とダヴィッドみたいね」
窓辺にうとうととしていた白猫が、ニャオと甘く答えた。
今宵のサイデン邸は華やかに賑わっていた──
豪華な邸宅の大広間に、着飾った紳士淑女達が所狭しと集まり、歓談を交わし合い、音楽と、振舞われる美味や極上の酒に酔いしれている。
彼らの話題は限られていた。
醜聞、ビジネス、そして──主催者ダヴィッド・サイデンについて、だ。
「今夜もサイデン様は素敵。なぜ彼のような美丈夫の億万長者が、いつまでも一人身でいるのかしら」
「先月の取引は素晴らしかった。彼は最高の実業家だ」
当のダヴィッドは、賞賛を聞き流しつつ、数々の来賓へ挨拶をして回っている。
誰も彼もが、ダヴィッドに近づかれると背筋を伸ばした。「今夜は楽しんで貰えているだろうか」と彼に聞かれて、否定する者がいないのを、穏やかな笑顔で喜んでいるようだ。髪に合った漆黒のスーツが彼の長身を美しく飾り、女達の感嘆を誘っている。
時々、綺麗な大人の女性が、ダヴィッドの肩に手を乗せて話しかけていた。
──大人たちの世界。
マノンは、ホールに繋がる大きな階段の枠の隙間から、そんな下階の様子をじっと見ていた。
控え室に上がってくる客が時々、「まぁ、これは可愛らしいお嬢さんね。貴女がサイデン様の引き取られた孤児かしら」とマノンに声を掛けてくる。
マノンは彼らの期待通りの 笑顔で、上品に答えていった。
「ありがとうございます」
それがダヴィッドの望むことだと思うから、マノンは何でも出来た。
可愛いお人形さん。
マノンの存在価値は、多分、それ以上では有り得ないのだ。
「マノン」
しばらくすると、頭上からダヴィッドの低い声が響いた。マノンが顔を上げる。いつの間にか下階の大広間にいたはずのダヴィッドが、マノンを見下ろしていた。
その顔には、外階の来客達には決して見せない、眉間の皺がありありと寄っている。
「ダヴィッド……」
「部屋に下がっていろと言った筈だ。今すぐ戻りなさい」
「少しだけ、音楽を聴きたかったの」
「音楽など明日、お前の為だけに奏でさせてやる。人前に姿を見せるなと言っただろう」
苛立った、ダヴィッドの低い声──マノンは寂しそうに目を伏せ、小声で「ごめんなさい」を言うと、足早に部屋へ戻った。そんな小さな彼女の後姿を、ダヴィッドの鋭い瞳が追い続ける。
ダヴィッドの夜は複雑だ。
マノンはそれを知っているから、少しくらい厳しいことを言われても、我慢する。
夜会で着飾り、ダヴィッドに媚びる大人の女性達に対しても、ダヴィッドの夜の秘密を知っているという優越感だけが、マノンを支えてくれる。
「もうすぐ満月ね」
晩餐会の喧騒を遠くに聞きながら、一人きりの窓辺でふっくらと膨らんだ月に呟くと、また白猫がミャ、と短く答えた。……その深夜。
「怪盗が出たぞー!」
夜警の怒声と共に、やかましい鐘鈴が街中に響く。
「『黒の怪盗』がカルロ邸を襲った! 早く、早く奴を捕らえるんだ!」
バラバラと乱雑な足音がそれに続く。彼らは怪盗を追っているのだ。しかし彼らの努力が無駄に終わるのを、マノンは知っている。
どうして彼らはあんなに重い長靴を履いているのだろうかと、マノンは少し疑問に思った。あれでは追跡者はここにいると声を上げているようなものだ。『黒の怪盗』が、それを聞き逃す筈がない。
黒の怪盗。夜の闇を駆け抜ける宝石。
それでも彼はマノンにとって、紛れもない太陽なのだ。
しばらくして騒動が収まってきても、マノンは窓辺を離れられず、夜風に当たりながら外を眺めていた。
「……寝ていろと、言わなかったか」
急に、背後からダヴィッドの声が聞こえて、マノンは振り返った。
部屋の入り口に彼が立っている。黒いシャツに黒いズボン、そして外した黒のマントを手に持って、先刻に勝るとも劣らぬ眉間の皺を隠そうともせずに、マノンを見ていた。
「眠れなくて……」
マノンが言うと、ダヴィッドはマントをクロークに投げ掛けて、深い溜息を吐いた。
「生意気なことを言うようになったものだ」
そう言うとダヴィッドは、マノンの立っている窓辺に素早い足取りで近づいてきた。軽々とマノンを拾い上げると、彼女を膝の上に置いて、窓の縁に腰掛ける。
ぽっかりと浮かんだ月明かりの下、ダヴィッドの胸に抱かれたマノンは、ゆっくりと、深い安心感を覚えていった。
それと同時に、淡い眠気をも。
「夜警たちが、怪盗を追うのを見ていたの」
小さなマノンの声に、ダヴィッドは一瞬沈黙した。そして、月を見上げると答えた。
「カルロは傲慢な卑怯者だった。財産にものを言わせ、小さな農園を幾つも追い詰めた。因果応報というものだ」
「そう?」
「そうだ」
『黒の怪盗』はそういった者しか狙わない。
だからこそ夜警たちも、本気になって彼を追わないのかもしれなかった。
「怪盗は捕まったりしないって、分かってたわ。でも、少しだけ怖かったの」
マノンは顔を上げて、ダヴィッドの方を振り返った。
ツン、と汗の匂いがマノンの小さな鼻をつく。ダヴィッドの胸元が、わずかに汗ばんでいるのに気が付いた。
マノンと視線が合うと、ダヴィッドは優しく微笑んで見せる。
「お前が怖がる必要はあるまい」
──不思議と、ダヴィッドがそう言うと、それが真実だと思えるのだ。
マノンはこくりと頷くと、そのままダヴィッドの胸に身体を預け、もう一度遠くの月を見上げた。
「あの、夜、」
マノンの小さな声に気が付いて、ダヴィッドは彼女の顔を覗き込んだ。
すっとダヴィッドの骨々しい手がマノンの頬へ差し出される。気持ちよくて、マノンは子猫のように目を細めた。
「あの夜のこと……思い出してたの……」
「何のために?」
「満月の夜、私は街の隅っこに……捨てられてた……そうしたら、突然真っ黒い格好をした大きな男の人が来て……」
「お前をさらった」
「違う、拾ってくれたの」
マノンはやっとダヴィッドの顔を正面から覗いた。あの夜と同じ情熱的な黒の瞳が、マノンを捕らえているのを見る。
「ダヴィッド、あそこにいた女の人達の誰かと、結婚、するの……?」
ダヴィッドの瞳が少し見開かれた。その仕草はまた、どこか呆れているようでもある。
「お前はまだ、結婚の意味さえ分かってはいまい」
「分かるもの、もう十二歳なんだから! それに、あそこにいた女の人達じゃなくても、いつか、ダヴィッドが結婚したら、私は、」
邪魔になる。
そう言いかけたマノンの口元に、ダヴィッドの人差し指が当たった。そして、「あっ」と声を上げるまでもなく、マノンの身体は高く抱きかかえられて、宙に浮いていた──あの夜 のように。
「俺が結婚するとき」
ダヴィッドはマノンを宙に抱いたまま、静かに、ぞくりとするほど低く落ち着いた声で、宣言した。
「お前は俺から二度と離れられなくなる。それが俺にとっての、結婚の意味だ」
太陽を求める少女がいた。
月を求める男がいた。
ただ月は、まだ、あまりにも幼くて──今は、高く空に昇るのを待っている。
「?」
マノンは首を傾げた。
「やはり、お前はまだ分かっていないよ」
「む……」
「さあ、もう寝るがいい。今夜はもう何処にも行かないつもりだ」
「本当?」
悲しみに沈んでいたマノンの瞳が、ぱっと輝く。その変わり身の速さは、やはり子供ならではだ。ダヴィッドは皮肉っぽく自嘲した。
「これではまた、一体いつになることか……」
「ダヴィッド?」
「いいや、何でもないよ」
太陽と月、今はまだ密やかに奏でられる、長い長い、終わらない恋の歌……。
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